2024年6月24日月曜日

大杉栄とその時代年表(171) 1895(明治28)年11月1日~15日 伊藤首相の辞任・欧州視察の希望叶わず 漱石、句作に励み子規に評を乞う 「貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」 「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害と浜茂の拘引に御座候。」(漱石の子規宛て手紙)   

 

白猪の滝

大杉栄とその時代年表(170) 1895(明治28)年10月26日~31日 (法隆寺の茶店に憩ひて)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規) 子規「俳諧大要」(『日本』27回) 近衛師団長北白川宮、台湾で病死 帝国京都博物館完成 子規帰京 歩行困難 「「リヨウマチのやうだ」と居士は言つた。けれども其はリヨーマチでは無かつた」虚子 より続く

1895(明治28)年

11月

朝鮮、江原道原州で起兵の李春永ら、師の柳麟錫を義兵将に推戴。

11月

伊藤首相、山県有朋(前首相、陸軍大将)か黒田清隆(前首相)か松方正義(前首相)に首相職を譲りロシアなどの欧州へ行こうとし、明治天皇に願い出る。天皇は同意せず。

陸奥外相は反対。山県は特に反対ではなかったが、西園寺外相臨時代理より陸奥の考えを聞いて同感する。問題は12月末迄続く。西園寺は、入手した天皇・山県の動向など機密情報を陸奥に伝え、陸奥の指導を仰ぎ連携して行動(陸奥宗光宛西園寺公望書状、11月23、24日、12月4、21、24、30日)。

伊藤がこれを希望した訳は、日清戦争後の朝鮮国など極東を巡る日露の対立を、ロシアなど列強指導者と会見することで解決したいと考えたから。

しかし、日清戦争後の軍備拡張の内容など、日本のあり方を決める第9議会が12月~翌年3月に予定されている。戦前から自由党(板垣退助総理)や改進党など政党が伸びており、日清戦後経営の為に必要な予算を議会で可決する為には、伊藤内闇と繋がりの深い自由党の協力を得る必要がある。そこで天皇はじめ西園寺らが伊藤の渡欧に反対。

11月

島村抱月「新体詩の形に就いて」(早稲田文学)11、12月

11月

漱石「愚見数則」(松山中学校友会『保恵会雑誌』)


「・・・・・漱石は求められて松山中学校友会の『保恵会雑誌』(明治二十八年十一月)に「愚見数則」なる檄文を寄せた。今の師弟関係が、客の機嫌を伺うばかりの宿屋の主人・番頭らと、金を払ってしばし滞在する宿泊客と変わらないことを痛烈に批判し、教育の質の向上を求めたのである。もちろん自己批判は忘れず、自身が「糊口の口」を欲しただけの「似非教育家」であることを認め、「余は教育者に適せず」「余の教育場裏より放逐さるゝときは、日本の教育が隆盛になりし時」だと放言している。

以下、月給の高下で教師の価値を定めてはならない、教師は必ずしも生徒より偉いわけではない、一度決心したら躊わず直進せよ、数を恃んで一人を馬鹿にするな、他の人を崇拝しても、軽蔑してもいけない、毀誉褒貶に左右されるな、人の値打ちは成功失敗で決まるわけではない等々、彼が年来の鬱憤を吐き出した感がある。『坊っちゃん』の「俺」が能弁だったら、職員会議できっと似たようなことを発言しただろう。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


11月

漱石、冬にかけて午前2時頃まで、勉強に励む。炭代は多少要ったがと漏らす(金子健二記憶)。

11月

ロシア、レーニン、「われわれの大臣たちは何を考えているか?」。ツァーリではなく大臣たちを攻撃すべきと主張。

11月

ロシア、特別会議で、日本の艦隊充実に対抗して極東用の造艦計画立案必要を確認。1898年計画決定。1905年完成。

11月

ロマン・ロラン(29)、エコール・ノルマルで芸術史講座を担当。

11月1日

加藤駐英公使、イギリス外相ソールズベリと会談し、イギリスは朝鮮が日本勢力下にあることを内心喜ぶと監察。

11月2日

鉄幹(22)、京都の父母のもとに帰り、12月、再び朝鮮に渡る。翌明治29年4月16日、日本に戻る。

11月2日

漱石、伊予鉄道に乗って松山東郊の山あいに滝見物に出掛ける。終点の平井河原で降り、河之内の近藤家に泊る。

近藤家は子規の遠縁にあたる造り酒屋で、子規も明治24年夏に訪れ、白猪(しらい)、唐岬(からかい)の両滝を見物して、「瀧湧くや秋のはらわたちぎれけん」と詠んだ。当主は亡く、未亡人と娘がひっそりと暮らす近藤家での一夜を漱石は、「嬬(やもめ)の家独り宿かる夜寒かな」と句作した。

翌3日、漱石は近藤家の使用人に案内してもらい、重信川(しげのぶがわ)上流の滝を見に行った。夕刻松山に帰り、すぐに句を清書して子規に送る。この日の書簡には本文がなく、内容のすべてが俳句で、その数50に及ぶ。


客人を書院に寐かす夜寒哉     漱石

唐黍を干すや谷間の一軒家


11月3日に18句、13日に47句、22日に69句、12月14日に41句、18日には61句つくった。それらはみな、評をあおぐため子規に送られた。

11月2日

一葉の許に、夜、禿木が来たが、妹邦子の計らいで門で帰す。入れ違いで眉山が来る。眉山が言うには、禿木と一緒に来たようで、妹が同じように留守である旨をいう。

11月3日

天長節。朝から車軸を流すような雨。一葉の許へ、神戸の小林愛から松茸一籠を送ってきたので、炊いて食べる。稲葉鉱が来たので振舞う。

午後から禿木と秋骨が来訪。昨日同様、妹邦子が一葉は不在だと行ったが、それなら少し座敷を貸してくれと必死に願うので、上げて母と妹とであしらっていると、手洗いに行きつつ廊下から一葉を探している様子。30分ばかりして帰ったが、夜にまた禿木と秋骨が来訪。眉山のところで遊んでの帰りだと言う。全く合わないのも気の毒なので、対面する。禿木は土産を買ってきていた。いろいろな物語をして遅くに帰る。

11月5日

一葉の許へ、夜、関如来来訪。落合直文のところに行くついでに立ち寄ったという。話しているうちに2時間が過ぎ、車夫は待ちくたびれて玄関でたかいびき。これならもう落合を訪ねることもできないだろうと引き留めて、改めて話を聞く。月給取りになってからというもの、月給を受け取っては、待合茶屋の二階に遊びに行かないことはなく、今日までには残りなく使い果たして、今は懐には5厘銭ひとつだけで煙草を買う銭もないというので、巻煙草を買ってあげる。語ること4時間。「読売新聞」文芸欄に載るさまざまな原稿などを見せて、禿木が「にごりえ」の評を書くと言っていたと語る。

11月6日

台湾、南進軍編成を解く

11月6日

この日付け漱石の子規宛て書簡。「正岡子規に送りたる句稿その五」を同封。


「(略)

十二月には多分上京の事と存候。この頃愛媛県には少々愛想が尽き申候故どこかへ巣を替へんと存候。今までは随分義理と思ひ辛防致し候へども、只今では口さへあれば直ぐ動くつもりに御座候。貴君の生れ故郷ながら余り人気(じんき)のよき処では御座なく候

駄句あひかはらず御叱正被下たく候。なるべく酷評がよし。啓発する所もあらんと存候。

以上。

十一月六日夜                           金之助

升様」


生徒たちが「探偵」の真似をして自分を見張っているのは不快の限りだ。松山は「不浄の地」とさえ思われる。

11月6日

一葉の許へ、午後、山下次郎来訪。関如来から昨夜の詫びの葉書が来る。

11月7日

子規、温めた蒟蒻で温湿布をすると、その効果がでたのか、11月末にはいくらか歩けるようになる

11月7日

一葉の許へ、早朝、禿木来訪。妹邦子が一葉は留守だと言うと、「文藝倶楽部」第9編を借りて帰る。「にごりえ」掲載誌であり、「読売新聞」の評を書くためであろう。

11月8日

遼東半島還付条約、調印。

11月8日

ドイツ、レントゲン、X線発見。

11月12日

閣議、伊藤首相、自由党との提携について説明し、各大臣の了解を求める。

政府は自由党のみならず、改進党・国民協会の支持も獲得し、衆院の絶対多数を基礎とする「挙国一致」内閣を目指す。自由党は政府と改進党との接近を警戒し、伝えられる大隈入閣説に猜疑の目を光らせている。

11月13日

この日付け漱石の子規宛て手紙。「正岡子規に送りたる句稿六」に「二十九年骨に徹する秋や此風」と心境を詠む。


「・・・・・仰せの如く鉄管事件は大に愉快に御座候。小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害と浜茂の拘引に御座候。・・・・・」


東京市への水道管納入汚職で日本鋳鉄会社社長浜野茂が逮捕される(10月31日)。


「閔妃殺害のような乱暴な行動が、漱石に「尤もありがたき」ことと印象されたことは興味深い。それは当時の日本人が日本の独立を脅かす存在として、いかにロシアを恐れていたか、また隣国の安全保障に無自覚な朝鮮に、いかにいらだちを高めていたかを示しているが、満二十八歳の漱石もそのひとりであった。彼もまた時代の子であった。」(関川夏央、前掲書)

11月15日

フィリピン、「団結」廃刊。


つづく

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