1894(明治27)年
3月28日
金玉均(44)、上海着。旧守派密命(背後に高宗)帯びた洪鐘宇により暗殺。4月4日、遺体を朝鮮に陸揚げ処刑、
金玉均;
科挙の文科に合格、1872年に任官。実学(朝鮮の儒教の観念的な学問から脱却して西洋の学問を取り入れ、実用的な経世のための学問をめざす)の影響を受け、朴珪寿(シャーマン号事件を撃退した指揮官)の門下生となる。朝鮮王朝の停滞を打破する手本として学ぼうとしたのが明治維新を達成して近代化に着手していた日本であった。同志として朴泳孝などと交流し、開化派を形成したが、宮廷内の閔妃一族など守旧派(清との関係を重視し事大党とも言われた)からは独立党という一派を結成したとして非難され、対立が深まる。
1882年2月~7月、日本に遊学、長崎・京都・大阪などを見て、3月6日に東京に入り、後藤象二郎、井上馨、大隈重信、伊藤博文などの政治家と面談し、福沢諭吉とも親密な関係を持つようになる(慶應義塾や興亜会に寄食)。
1876年の日朝修好条規によって開国した朝鮮は、不平等条約のもとで米が日本に流出して米価が高騰、生活が苦しくなった兵士・民衆の中から、1882年に壬午軍乱が起こった。きっかけは給与の米穀が遅配されたことに怒った兵士の反乱であったが、開国を推進した開化派に対する反発が強まったことも背景にあった。反乱軍は閔妃政権を倒し、日本公使館を襲撃し、保守派として人望のあった大院君を担ぎ出した。しかし、まもなく清が介入して大院君は天津に拉致され、閔妃政権が復活し、清の宗主国としての影響力が強まり、日本の勢力は後退した。
この時、金玉均は日本にいたが、政府内の開化派官僚が清の大院君拉致を要請したことに反発した。そのため、清の宗主権のもとでの改革をめざす穏健派が生まれたのに対して、金玉均ら開化派の急進派は清の宗主権を否定して独立を完全な実現することを主張して独立党としての結束を強め、こうして開化派が分裂した。
1882年10月、壬午軍乱の謝罪使として朴泳孝(開化派で最も地位がたかった)が選ばれ、金玉均が随行し、福澤諭吉の仲介で横浜正金銀行から借款を受けることに成功した。そして福沢諭吉の援助によって活字印刷を導入し『漢城旬報』が創刊され、開化派が力を入れた世界情勢の広報も始まった。しかし開化派の勢力拡大に反発する閔妃政権は、朴泳孝を解任するなど圧力を強めたので、金玉均ら急進派は閔妃政権を倒し、清の介入を排除することが急務であると考えるようになった。
ベトナムで清仏戦争が起こり、朝鮮の清軍が手薄になった機会に、1884年12月4日、日本公使の竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こし、いったんは権力を掌握した。5日には開化派中心の内閣を組織し、6日に改革方針として新政綱14ヵ条を発表した。しかし、7日、袁世凱の指揮する清軍が攻撃を開始し、王宮を守る日本軍が撤退したためクーデタは失敗し、権力は3日間で崩壊した。このクーデタ失敗を甲申政変という。
金玉均、朴泳孝ら9人は日本公使館員とともに仁川に脱出し、かろうじて千歳丸に乗船することができた。しかし清の武力を背景に成立した臨時政府の役人は彼らの引き渡しを要求する。日本公使竹添進一郎はあきらめて金玉均らに下船を命令した。金玉均一行は日本公使の冷淡な態度に腹を立てたものの、もはやこれまでと観念し、敵に捕らわれるよりも自刃して果てようと決意した。そのとき千歳丸の船長辻勝三郎は、毅然として「この船に乗船した上はその進退はすべてわたしが預かる」と申し出て船を出した。こうして金玉均らは自決寸前で救われ、日本に向かった。
日本に亡命した金玉均は日本において約10年に近い悲惨な亡命生活を送る。金玉均は岩田秋作と名乗って東京に潜行したが、日本政府はやっかい者扱いし、外務卿井上馨などは会おうともしなかった。朝鮮の開化を応援していた福沢諭吉は金玉均らを自宅に招いてその労をねぎらった。
1885年11月、金玉均は自由党員の大井憲太郎と連絡をとり、大井ら日本の活動家と共に朝鮮に渡り、クーデタを起こそうとした。しかし、閔氏が放った密偵にその計画は探知され、日本政府に伝えられ大井憲太郎が逮捕され、計画は失敗する。日本政府から危険視された金玉均は、小笠原に送られたが、そこで体調を崩しついで札幌に移される。
その後、ようやく東京に戻った金玉均は、李経方(李鴻章の甥で養子、日本清国公使官)と李鴻章に会うため松江府上海県に渡ったが、1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮末期の高官の洪鐘宇に射殺された。犯人の洪鐘宇は日本で金玉均に近づいて信頼され、上海までついてきた男だったが実は、閔氏一派が送り込んだ刺客だった。
金玉均殺害を日本政府は朝鮮王朝と清の謀略であるととらえ、凌遅処斬刑(死体を切り刻む)という凄惨な死をさかんに宣伝し、清との戦争を煽った。
李鴻章は金玉均の屍体を刺客洪鐘宇とともに北洋艦隊の軍艦で朝鮮に送った。朝鮮政府は漢江の江岸にある楊花鎮で屍体に「凌遅処斬」(あらためて体を切り刻むこと)の惨刑を加え、「謀叛大逆不道罪人玉均」と記した札を立てて、さらしものにした。日本では親日派金玉均の死は大々的に報じられ、追悼義金の募集などが始まり、清国の処置に非難が高まった。
金玉均の交友関係は広く、また書家としても名高くその書は生活の費えとしたので日本人もあらそって買っているので、日本人にも知己は多かった。しかし金玉均は日本の、特に政府、有力政治家には裏切られたという意識を強く持っていた。
彼を上海に行かせたのは危険なことはわかっていたが、日本政府はそれを黙認した。また上海で刺客に襲われたとき、付き添っていたただひとりの日本人和田延二郎の証言によると、和田は遺体を日本に運ぼうとしたが、日本領事が妨害し、その棺を居留地警察の手から清国官憲の手に渡してしまったのだという。
洪鐘宇:
1886年に日本に渡り、朝日新聞社の植字工として働きながらフランス語を勉強し、1890年に私費留学した(朝鮮人初のフランス留学生)。朝鮮王朝の中央高官になる夢を持っていが、朝鮮王朝下で高位に上がるには国王・皇后の推薦が必要であり、つてのない洪は諦めていた。
甲申政変で自分を苦境に陥れた金玉均への復讐に燃えていた朝鮮王妃閔妃は、開化派と信頼を得やすく金玉均のそばに近寄れる刺客を探させていた。フランスから帰って日本で生活中の洪に刺客の勧誘があり、洪も閔妃の推薦を受けて官職を得たかったため引き受けた。1894年(明治27年)、洪は甲申政変に失敗して日本に亡命中の金玉均に接近。活動資金を提供すると騙って上海に誘引し、同行した東和洋行ホテルにおいてピストルで銃撃、暗殺した。
帰国した洪鍾宇は閔妃の歓迎を受け、その功績で地方裁判所の長官に任ぜられ、舎宅を与えられた。そして、洪は済州島の長官の任を与えられた。さらに要職を望んだが朝鮮王朝に拒否され、失意の内に愛人を連れてパリに旅立った。朝鮮王朝から開化派暗殺という役割を果たした後は用済みとされ、以後の消息は不明となっている。日韓併合後の1913年には没したとされる。
犬養毅・尾崎行雄らは慣例に従った遺体引渡しを主張。大井憲太郎・井上角五郎・岡本柳之助らは「故金氏友人会」を組織し、岡本と尾崎行雄門下生斉藤耕一郎が遺体引取り交渉のため上海に渡るが、先に遺体は朝鮮に送致。
3月28日
反政府・反自由党系新聞の記者たち、条約励行・責任内閣実現など掲げ、「新聞の同盟」結成を申合せ。尾崎行雄、肥塚龍、末広重恭、徳富猪一郎(蘇峰)、鈴木天眼、陸実、川村惇。
3月29日
朝鮮、全羅道で東学党蜂起。全琫準総督。政府の裏切り糾弾の檄を飛ばす。古阜郡の要地白山を根拠地にする。
3月29日
一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)、日記を書かず。
4月の日記のメモの一部に、「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事なれば得かゝぬ也」とある。
5月4日から「水の上日記」として新たにスタート
4月
北村透谷「エマルソン」(民友社)
4月
内田貢(魯庵)『文学者となる法』。硯友社、特に尾崎紅葉を皮肉る。
「明治二十七年の四月、さきに宮崎湖処子の詩集を出版した新進の文芸出版社右文社は「文学者となる法」という菊判の薄い本を出版した。この書物は、「神田錦町の麦酒屋に寄合ふKit-Cat Club に折々顔を見せる三尺八寸の大入道」なる三文字屋金平なるものの講釈を、後輩の一文字屋風帯が筆記したもの、と序に書かれていて、書物の奥付には著作者宮沢俊三と記されてあった。その内容は現時文壇と文士の徹底的な悪口を、博引旁証極まりないような学識ぶりを示しながら書き立てたものである。この書物は序文によると、書かれたのが「二十六年の大晦日前三日」ということになっているが、出版されたのは、「滝口入道」が「読売」に連載されていた四月である。この書が現れると、文壇は鼎の沸くような騒ぎになった。」(伊藤整『日本文壇史』第3巻)
「・・・・・『文学者となる法』の実際の著者は、内田貢、つまり当時『国民新聞』を中心に健筆をふるっていた批評家の内田魯庵だった。魯庵はまた、優れた外国文学の紹介者としても知られていた。明治二十五年十一月、彼は有力な出版社内田老鶴圃(同じ内田でも魯庵と何の関係もない)からドストエフスキーの『罪と罰』の第一巻を訳出(英語からの重訳)し、続けて翌二十六年二月にはその第二巻を刊行した。結局、後篇にあたる第三、四巻は未刊に終わったが、この『罪と罰』の本邦初訳は当時の日本の文学シーンで大きな話題を呼び、合わせて百本以上の紹介記事が新聞や雑譲に載った。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
4月
一葉は一時中嶋歌子に頼らず旧派短歌から脱皮をはかろうとしたが、歌子の提案によって、萩の舎で稽古を助教として手伝うことになる。
「四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。
花ははやく咲て、散がたはやかりける。あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。
店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。」
(四月に入ってから西村釧之助氏の手を通してお金を五十円借りる。清水たけという婦人が貸し主とのこと。利子は二十円に付き二十五銭で、期限は何時までともまだ決めていないという。恐らくこれは釧之助のお金でしょう。
そのうちに萩の舎の塾の方とも段々に話が進んで、私に月にいくらかでも報酬を出して手伝いを頼みたいと先生から話して来られる。
「何事につけても万事我が子と思っているので、私を親として生涯のことを考えてほしいのです。私のこの萩の舎はあなたのものなのですから」とおっしゃる。
「もともと私にはその大任をお引き受けするほどの才能は持ち合わせていないのですから身に過ぎた重い任務ではございますが、このささやかな私の今身全霊をあげて歌道の発展のため尽くしたいと心から願います。ついてはどのようにしてこの道を進めて行くべきか、お教え下されば嬉しく存じます」とお答えして、まずこの話は決まったのです。そして、この四月の初めから稽古の指導に通っているのです。
桜は早く咲いて、散るのも早かった。あいにく雨風の日ばかり続いたためか、鍛冶町の石川銀次郎の方もあまり芳しいことはなく、やっとのことで十五円持ってきてくれた。これでいよいよ転居のことがきまる。
家は本郷の丸山福山町という所で、阿部邸の山にそって、その下に小さな池があり、その池の上の方に建てられたのかあった。「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月三円。高いけれども此処を借りることにきめる。
店を売って引っ越しをするまでの間のごたごたした事は、思い出すのも煩わしいほど不愉快なことが多かったので、ここにはとても書けない。 )
4月
ハンガリー、義務的民事婚法案、下院で大多数承認。
つづく
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