1895(明治28)年
8月25日
子規が松山に戻る
須磨から汽車に乗り岡山に1泊~広島(22、23日、五百木飄亭の下宿訪問)経由、24日、船で三津浜に着。叔父大原恒徳方に2泊。
広島では、衛生兵であった同僚五百木瓢亭の下宿を訪ねた。
恙(つつが)なく帰るや茄子(なす)も一年目
秋風や生きてあひ見る汝と我
二句目についた但し書き「瓢亭六軍に従いて遼東の野に戦うこと一年 命を砲煙弾丸の間に全うして帰る われはた神戸須磨に病みて絶えなんとする玉の緒危くもここに繋ぎとめ ついに瓢亭に逢うことを得たり 相見て惘然言い出づべき言葉も知らず」
8月26日
松山在住の子規の友人、極堂柳原正之が大原恒徳宅に子規を訪ねてきた。
■柳原極堂と松山版「ホトトギス」
柳原極堂は子規と同年で、のち明治30年1月、松山で俳句雑誌「ホトトギス」を発刊する(松山版「ホトトギス」)。子規派俳句の機関誌の役割を期待されたこの雑誌は、当時海南新聞に勤めていた柳原極堂が会社の印刷機を使い、ほとんど彼ひとりの献身によって発行された。しかし売行ははかばかしくなく、採算分岐点の300部にも遠く及ばず、明治30年末、柳原はもうやめたい旨の手紙を東京の子規に送った。
子規は、「隔月刊行の事は小生絶対的反対」と返書した。東京で雑誌を出すのは、骨が折れるわりには成果が少ない、松山の雑誌なればこそ自分は思う存分のことが書ける、なんとかつづけてくれないか、と子規は懇願するふうであった。
しかし「小生金はなけれども場合によりては救済の手段も可有之」とするものの、具体的な方策はしめされなかった。子規は柳原の労苦を多としながら、「松山には人物なきか。熱心家なきか」と嘆くのみであった。
8月26日
ナイアガラ瀑布電力会社、最初の商業的水力発電開始。
8月27日
~31日、一葉「うつせみ」、『読売新聞』一面紙上に連載。
ある夏の夕べ、小石川植物園の近く、木立ちが深く庭の広い閑静な貸家に、一人の若い女性が女中に抱えられるようにしてやって来た。
彼女は三番町にある名家の一人娘で雪子という十八歳の美しい女性だったが、気が狂い、下僕の川村太吉の世話で貸家を転々として養生しているのであった。
老いた父母や、養子で許婚者の正雄が新しい養生先へやって来て看病するが、雪子は取り留めのないことを言ったりして彼らを驚かせる。
その中でもしきりに「植村さん」「ゆるし給へ」「罪」「おあとから行きまする」などと繰り返し、彼らをはらはらさせるのである。
そんな雪子をいたわしく思う太吉や女中のお倉やお三どんの話からすると、雪子が学校に通っていた頃、美しい彼女に恋した男がいたらしい。
その男は植村録郎という名で、彼女に許婚者がいることを知らずにひたむきに彼女を恋したようだ。
そして、その結果、自殺をして果てたらしい。
雪子が罪の意識から狂っていったのは、それが原因となっているらしく、お倉たちは「浮世はつらいもの」と同情するのであった。
八月中旬から雪子の狂気は激しくなり、泣く声ばかり昼夜に絶えないが、それもしだいに細々と弱り消えていくようである。
8月27日
朝、寒川鼠骨が、既に子規が居るものと想って漱石の下宿を訪ねてきた。
鼠骨に会った漱石はすぐ子規宛てに手紙を書く。
「拝呈 今朝鼠骨子来訪。貴兄既に拙宅へ御移転の事と心得御目にかかりたき由申をり候間、御不都合なくばこれより直に御出でありたく候。尤も荷物など御取纏め方に時間とり候はば後より送るとして身体だけ御出向如何に御座候や。先は用事まで。早々頓首。
八月二十七日 漱石
子規俳仙 研北」
子規には纏めるべき荷物もなく、その日の午後、漱石宅に移る(~10月19日)。
子規は、勝手に上野方離れの四畳半と六畳の階下を病間とし、それまで一階にいた漱石は、おなじ間どりの二階に移動した。
桔梗活けてしばらく仮の書斎哉 子規
鼠骨寒川陽光は明治7年生まれ、子規の7歳下で虚子と同年。京都の第三高等学校では河東碧梧桐と同宿であったが、この明治28年には三高を退学して松山に帰っていた。
「「初めて漱石さんに會つたのは、明治二十八年夏であった。漱石さんは伊豫松山市の中學校の先生として松山二番町の或家に下宿してゐた。暑休で歸省した私は、或日その下宿へ訪ねて見た。喜んで二階の狭い書斎へ請じ、いろいろお話も承つてゐるうちに夕方になつたので歸らうとすると、まあいゝぢやないか、洋食を御馳走するよと言つて、下へおりて行つて何やら命ぜられるやうであつた。實は私はそれまで洋食を食うたことが無いのであつたから、有難いと思つて言はれるまゝに留まつて居た。やがて洋食の皿が二階へ運ばれた。シチユーとハヤシライスの二品であつた。その頃は松山に唯一軒のアザヰといふ牛肉兼西洋料理屋からわざわざ取寄せられたのであつた。私は如何にも後背に親切な人だと、しみじみ感じた。そのうち比の下宿へは、須暦に療養してゐた子規居士が歸省して、もぐり込んだ。私は南豫の旅に出て松山を離れてゐた。」(寒川鼠骨)」(荒正人、前掲書)
〈漱石との奇妙な共同生活〉
漱石は、松山市内二番町にあった上野義方の家の二階建ての離れに下宿しており、一階を子規の居室に譲り、自らは二階に上がり、子規が東京に出て行くまで52日間、奇妙な同居生活を送る。
「僕が松山に居た時分子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処に居るのたといふ。僕が承知もしないうちに当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいぶ。僕も多少気味が悪かつた。けれども断わらんでもいゝとかまはずに置く。僕は二階に居る大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まつて来る。僕が学校から帰って見ると毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かつたが兎に角自分の時間といぶものが無いのだから止むを得ず俳句を作った。」(回顧談「正岡子規」)
「其から大将は昼になると蒲焼きを取り寄せて御承知の通りぴちやぴちやと音をさせて食ふ。其れも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食ったやうであつたが僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。其れから東京へ帰る時分に君払って呉れ玉へといって澄して帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せといふ。何でも十円かそこら持つて行つたと覚えてゐる。其から帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金子は当地に於で正に造ひ果し候とか何とか書いてゐた。恐く一晩で遣ってしまったものであらう。」
漱石は、子規の身勝手な振舞いを多分に面白がるといった風に回想したうえで、「併し其前は始終僕の方が御馳走になったものだ。其うち覚えてゐる事を一つ二つ話さうか。・・・」と、学生のころから子規におごってもらっていたことを語る。
漱石は、子規が「三つの挫折」に打ちのめされ、その挫折から立ち直るきっかけを求めて松山に帰ってきたことを、直観で見抜いていた。
子規の「三つの挫折」とは、
①子規が喜び勇んで従軍記者として中国へ渡っていったものの、肝心の戦争は終わっていて、僅1ヵ余で空しく帰国したこと。
②帰国途中の船で喀血して、神戸で3ヵ月の入院・療養生活を送らざるをえなかったこと。
③編集主任として創刊し、編集・発行に当たった「小日本」が、わずか5ヵ月で廃刊に追い込まれたこと。
これら「三つの挫折」背負って、子規は「失意の人」として故郷松山に帰ってきた。漱石は、自分の下宿を訪ねてきた子規の病やつれした顔を見、二言三言言葉を交わしただけで、そのことを見抜いたにちがいない。
なぜなら、漱石もまた、不本意にも地方の中学校の英語教師に赴任し、都落ちしてきたことで「失意の人」であり、また慣れない地方生活をはじめて5ヵ月、特に親しく交わる友人もなく、孤独を感じていから。
漱石は、自分を頼りにしてやってきたことが嬉しく、結核感染の恐れにもかかわらず、子規の勝手な申し入れを受け入れ、身勝手な振舞いを許し、50日余の共同生活を行ったのだろう。
子規は、柳原極堂ら松山在住の俳句の仲間や門人を集め、昼間から俳句会を開き、俳句を詠み、俳句の指導を行い、俳句を語ることで、「失意の人」から立ち上がるきっかけを掴んでいった。
一方の漱石も、俳句を作ることで子規が精神的に立ち直っていくその現場に立ち会い、自身も俳句を作り、俳句について議論を闘わせることで、「表現」のもつ本質的意味を悟っていった。そのことがのちに小説家「夏目漱石」として立ち上がっていくことにつながっていった。
つづく
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