2024年4月18日木曜日

大杉栄とその時代年表(104) 1894(明治27)年4月1日~5月1日 対清強硬(戦争)論高まる 愛知県庁の工場労働者、「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態 一葉、丸山福山町に転居 「水の上」時代  「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来      

 


大杉栄とその時代年表(103) 1894(明治27)年3月28日~4月 日本に亡命していた朝鮮の独立派政治家金玉均(44)が上海で暗殺される 全羅道で東学党蜂起 一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)日記を書かず より続く

1894(明治27)年

4月1日

一葉の兄虎之助より1円50銭送金

4月7日

宮城道雄、誕生。

4月11日

「自由新聞」、対韓政策を貫くためには「まず対清の強硬を決心」することが必要と「忠告」。13日「戦決して避くべからざるなり」と説く。

4月11日

一葉、「文学界」同人と写真撮影会と懇親会に出席

4月13日

福沢諭吉、金玉均の暗殺と遺体の朝鮮送致に関して、「日本人の感情は到底釈然たるを得ざるべし」と論評。対外硬派は清韓同罪論を主張。

外務次官林董「回顧録」では陸奥外相の日清戦争決意はこの時と証言

玄洋社的野半介は陸奥外相に面会して対清戦争決意促す。陸奥は時期でないと述べ、川上参謀次長を紹介。川上は「火の手」が上がれば火消しはやると言明し、「火の手」の上がるのを促す。玄洋社は、後に「天佑侠」と名乗る朝鮮派遣隊組織に取り掛かる。

4月13日

徳川夢声、誕生。

4月17日

ニキータ・フルシチョフ、誕生。

4月20日

漱石の俳句が初めて『小日本』に掲載される。


「烏帽子着て渡る禰宜あり春の川」


これに続いて、1句ずつ掲載される。

「小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼」(4月25日)

「菜の花の中に小川のうねりかな」(4月28日)。

4月21日

「金(玉均)朴(泳孝)遭難演説会」、東京で開催。23日にも。日本の国権を冒すものとして、日本の朝野は憤慨。

大井憲太郎、「我日本国は彼れ朝鮮の馬脚に掛けられたるものと謂はざるべからず。何んぞ、彼れ朝鮮の無礼を不問に置くぺけんや」と演説、

改進党員肥塚竜は「洪鐘字が放てる第一発の弾丸は果敢なくも金氏を穀せり。然れ共、其第二発は実に我国の躰面を傷つけたるを忘るぺからず。・・・我が躰面を傷つけたるものは洪鐘字にあらずして支那、朝鮮両国の共謀」と演説。

4月21日

狩野亨吉、第四高等学校を辞任して帰京。狩野はこの後4年間浪人生活を送り、明治31年1月、漱石の推薦で熊本第五高等学校に着任する。

4月22日

ハンガリー、大平原ホードメゼーヴァーシャールヘイで農業社会主義者騒乱。警察は労働者協会捜査。翌日、サーントー・コヴァーナ・ヤーノシュ逮捕。民衆・軍隊衝突。

4月25日

朝鮮、大将全琫準、総管領孫和中・金開南。蜂起目標公表。農民軍8,000組織。全羅道の首邑・全州を目指し、黄土峴という台地に移動。政府は、全羅道監司金文鉉・左領将李景鎬に討伐軍1600を編成させ、黄土峴に進ませる。

4月26日

一葉が石川銀次郎に依頼していた金が石川宗助(先代主人)によって届けられるが、依頼の50円に対して15円。今年は花が咲くのも散るのも早く、蒲鉾の売り上げが不振だったという。これが樋口家の転宅資金となる。

4月30日

一葉「花ごもり」其5~其7、『文学界』第16号に掲載。

4月30日

愛知県庁の工場調査。労働者2万3千(うち女子1万7千)。織物1/3(拘束時間12~16時間)、製糸1/3(11~17時間)、紡績1/4(旧式15~17時間、機械11~12時間)。「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態

4月下旬

高野房太郎(25)、ニューヨークに移る。


5月

(時期不明)日本陸軍、実情調査名目で伊地知幸介証左らを釜山に派遣。釜山では、伊地知と繋がりのある内田良平(のち国竜会創設)・玄洋社社長頭山満配下の10数人が「天佑侠」結成。彼らは、東学党幹部に面会を申入れ、鉱山用ダイナマイト提供など申し出る。

5月

新聞各紙、朝鮮駐在公使大石正巳の防穀事件に関する強硬な「賠償」交渉を支持

この月、「自由」は「強硬政策を断行せよ」「姑息の平和を排せよ」との社説を掲げ大石を支援。改進党系新聞も同様で、「郵便報知新聞」5月18日号は弁償の約束だけでも今日結んで国家の威信を保持せよといい、「毎日新聞」(1886年5月「東京横浜毎日新聞」を改称)5月11号は「本邦朝野の耳目之れに傾く者は金高の上にあらずして国権の上にあるなり」と主張。陸掲南も「公使の挙動の不穏たるや否やを問ふ勿れ」(「日本」5月18日)で大石を支持。

5月

尾崎紅葉『心の闇』

5月

尾崎紅葉・大橋乙羽『西鶴全集』

5月

一葉家族、本郷区丸山福山町4番地(文京区西片1丁目17番)に転居

月額2円で「萩の舎」助教となる。


「五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。」


この年から、星野天知、馬場孤蝶、戸川秋骨等文学界同人が多数来訪。

12月「大つごもり」発表。


「阿部邸(江戸時代の福山藩主阿部家の武家地)の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜といひしうなぎやのはなれ坐敷成しとて、さのみふるくもあらず。家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ」(「塵中につ記」明27・4)

住居は西片町の高台の崖下にあった。この新居は「守喜」(もりき)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋であった。前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。馬場孤蝶は一葉の旧居について後年、次のように記している。「方三尺位な履脱(くつぬぎ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。池の上に建っていたので、当時の日記の表題は「水の上」と付けられている。四番地から北は以前は畑で、明治20年代に埋め立てられ銘酒屋や飲食店がたくさんできていた。「にごりえ」の菊の井はその界隈の銘酒屋の一軒として描かれている。

馬場孤蝶の回想。

「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋の中心であったやうだ」、「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(なか)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。

一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。


「となりに酒うる家あり。女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」


「ゆしまの坂道は此ほどまで町やにて、いとにぎやかなりしが、家をこぼち道をひろげて岩崎ぬしのやしきに成しより、石垣たかくつみて木立ひまなく、やみのよなどいとさびしくなりぬ

   月まではいかにやいかによの中の

        ひかりはおのが物になしても」(感想・聞書「しのぶぐさ」)


(「湯島の坂通りは最近まで商人たちの家が建ち並び大変賑やかでしたが、家を壊し道を拡げ岩崎氏の邸宅になってからは、石垣を高く積み植込みの樹々が茂り、夜などはすっかり寂しい通りになってしまった。

世の中のことは何でも自由にできる岩崎財閥でも、月の光まではどうにもならないものだ。」)

湯島天神下の切通し坂(春日通り)は、この頃、東京市の市区治改正工事によって道幅が大幅に広げられている。明治11年、岩崎弥太郎が深川区の清澄町、本郷区の六義園、下谷茅町のこの地区(現、池之端1-3)を購入するが、この頃には、更に所有面積を広げ、下谷区から本郷区にまたがり、切通し坂から無縁坂にかけて1万5千坪になる(現在の旧岩崎邸庭園の3倍)。日清戦争に向かうこの時代に、三菱は莫大な富を蓄積している。

三菱合資会社社長岩崎久弥(28)は、この頃は六義園内の邸宅に居住しているが、明治29年、茅町の本邸にジョサイア・コンドル設計の洋館が完成して転居する。

一葉は、その富者に痛烈な皮肉を浴びせる。

龍泉寺や福山町に住む一葉に非難を浴びせる者もいるが、一葉は肚を据えてこれに反撥。

三宅花圃の談話。

「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(みぐ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく

   なかなかにえらまぬ宿のあしがきの

      あしき隣もよしや世の中

とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)

日清戦争と生活の窮乏:

新居での一葉たちは、たちまち困窮を極めた。引越しの準備として用意した資金は、店を引き払う際の出費と生活費でほとんど無くなってしまった。折から日清戦争による物資の不足やインフレが、窮乏に一層の拍車をかけた。朝鮮半島で起こっている非常事態の詳細は、新聞を取ることのできない一葉にとって、容易に知り得る所ではなかった。そのため、一葉は戦争に対してむしろ冷静であった

戸川秋骨が、丸山福山町を訪ねた印象として、「会ってみると想像とは全然違った、調子のいゝ人懐っこい方でした。戸外に号外号外と呼ぶ声が頻りに聞えるので、世間では大分騒いでゐますね、といって一寸澄して居られた様子なぞは甚く私共の気に入ったので其後はしばしばお邪魔にあがりました。」と語っている(『国民新聞』明治41年11月23日付)。

しかし丸山福山町での生活は、借金の融通を交渉した相手にすべて断られるなど、屈辱と後悔の日々であった。

所謂「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来

丸山福山町で、「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)と、次々に晩年の作品を書き続ける。


①26年3月、「雪の日」発表を契機とする「文学界」同人との交流による文学的開眼。

②下谷竜泉寺町、丸山福山町の暮らしの中で、底辺に生きる庶民の赤裸な生活にじかに接することによって、現実を見据え、客観的にものごとを観察できる視点を身につける。

③この年7月の樋口幸作の病死の影響。

一葉は、「わが身の宿世もそぞろに悲し」と記して自分の短命を予知するところとなる。幸作の死は、一葉に結婚をあらためて断念させ、その創作意欲をいっそう駆りたて、自己を生かす道は小説を書くことより他にないとの決意を促すことになった。

創作の転機になった原因には、他にも、萩の舎を焦点とする旧派和歌への失望と、歌塾の師となる希望の放棄、そして、半井桃水に対する恋情の清算ないしは超脱といった諸要素の、重層的な発生にも拠るところが大であった。

日記は「水の上」又は「水の上日記」と改題。

①「塵の中」期の最後の日記と「水の上」期の最初の日記の問に1ヶ月の空白(1冊分の記録が散逸)。

②27年7月~28年4月が大きく欠落(11月9日~13日の部分は現存)。一葉が処分したと考えられる。この欠落部分には、日清戦争の興奮や久佐賀義孝・村上浪六らとの苦い交渉が記録されていたはずである

③28年6月~10月、11月~12月、29年2月~5月も空白。これは「にごりえ」「十三夜」「たけくらペ」「わかれ道」「通俗書簡文」「われから」などの執筆に忙殺されて記録を怠ったと考えられる。

④傍系日記としては、「つゆしづく」の後半部分、二つの残簡(明27・秋~同28・1)、「しのぶぐさ」(明28・1~2)が詞書の和歌の形式で書かれ、序文だけが書かれた「詞がきの歌」もある。

続いて、「随感録」「さをのしづく」(明28・2~4)がある。「しのぶぐさ」は詞書に日付が多く出て来るので、日件録に近い印象を与える。

雑記系統は、日清戦争時に書かれた「かきあつめ」(明27、28頃)と「うたかた」(明27・末~同28・冬)が存在するだけ。

記録は29年7月22日で終り、その後「はな紅葉一の巻」の余白を使用して病床でわずかな手記が書かれ、それが最後の日記になっている。


つづく


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