2024年1月9日火曜日

大杉栄とその時代年表(4) 1885(明治18)年 6月~7月 大杉栄一家、東京府麹町区番町に移る 明治大洪水 子規(18)落第 漱石(18)遠泳参加 幸田露伴(18)北海道余市に赴任 都市下層民の「餓鬼道地獄」現出(「朝野新聞」) 『女学雑誌』創刊   

 


大杉栄とその時代年表(3) 1885(明治18)年 4月~5月 中里介山・宮崎郁雨・正力松太郎・野上弥生子・武者小路実篤、誕生 尾崎紅葉『我楽多文庫』創刊 「全国的な飢饉ー酸鼻の極、草根木皮をかじり死馬を食う」(朝野新聞) 漱石、江の島へ徒歩遠足 より続く

1885(明治18)

6月頃

大杉栄の父・東、近衛歩兵第3連隊に転属となり、一家で東京府麹町区番町に移る。

6月

北村透谷、大井憲太郎らの朝鮮革命計画に参加するよう大矢正夫に勧誘されるが、応じず。月末、石坂公歴と放浪の旅に出る。

6月

徳富蘇峰(私家版)「第十九世紀日本の青年及其教育」。論壇にデビュー。「明治ノ青年ハ天保ノ老人ヨリ導カルルモノニアラズシテ。天保ノ老人ヲ導クモノナル。」

6月

子規(18)の体格

 「明治十八年六月満十七歳、予備門第一学年終りの子規の体格は、身長百六十センチ、体重四十九キロであった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )


6月2日

武州秩父・榛沢3郡では「大小の別なく人家は皆食物に窮し、・・・貧民は・・・死馬死犬ある時は悉く秣場の持ち往きて皮を剥ぎ、其肉を食ふを最上の珍味となす」(「東京日日」)。

6月9日

【清仏天津条約締結】

天津、李鴻章と仏公使パトノートルが修好通商和平条約(清仏天津条約)を締結(清仏戦争終結)。

①清はヴェトナムを仏保護国と認める、②清は保勝(ラオカイ)とランソン以北に各一通商港を開く、③清が鉄道を建設する際は仏の業者と商議する、④仏は、基隆・澎湖島から撤退するなど。1886年辺境通商章程、1887年国境協定などにより補完。

これにより、仏はインドシナ植民地を確立、中国南部での通商・鉄道特権を獲得(帝国主義確立に一歩踏み出す)。清の宗主権の打破はビルマ・朝鮮など他の藩属国への列強の侵略を促し、清朝中心の東アジア国際秩序の解体、帝国主義列強の分割競争の第一歩となる。清朝内部では洋務運動が打撃を受け、変法運動の思想的準備が始められる。

現地で善戦しているにも拘らず、西太后は李鴻章の意見を容れて講和。戦争継続すれば、李鴻章は北洋軍閥をベトナムに送らねばならない。仮に清が勝利しても、軍閥の力は削がれ発言力も弱まる。西太后の側も、恭親王らの古参重臣を排除し権力奪取目的を果たしているので、これに同意。

6月15日

明治大洪水

6月上旬より続いた降雨に加え、6月15日には北朝鮮北部に現れた低気圧(748mm)が、17日には瀬戸内海西部に現れた低気圧(753mm)が、相次いで大阪付近を襲う。降り続いた雨は15日夜半から豪雨となり、17日夜半までに淀川で計183.3mmに達する。

さらに雨は6月25日頃から再び降り始め、29日から本格的となり、7月1日には暴風も加わって、淀川の水位上昇に追い打ちをかける。

増水した淀川は、6月17日午後8時30分には枚方で4.24mの水位となり、左岸枚方駅北岡新町(現・枚方市)の市側天野川堤防が決壊するとともに、三矢村地先の淀川堤防が決壊した。さらに破堤箇所の水勢は勢いを増して決壊箇所をえぐり、19日にはその傷口が145.5mに拡大、浸水は大阪市にも達し、なお河内平野から大阪市に流入している支川寝屋川堤防(通称「徳庵提」)にも迫り、全堤防が破壊の危機にさらされた。  

そこでこの濁水を本川に戻すため、東成郡野田村(現・都島区網島)の堤防を切開して淀川に放流(俗称「わざと切れ」)、また堰止め工事も進められた。

しかし6月25日からの再度の暴風雨により枚方水位は2.6mに達し、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防が決壊、濁水はまた大阪市へと氾濫していく。堰止め工事がまだ7割方しか完成していなかったため伊加賀堤防は再び決壊し、さらに宇治川、木津川、桂川など各支川の堤防が次々に決壊した。ことに寝屋川の水勢は強く、枚方切れの溢水と相まって「徳庵提」を破り、若江、河田、渋川(中河内郡)に侵入、大和川右岸にまでおよぶ一大湖水を現出させた。また淀川筋左岸では伊加賀のほか、船橋川、穂谷川河口付近、右岸では桧尾川3カ所、京都府下では宇治川筋槙島村、向島村、納所村、木津川筋では右岸岡崎村(加茂町)、井手村(井手町)、多賀村など計46カ所の堤防が決壊し、淀川本支川はほとんど決壊しないところがないような有様となる。

さきの低気圧による洪水では、茨田郡全部(北河内郡)と讃良郡7カ村、東成郡27カ村(城東区・旭区・都島区)に濁水が溢れ、計113カ町村、戸数約9,900、反別約4,452.6haが水中に没した。  

さらに再び襲った暴風雨により被害は拡大、大阪市街の浸水町数は東区28、南区46、西区174、北区92の各町で計340町におよび、大阪城~天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は276,049人に達した。また、808橋といわれた大阪の橋は30余橋が次々に落ち、橋によって通行の要衝を連絡していた市内の交通は完全にマヒ、市民生活は困難を極めた。"

6月23日

石阪公歴、北村門太郎(透谷)とともに九州までの大旅行をを計画、この日、出立。中途挫折。透谷はこの相州放浪を「富士山遊びの記憶」に書上げ、去る明治16年7月の不況下の津久井郡・北都留郡の悲惨な人民生活を描く。

6月24日

坪内逍遙(26)、人情世態小説「一読三嘆当世書生気質」(全17冊)(晩青堂)~19年1月。日本初の文学理論書「小説真髄」(この年9月出版)の応用編(出版社の都合で「書生気質」が先に出版)。


「「あたかも鬼ガ島の宝物を満載して帰る桃太郎の舟のように歓迎された」と述べたのは『思い出す人々』の内田魯庵(慶応四年生まれ)であるが、支持された理由の一つに、逍遥の「文学士」という肩書があった。魯庵は同じく『思い出す人々』で、こう書いている。


丁度政治が数年後の国会開設を公約されて休息期に入って民心が文学に傾き、リットンやスコットの翻訳小説が続出して歓迎され、政治家の創作が頻りに流行して新らしい機運に向いていた時であったから、今の博士よりも遥にヨリ以上重視された文学士の肩書を署した春迺舎(はるのや)の新作は忽ち空前の人気を沸騰し、堂々たる文学士が指を小説に染めたという事は従来戯作視した小説の文学的位置を重くもし、世間の好奇心を一層喚びもした。その頃までは青年の青雲の希望は政治に限られ、下宿屋から直ちに参議となって太政官に乗り込もうというのが青年の理想であった時代であったから、天下の最高学府の出身者が春迺舎朧(はるのやおぼろ)という粋な雅号で戯作の真似をするというは弁護士の娘が女優になったり、華族の冷飯がキネマの興行師となるよりも一層意外で、『書生気質』が天下を騒がしたのはその芸術的効果よりも実は文学士の肩書の威力であった。


魯庵は続けて、「美妙や紅葉が文学を以て生命とする志を立てたのも、動機は春迺舎の成功に衝動されたのだ」と言い切っている。

『当世書生気質』は逍遥や同級の高田早苗、山田一郎らのノンシャランな学生時代をモデルに描いた「青春」小説であるが、それが発表され始めた明治十八年当時、逍遥らの後輩として大学予備門に通っていた、紅葉や子規、熊楠たちは、自分ごとのように身近に、その小説を読みふけったことだろう。

七人男たちの内で明治十八年の日記が公刊されているのは熊楠だけである。そしてその日記から熊楠が『当世書生気質』の最新巻(『書生気質』全十七冊は、一種の雑誌形式をとりながら、毎月一冊ないし二冊が刊行されていった)を心待ちにしていた様子が、よくわかる(『七人の旋毛曲り』)


7月

子規(18)、東京大学予備門予科三級学年末試験で不合格となり落第。


「数学の時間には英語より外の語は使われぬという規制」があり、「数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない」

「余が落第したのは幾何学に落第したといふよりは寧ろ英語に落第したといふ方が適当であらう。それは幾何學の初めにあるコンヴァース、オツポジトなどゝいふ事を英語で言ふのが余には出来なんだので其外二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかつた位に英語が分らなかつた」(『墨汁一滴』)


橋本左五郎も落第して、海軍兵学校に入るか、札幌農学校に入るか迷ったが、徴兵の関係もあり、先に試験を受けた農学校に合格した。札幌に行く時、橋本の袴がぼろぼろだったので、漱石が「これを穿いて行け。」と言って袴をやったが、これも裾は擦り切れていた。剣舞をする男が穿くような、粗い白い縞の袴を穿き、行李を網に入れ背負って、刀を一本差して、札幌目指して行った。

翌8月、橋本は札幌農学校に入学。

7月

子規(18)の妹律,結婚。夏、帰省中に桂園派の歌人井出真棹に歌を学ぶ。

7月

漱石(18)、遠泳参加


「七月(推定)、遠流し(遠泳)に参加する。隅田川の両国橋の下から、満潮に乗って、上流の言問橋まで。金之助は、途中で脱落する。(太田達人談(森田草平筆録)) 太田達人・土屋員安がゴールまで泳ぐ。」


7月

幸田露伴(18)、築地の中央電信局での実習を終え、判任官に補せられ、十等技手として北海道余市に赴任。官費生は3年間の地方分局勤務が義務づけられていた。本俸12円、諸手当を加えると毎月30円ほどになった。

7月

「資本論」第2巻、エンゲルスにより完成、出版。2月からは第3巻に取り掛かるが完成までに9年を要す

7月12日

東京・大阪・京都・横浜など、周辺農村からの逃亡農民のため都市下層民の「餓鬼道地獄」現出(「朝野新聞」)。

7月20日

キリスト教に基づく婦人雑誌『女学雑誌』創刊。~明治30年2月(526号以後不明)。24号以後は、巌本善治が編集。キリスト教的理想主義に基づく女性啓謙雑誌で『文学界』のロマン主義の先駆をなす。文学的な面では、男子にも愛読される。


つづく

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