2024年6月14日金曜日

大杉栄とその時代年表(161) 1895(明治28)年8月27日~31日 子規と漱石の松山での52日間の共同生活(2) 台湾中部の彰化が陥落 一葉「たけくらべ」(『文学界』 5ヶ月ぶり) 

 

倒壊する以前の復元愚陀仏庵

大杉栄とその時代年表(160) 1895(明治28)年8月25日~27日 子規が松山に戻り、漱石と52日間の共同生活を送る(1) 一葉「うつせみ」(『読売新聞』連載) より続く

1895(明治28)年

8月27日 

子規と漱石の松山での52日間の共同生活(2)


「正岡子規は、十月十九日(土)に上京するまで五十二日間寄宿する。十月十二日(土)、「花の舎」での送別会まで、毎晩運座を行う。時々加わる。正岡子規は、「漱石寓居の一間を借りて」の前書で、「桔梗活けてしばらく假の書齋哉」と詠む。別れにあたり、「行く我にとゝまる汝に秋二ツ」と詠む。)」(荒正人、前掲書)


「翌二十八日、柳原極堂が訪問して、松山市の松風会会員の句作指導を懇請している。子規は喜んで引受けた。松山市松風会は、去年三月二十七日に発会式が行われ、松山高等小学校の教員などで、会員約十人、日本新派俳句最初の結社である。以後、毎晩四五人の松風全会員が愚陀仏庵に集まり連座を催すようになった。柳原極堂、中村愛松、梅屋三鼠らが熱心で日参組とよばれた。

もっとも一番熱心なのは、先生の子規であり、愚陀仏庵以外でも松風会句会はしばしば催され、これにも子規は何回も出席している。吟行も行われ、十月六日には漱石と道後へ吟行に行っている。九月六日以後、子規選の松風会句稿が「海南新聞」俳句欄に掲載されるようになった。漱石の俳句だけでも、以来翌年五月まで同欄には百句あまり掲載されるようになる。」


「子規は結局、五十二日間も漱石と同宿しているが、漱石が子規的な写生句を身につけたのは、この期間である。・・・・・漱石の俳句約二千四百句の約三割をこの時期に作句している。(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)


「子規居士が帰つたと聞いてから、折節帰省中であった下村為山新を中心として俳句の研究をしつゝあった中村愛松、野間叟柳、伴狸伴、大島梅屋等の小学教員団体が早速居士の病床につめかけて俳句の話を聞くことになつた。居士は従軍の結果が一層健康を損じ、最早や一図に俳句にたづさはるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、さうでなくつても根柢から此短い詩の研究に深い注意を払つてゐたのが、更に勇猛心を振ひ興して斯道にカを尽さうと考へてゐた矢先であつたので、それ等の教員団体、並びに旧友であるところの柳原極堂、村上霽月(せいげつ)、御手洗不迷等の諸君を病床に引きつけて、殆んど休む間もなしに句作をしたり批評をしたりしたものらしい。」(高浜虚子『漱石氏と私』)


「彼はそこ(*下宿の二階)で、「朝起きると洋服を着て学校に出かけ、帰って来ると洋服を脱いで翌日の講読の下調べをし」た。しかし金之助の勉強は、毎日のように階下の子規のところに集って来る俳句仲間の、騒々しい話し声のためにしばしばさまたげられた。・・・・・

金之助が、まもなくこの「松風会」の仲間入りをしたのは、階下がやかましくて「兎に角自分の時間といふものが無い」状態になったからである。九月七日付で子規は、東京で日本新聞社に入社したばかりの河東秉五郎にあてて、「夏目も近頃運坐連中の一人に相成候」と報告している。連坐は万年床の上に胡坐をかいた子規をとりかこんでおこなわれ、師匠格の子規がめいめいの句の上に○をつけた。子規は、足を抜け出したり、頬杖をついたりして、無作法なかっこうで句作にふけっている松山の仲間とは「お前」とか「アシ」とかいう松山弁で呼びあったが、金之助とだけは「君・僕」で話した。しかし選句になると、彼は金之助の句にも容赦なく批評を加えた。金之助は、病苦を忘れたように熱心に、いかにも親分然とした態度で一座を主宰している子規を、なかば不思議そうに、なかば感動したように、眺めていた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)


「日清戦争に「従軍」し、帰国時に病を一気に悪化させ、なんとか一命をとりとめた子規を、漱石は先に述べたように一八九五(明治二八)年八月二七日、松山の自分の下宿に受け入れ、その後、毎日のように句会を開いている。漱石との関わりの中で、俳句表現を生命力としていく子規の一生の、一つの形がつくられたと言っても過言ではない。

この年の秋の同居の日々において、きわめて特異な言葉の交わし合いの関係が漱石と子規の間で確立した。漱石が句稿を子規に渡し、子規がそれを添削するという、句作における師弟関係である。九月二三日の三十二句から始まり、一〇月中には八十人句の旬稿が漱ら子規に手渡された。子規が最も得意とする俳句の表現をとおして、つまり言葉と精神の側から、病に負けそうになっている子規の心を励まし、身体の健康をも回復させようとした友人漱石の独自の薬が、句稿と添削という形で処方されたのである。

漱石の句稿に対して、子規は無邪気と思えるほどの素直さで添削をし、評を加えている。差し出された漱石の句稿に俳句の宗匠然として、批判をし、注文を付け、訂正案を出し、◎や○を付すことで自分の評価を示す作業は、まちがいなく子規の自尊感情を高めていったはずだ。

漱石の句稿と、子規の添削と評の対話的関係に想像力をのばしていくと、俳句結社「松風会」の人たちをはじめとした俳人たちが集い、子規を中心に、漱石の下宿「愚陀仏庵」で開かれた句会の、喧々囂々(けんけんごうごう)たる論争と侃々諤々(かんかんがくがく)たる言葉の交わし合いの声々が騒(ざわ)めき立ってくるようだ。批判には反論し、すぐれた表現は具体的に評価するような議論を交わし合う場として、子規にとっての句会はあった。その実感をもたらしたのが、漱石とのやり取りだった。言葉でしか生きていけない子規の、社会的存在として生きていく場が句会であったのだ。

同時に、句会をとおして、明治二〇年代の日本においては希有だったはずの、討議的で民主主義的な時間と空間を、子規とその友人たちは生み出していったのである。そして、この句会の民主主義的な討議の時空の延長線上に、病床の子規に対する介護の実践がある。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

「俳句はもともと俳諧であった。俳諧は連歌の亜種であった。座に会すると発句から出発、ルールに従って七七とつけ、さらに五七五をつけて進行するのは連歌とおなじであった。

だが連歌が「雅」を本意とするのに対して、俳譜はあえて「俗」をとり入れた。「俗」は、「あたらしいもの」の意である。連歌では詠まぬ人事時事を詠みこみ、雅語にかわって俗語を果敢に使って諧謔の妙をも俳諧味とした。

近世俳諧の完成者芭蕉は、「雅」を離れようとした。さらに前代の貞門・談林の句風に飽き足らず、中世的美意識である「寂(さ)び」を俳諧の「軽み」にのせた「俗」におもしろみを見た。芭蕉は俳譜の初旬である発句を重視したが、子規はさらに進んで俳諧から連歌の痕跡を除き、発句を俳句と称して、独立したジャンルであることを強調した。

「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり」

「美術」とは現代語で「芸術」である。のちに『俳諧大要』にまとめられた子規の考えは、明治二十八年晩夏から秋にかけ、松風会の面々に説きつつ徐々にかたちをなした。(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )

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8月28日

台湾、彰化八卦山の激戦

8月29日

台湾中部の彰化が陥落。

日本軍は雲林地方大莆林に進出。ここの地主の簡義は日本軍を抵抗せずに受け入れたが、一部の軍夫らが婦女子を姦淫殺害したために、反旗を翻し、黒旗軍の部隊とともに日本軍を襲ったために、日本軍は北斗渓北岸まで退却した。ノース・チャイナ・ヘラルドによれば、抗日軍はこれをもとに「日本軍は婦女を暴行し、家屋の中を荒らし、田畑を奪う」と宣伝(プロパガンダ)したところ、台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗した。これによって日本軍は赤痢・マラリア・脚気などによる兵員不足に対する休養もかね、南方への前進を止め台南に侵攻できたのは10月であった。

8月30日

富士山の野中至の観測小屋(富士山観測所の前身)が完成

8月30日

一葉「たけくらべ」(九)(十)、5ヶ月ぶりに『文学界』第32号に掲載。

8月末

「うつせみ」原稿料が届く


つづく

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