1904(明治37)年
7月18日
(漱石)
「七月十八日(月)、菅虎雄から貰った紙と筆で伝授された魏故南陽張府君墓誌(拓本)の筆法を三時間習い、菅虎雄宛て留学する時に作った漢詩(七言律「無題」)を書いて送る。
皆川正禧来る。就職の世話をしてやるため、呼んだのである。発句の揮毫を頼むので、同じ紙と筆と筆法で十五葉書いて贈る。」(荒正人、前掲書)
7月19日
第1軍、細河浴を占領
7月19日
東京市会、市街鉄道上等車反対建議案を内務大臣に提出する案可決。
東京市街電車の階級制:
東京市街鉄道は、乗客増加に応ずるため連結車の計画を立てて試運転中であったが、内務省は「連結車を運転する場合は一台を普通車、一台を上等革とすべし」との意向を示し、会社は「それなら現行の三銭均一制を五銭に改めたい」と申し込んだ。その理由は、「電車乗客の多数は下等社会で不作法なるがため上流の子女はつねに不快に耐へないから、別に上等車を設けて上流の需用に応ずるにある」とした。
これにはさすがに輿論の反対が激烈を極め、安部磯雄は『二六新聞』紙上に、
「アメリカのやうな民主主義国では汽車にも上中下の区別を設けてゐない、まして短距離の交通機関にまで階級を設けるやうな文明国がどこにある? 貧乏人と同車するのを厭ふ紳士淑女は馬車を雇ふなり、人力車を抱へるがよい。」
と論じ、島田三郎の『毎日新聞』は、
「乗客が多いというのは電車が少ないことではないか。内務省は会社に厳命して電力と車輛を増さしむべきである。会社が自己の設備不足を度外視して、乗客を賃銀によって制限せんとするが如きは不当も甚だしい。」
と論じ、また根本正は、
「階級制度の行はれる国は真正の文明国でない、……わが国の新制度新事物中、もっともよく文明の名に値するのほ電車である。一国をして一電車の如くならしめよ、その電車に上下貴賤を区別せんとする如きは奇怪千万といふべし。」
と論じる。
この日、東京市会で佐治実然議員(平民社相談役)が緊急動議として、市街鉄道上等車反対の建議案を内務大臣に提出する件を上程し、市会はこれを可決した。
ただ、福沢諭告『時事新報』のみは、電車の階級制度問題に対して賛意を表している。
「中等以上の市民は車内混雑の折、見苦しき服装の職工土方等と併坐して不快に耐へざる場合少なからず、欧米諸国における如く下層人民が自ら分を知り客車の屋上か、又はその一隅に坐して自然中流以上の乗客と区画をなすの風習あり、その上に車掌が厳格に服装を甄別(けんべつ)しその見苦しき者はドシドシ乗車を拒絶する場合には、均一制の市街鉄道にて何等の差支へなけれども……」
7月19日
大杉栄(19)、名古屋武平町の石巻良夫宅で開かれた社会主義者茶話会に参加。参加者13名。
7月21日
清国で、会党夏延義、江西の楽平で挙兵。
7月21日
大石橋の激闘開始
7月21日
シベリア横断鉄道全線開通。ペルミ~ウラジオストク間結び、敷設距離は8,314キロメートルで世界最長。
7月22日
東清鉄道の軌間改築工事、南山のさきの金州まで、8月1日、普蘭店まで、12日、瓦房店まで開通。
旅順支線は、8月1日営城子まで、8日長嶺子まで開通、第3軍司令部は青泥窪と直接鉄道で連絡できるようになった。"
7月23日
ロシアのウラジオ艦隊、九十九里浜沖に現る
翌24日、伊豆沖を通過
7月23日
旅順総攻撃準備。第3軍、旅順の前進陣地攻撃命令を下す。
26日攻撃開始。
30日までに双島湾東北岸から郭家溝にいたる線に進出、旅順包囲線を完成。
7月23日
満州軍総司令部(総司令官大山巌)、南関嶺の北、南山まで進出。
7月23日
義和団の乱償金問題に関する1904年の連盟公書に調印。
7月23日
清国の天地会、永福・永寧州占領。
7月23日
この日発行の博文館「日露戦争実記」第23篇に花袋が7月1日に送稿した「観戦私記」が掲載される。以後続いてこの雑誌に彼は蓋平、大石橋などの戦線に従軍した報告を書き送る。
「生は今ある事情の下に、暫時この私信のみを以て満足せねばならぬ境遇に遭遇致し候。得利寺の戦勝は金州南山にも増してわが興味を惹きしもの、これを記せし筆は実に三十余枚に余りぬ。されど今はこれを以て把つて諸兄に示す能はず、遺憾此上なく候。されどわが見たる得利寺の戦、いかで此まゝにわが胸にのみ包みてあらるべき。/請ふ聞け。
「わが軍は金州南山敵塁攻陥の後、全軍を挙げ、全速力を以て、北の方蓋平を指したるに候。これ、蓋し敵わが軍の金州を攻むるを諜知して、その大兵を南下せしめたるに基因することにて、予めこれに備へたるわが○聯隊及び新に上陸したる某○○は、それを防がんが為め、普蘭店以南の山地に堡塁を設け、塹壕を穿ちて以てこれに対せしに有之、わが主力は敵のわが堡塁を圧して進み来るを聞き、則ち疾風枯葉を捲くがごとき勢を以て、驀地(まっしぐら)に北進の途上に上りたるもの、是に於て、彼我の衝突は遂に免るべからざる勢と相成候次第に有之候。(略)」
以後、続いてこの雑誌に彼は蓋平、大石橋などの戦線に従軍した報告を書き送る。
ある時花袋は大石橋から外人居留地のある営口へ遊びに行き、そこの雑貨店の一隅でドイツ語とフランス語の本を見つけた。それはハインツ・トウオテの短篇集「死体マリイ」と、アナトール・フランスの「蜂姫」とであった。それを彼は買いとって、鴎外のところに持って行ってやった。鴎外は「うん、これはありがたい」と言って、戸板を並べた上に白毛布を敷いたテーブルに載せ、蝿を追う払子を動かしながら読みふけった。(「陣中の鴎外漁史」)
7月24日
『平民新聞』第37号発行
「露国社会党より」(幸徳稿「与露国社会党書」への「イスクラ」(在ジェノヴァ、メンシェヴィキ)からの応答)
露国社会民主労働党機関紙『イスクラ』第65号(5月14日)は、その外国欄に、「ロシア社会主義者への日本社会主義者の手紙」と題して「与露国社会党書」(「平民新聞」第18号、3月13日)の全文を訳載し、それに『イスクラ』編集部の回答が付された。この回答文書は7月24日付け『平民新聞』第37号に「露国社会党より」という見出しで全文が紹介された。
「日露両国の好戦的叫声の間に於て、彼等の声を聞くは、実に善美世界より来れる使者の妙音に接する感あり。」
普仏戦争のときドイツのリープクネヒトやべーベルが、フランスのアルザス・ロレーン2州をドイツが併呑することに反対して、インタナショナルのために尽したが、日本の労働者階級の進歩的代表者の言動は、まさにそれにも劣らない功業といえようと日本の同志を誉める。
そして、日本の社会主義者の忠告に対しては、こう答える。
「力に対するには力を以ってし、暴に抗するに暴を以ってせざるを得ず」。しかし、わが党がかく言うのは、虚無党やテロリストとしてではない。虚無党とはツルゲネフの小説から生まれて、ヨーロッパの上流社会が恐怖した空想にすぎない。テロリズムは不適当な運動であると認め、我々は社会民主党の結成以来、今日までこれと戦うことをやめなかった。だが、ロシアの上流階級はかつて道理の力に服従したことなく、また将来もそうするという多少の理由も見出せない、と。
しかし、この問題は今はさしたる重要事でなく、日本の同志がわれらに送ってきた書中にある一致連名の精神こそがもっとも重大なのである。わが党は満腔の同情を彼らに呈する。「軍国主義撲滅!万国社会党万歳!」
この後に、たぶん秋水の感想らしいものが付記されている。
「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す。然れども吾人がさきに、暴力を用ゐることに就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶終に暴力の止むを得ざる場合あると言ふを見て、深く露国の現情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず」
英文欄「銀行の国有」問題
「大阪の同銀行の破綻は銀行役員が個人的関係のある工場に、無分別な融資をしたためだといわれる。吾人はこれによって、銀行役員が銀行の資金をその個人的利益のために利用するのを防止するの、いかに困難であるかを容易に認め得る。もし銀行や保険会社の業務がこの伝で続けられるならば、預金者や被保険者はまったく安心できないであろう。おそらく政府は多大の熟練を要する事業を経営する上に、私企業のような便宜な立場ではないかも知れないが、しかし銀行業は既に煙草製造を国営化した政府にとって、決して困難な仕事ではない」
背景は、4月30日の八十九銀行の取り付け騒ぎ。
蜂須賀侯爵家の銀行として信用の厚い大阪最大の八十九銀行は、3万余円の手形交換尻不払いのために取付け騒ぎを起し、蜂須賀家の相談役芳川顕正、近藤廉平、松平康毅等が日本銀行・安田銀行に泣きついて救済につとめた。
銀行の破産騒動はこれ以降にも発生する。
政府の財政顧問松方正義や井上馨と腐れ縁のある松本重太郎の第百三十銀行が、放漫政策のために破産に瀕すると、元老の井上、桂首相、曽禰蔵相、松尾日銀総裁、阪谷大蔵次官、安田銀行の安田善次郎等は首相官邸に会同して救済策を協議。その結果、6分の高利を以てわずかに募債に成功した軍事公債のなかから、2分の低利、5年間据置き、今後10年間の返済という前代未聞の条件で600万円を松本に融資し、第百三十銀行の破産を食いとめるた。
なお、第百三十銀行は第2回国債募集に200万円の応募を申し込んでいた。
「平民社維持の方策」。「寄附金二千円」を募集。
明治38年1月29日の『平民新聞』終刊号(第64号)において金890円33銭の平民社維持金、および社会主義協会(明治37年11月6日、結社禁止)の委譲金73円31銭、合計金963円31銭の基金を有するに至る。
堺俊彦「平民日記」
「▲十八日(月)午後、大阪の婦人新聞記者にして社会主義思想を有せる管野須賀子氏来訪、氏は婦人矯風会大会に出席の為め、大阪支部を代表して来たとの事、兎にかく珍客の一人であった。」
つづく

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