法隆寺境内にある句碑 〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉
1895(明治28)年
10月26日
前年に結成された孫文(29)の興中会が広東で武装蜂起を計画するが失敗
10月26日
子規、前日の服薬の効があったのか、痛みがやわらいだので、奈良へ行く。漱石に借りた金はここで使い果たす。宿で食べた御所柿のうまかったこと、柿をむいてくれた女中の美しかったこと、東大寺の鐘の音が心地よく響いたことなど、のちのちまであざやかに子規の記憶にとどまった。
「(法隆寺の茶店に憩ひて)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)「海南新聞」12月8日掲載
この句は漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」(「海南新聞」9月6日)を無意識にふまえている。
大坂に戻り一泊し、10月30日の汽車で東京に向かう。
子規「くだもの」(『ホトトギス』明治34年7月号)によれば、東大寺周辺を散策、近辺の村で柿が盛んに成っているのを見た。柿は、漢詩でも和歌でも詠まれないもので、奈良との配合という意外性を感じて、東大寺近くの宿、角定(かどさだ)対山楼に入った。久しく柿を食べていなかった子規は、宿で柿を注文すると大きな鉢に御所柿が山盛りに運ばれてくる。「下女」が柿を剥き始めた。歳は16、7ぐらい、色は雪のように白く、目鼻立ちの整った美しい娘であった。子規が生国を尋ねると、梅の名所の月が瀬の者だといい、子規が《梅の精霊でもあるまいか》と思うほどであった。
《…やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいでゐる。柿も旨い、場所もいゝ。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜(そや)が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。余には此初夜といぶのが非常に珍らしく面白かつたのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ・・・》(「ホトトギス」明治三十四年四月)
初夜というのは戌の刻で午後8時。子規が彼女の開けてくれた障子から外を眺めると、なるほど、東大寺は自分の頭の上に当たる方角であった。
従って、この句は東大寺でもよかったが、あえて当時は東大寺よりはるかに無名であった、法隆寺とした。
日本のどこにでもある田園の、深まる秋の気配がこの句の主眼である。そこに東大寺のような「名所」は、観光地のイメージが付与されてしまう。
明治は東京へと人が集まった時代で、明治13年で108万、23年で139万、33年には195万と増大の一途をたどっている。故郷へのノスタルジーは、明治の「国民」の共通のものとなりつつあった。子規自身が、松山には帰るところのない、故郷喪失者である。「国民」共有の故郷のイメージを定着するものとして、東大寺よりさらに古く鄙びている法隆寺を選んだのは、そのあたりの事情があったと思われる。
子規研究家の古賀蔵人が子規の「奈良角定にて」と前書きのある「仏の足もとに寝る夜寒哉」を手がかりに調べた結果、「角定」は、對山樓という老舗旅館の俗称だったことが分かった。すでに對山樓は廃業していたが、古賀は近くに住む、当時の主人角谷定七の孫娘に会い子規の宿帳も見せてもらった。また、子規が「下女」と思っていたのは定七の姪で、評判の美人だったこと、庭には御所柿が数本あって鈴なりになっていたので、子規にもそれをちぎって食べて貰ったに違いないことなども聞き出せた(講談社版子規全集』月報3 古賀蔵人「〈柿くへば…〉の旅の宿」)。
10月27日
子規「俳諧大要」(27回、『日本』10月22日~12月31日)。
「一〇月二七日付の三回目までは『養痾雑記俳諧大要』と題されて、『日本』での連載が始まった。四回目から『俳諧大要』となる。「第一 俳句の標準」から始まり、「俳句は文学の一部なり文学は美術の一部なり」と、俳句を芸術として位置づけ、その芸術における「美の標準」とは何かを問うという論じ方で、体系的な文学論として俳論を構築しようとしていく。
この姿勢は「第二 俳句と他の文学」でさらに明確になる。子規は「俳句と他の文学との区別」は、「音調」にしかないとしている。すなわち、俳句の場合「音調は普通に五音七音五音の三句を以て一首と為す」という約束事があるだけで、「俳句と他の文学とは厳密に区別す可らず」というのである。そのうえで「小説」「長篇の韻文」は「複雑せる事物」をとらえるのに適し、「俳句和歌又は短篇の韻文」は「単純なる事物」をとらえるのに適しており、文学のジャンルの「優劣」を問うことに意味はないと子規は断言する。
この立場は「第三 俳句の種類」にも引き継がれていく。すなわち俳句は「意匠」(心)と「言語」(姿)の両側面を持ち、「意匠」は大きく「主観的」か「客観的」か、「天然的」か「人事的」かに区分され、「千種万様」の「意匠」に「適」する「言語」が選ばれるべきではあるが、「各種の区別」において「優劣あるなし」と強調している。
「第四 俳句と四季」においては、俳句における季語の問題を、和歌の季節観との差異において詳細に論じている。「俳句」というジャンルにおいて、「四季の題目」としての季語が特別な位置にあることを、「俳句に用うる四季の題目は俳句に限りたる一種の意味を有すといふも可なり」と説明している。「俳句」というジャンルが、「四季の題目」を中心とした、独自の約束事と価値体系を持つ言葉のシステムである、という認識に子規は達している。
「俳句」というジャンルの言語システムとしての約束事の基本を整理したうえで、『俳諧大要』の議論は、実践的な創作の方法とそのための様々な学習の在り方を提示していくことになる。
「第五 修学第一期」の基本は、「思ふまゝ」を表現すべきである、としている。「半句にても一句にても」まず「ものし置くべし」と子規は言う。まず言葉を書きつけること、そして中途半端な俳句の知識に縛られないことを強調する。とにかく「多くものし多く読むうちにはおのづと標準の確立するに至らん」ということなのだ。そして、この理論を実践するようにして、松尾芭蕉、室井其角、向井去来、与謝蕪村らの句を五十以上鑑賞してみせるのである。
さらに、創作した「句数」が「五千一万」ぐらいになれば、「多少の学問ある者」であれば「第二期に入り来たらん」と、「第六 修学第二期」の冒頭で述べている。「第二期」では自分の「長ずる所」をより発展させ、「及ばざる所」を克服していくことが重要となり、そのために「古今の句を多く読む」こと、あるいはすぐれた句の「摸倣」をすることも「可なり」と子規は言う。そして「壮大雄渾」「繊細精緻」「雅樸(がぼく)」「婉麗(えんれい)」「幽𨗉(ゆうすい)深静」「繁華熱閙(ねつとう)」などといった特徴に分け、五十以上の実例を紹介していく。
そのうえで、「俳句」における「写実」の重要性が強調されていく。「写実の目的」で「旅行」をするのであれば、「汽車」に乗って「洋服蝙蝠傘」という出立ちではなく、「草鞋」と「菅笠脚絆(ママ)」で「心を静め」「歩む」ことが大事だと子規は強調する。また、「名勝旧跡」ではなく、「普通尋常の景色に無数の美」を見出すべきだと主張している。
そして「第七 修学第三期」について子規は、「俳諧の大家たらんと欲する者のみ之に入ることを得べし」と、専門家になる決意を問うている。「文学専門の人」「篤学なる者」「自ら入らんと決心する者」でなければ「第三期」に入ることは出来ない。加えて、和歌をはじめとする日本の文学の全ての領域と、「支那文学」や「欧米文学」に通じ、「文学」だけでなく「美術一般」にも「通暁」していなければならない。それはまた「天下万般の学」に通じていなければならないということでもある。
この年の一二月三一日まで『日本』に連載された『俳譜大要』は、俳句を文学として確立しようとしていた子規の、自らの死を強く意識しての決意表明であった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
10月28日
台湾、近衛師団長北白川宮能久親王病死
10月28日
アルバート・アインシュタイン、アーラウの州立学校職業科に通う。~1896年初秋。先生の一人「パパ」ヨスト・ヴィンテラー宅に住む。この間、仏語エッセー「私の将来の課題」を書く。
10月30日
この頃、馬場狐蝶(9月に彦根の中学教師として離京)が一葉に恋文めいた手紙3通を送る。
10月31日
清国軍事賠償金2億両のうち第1回支払分、5千万両相当分をロンドンで日本に支払い。
10月31日
伊東巳代治、伊藤首相に通信社との密約を進言。前年「ニューヨーク・ワールド」紙が旅順虐殺事件を報道し、日米条約改正成立に悪影響を及ぼしかねない状況になったため。内閣より3千円・外務省より3千円を拠出し、ロイター通信者へ補助5千円・トラフォード特派員の駐在費用1千円を支弁し、日本よりの対外情報発信させようとするもの。
他に、元「トーキョー・タイムス」主宰者ハウス、「ニューヨーク・ヘラルド」特派員コックリルが親日派言論人として活躍、政府は個別に対米情報発信のエージェントとして使う。
10月31日
片山東熊(とうくま)、足立鳩吉設計の帝国京都博物館が完成
10月31日
子規、帰京。新橋ステーションには鳴雪、虚子、紺梧桐が出迎える。根岸の子規庵に帰る。
松山から須磨まで来たとき、子規は左の腰骨にリュウマチ性の激痛を感じ、歩行困難になった。帰京してからも腰痛はやまず寒い日はことに激しかった。
「余の之を新橋に迎へた時のヘルメツトを被つてゐる居士の顔色は予想して居つたよりも悪かつた。須磨の保護院にゐた時の再生の悦びに充ちてゐた顔はもう見ることが出来無かつた。居士は足をひきずりひきずりプラツトホームを歩いてゐた。
「リヨウマチのやうだ」と居士は言つた。けれども其はリヨーマチでは無かつた。居士を病床に釘附(くぎづ)けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎は此時既に其症状を現はし来つゝあつたのであった」(高浜虚子『子規居士と余』十)
10月31日
日本鋳鉄会社社長浜野茂、東京市水道鉄管納入に関する汚職事件で拘引される。
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