2025年6月12日木曜日

大杉栄とその時代年表(523) 1904(明治37)年7月14日~17日  「吾人の見る所を以てすれば、日本民族が如何に異民族に悪感を懐き居るかは、彼れが識ゆる新平民に対することにでも明白也、日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せる所に非ずや、韓人が日本人と合同せんとする事あらば、そは合同に非ずして併呑也、韓人は到底使役せられんのみ、・・・」 「見よ、領土保全と称するも、合同と称するも、其結果は只ヨリ大なる日本帝国を作るに過ぎざることを、又見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく曾て韓国の独立扶殖を説きたる者なることを、然らば則ち将来の事亦知るべきに非ずや、要は只其時の都合次第に在り」(「朝鮮併呑論を評す」)

 

晩年の柏木義円

大杉栄とその時代年表(522) 1904(明治37)年7月6日~13日 「★然らば即ち、韓国の領土を保全するにはただわが実力を以てするあるのみ。実力の二字をいま一層手緊(きび)しく言へば兵力のみ。 ★故に吾人は韓国の要所に兵営を建築し、わが軍隊をして恒久に韓国に駐屯……せしめんことを望む。 ★されど韓国の領土は単に韓人のためのみに保全するに非ず、又わが国のために保全する也。即ち韓人の欲するにせよ、欲せざるにせよ、韓国の領土は是非とも他国の侵略より保全せざるべからず。 ★故に吾人は韓国経営の第一着手として、まず軍事的経営を勧告す。(『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実力」」 より続く

1904(明治37)年

7月14日

満州軍総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎以下の幕僚を率い大連湾・青泥窪に上陸、乃木第3軍司令官、武内野戦鉄道提理に命じ、旅順攻撃準備及び実施の計画を立てさせた。海軍からバルチックク艦隊太平洋回航の情報によって、旅順の早期攻略を要請してきたことによる。

7月14日

英のヤングハズバンド大佐、ラサに進軍。

7月14日

この日付け「大阪朝日新聞」に、戦死した息子の功績と写真を掲載して欲しいと、広告料を添えて申し込んできた戦没者遺族がいたとの記事。

7月15日

芝公園に後藤象二郎伯の銅像成る

7月15日

この日夜、安部、木下、加藤、佐治の平民社相談役(小島は欠席)に堺、幸徳、西川、石川の社員が加わって相談会を開き、平民社の財政問題を協議。

7月15日

横浜電気鉄道神奈川~大江橋間開通。

7月15日

(露暦7/2)南ドイツ、保養地バーデンヴェイレル、アントン・チェーホフ(44)、結核により没。24日(露暦7/11)モスクワで葬儀。

7月中旬

(漱石)

「七月中旬(日不詳)、顔面に腫物生じ、塗り薬をつける。(七月二十日(水)には治る)

野間真綱から家庭教師を継続すると連絡受ける。」(荒正人、前掲書)

7月16日

平民社演説会。木下尚江・西川光二郎(28)。水戸・常盤座。聴衆800。

以降、両名で群馬・長野で講演会

20日、木下尚江、上州安中・碓井会堂で講演会。安中教会牧師柏木義円、開会の辞。聴衆90。

21日、上州原市町。聴衆100余。

23日、信州小諸町光岳寺で懇親会・講演会。聴衆250余。

24日、上田町明倫堂で講演会。代議士立川雲平、開会の辞。

26日、長野市千歳座、代議士立川雲平、開会の辞。聴衆600。

尚、西川光二郎は、22日、上州勅使河原で談話会、伊勢崎で佐波青年会、夜は伊勢崎青年会で演説。

また、山口狐剣・斉藤兼次郎は、23日夜、横浜市羽衣町若柳亭。社会主義協会演説会。


7月17日

ウラジオ艦隊、津軽海峡経て太平洋でゲリラ的活動。~30日迄。

この日、イエッセン少将指揮巡洋艦3隻、第6回ウラジオ出撃。

20日午前3時30分、津軽海峡侵入。午前5時30分函館沖通過。午前6時貨物船「高島丸」と遭遇。乗員退去後沈没。午後4時頃帆船「喜宝丸」を乗員退去後撃沈。同じ頃、帆船「来生丸」も撃沈。

22日午前10時30分頃ドイツ汽船「アラビア」拿捕、ウラジオに回航させる。

24日午前8時10分頃御前崎沖を過ぎたところでイギリス船「ナイトコマンダー」撃沈。午後3時頃「自在丸」「福就丸」撃沈。

25日午前9時20分頃、野島崎南方でドイツ船「テア」撃沈。午前9時50分頃イギリス船「カルロス」拿捕、ウラジオに回航させる。ここで、帰港司令。

合計12隻を臨検、撃沈7、拿捕2、解放3。

大本営は、このウラジオ艦隊が太平洋岸から南シナ海~黄海を経て旅順艦隊と合同すると読み、24日午後1時、上村率いる第2艦隊に宮崎県都井岬に急行するよう指示。東郷司令長官はウラジオ艦隊が津軽海峡を西航すると読み、上村には津軽海峡西口に直進を命じる。東郷の司令は既に都井岬への航海上で受領、上村は大本営指示に従う。ウラジオ艦隊は大本営の誤判断に救われることになる。

7月17日

第1軍、摩天嶺へ反撃のロシア軍を撃退(摩天嶺の戦い)

7月17日

『平民新聞』第36号発行

「朝鮮併呑論を評す」

「吾人は近刊の新聞雑誌に於て朝鮮に関する有力なる二論文を見たり 即ち左の如し

▲『韓国経営の実行』『韓国経営と実力』(国民新聞社説、七月八日、十二日)

▲『朝鮮民族の運命を観じて日韓合同説を奨説す』(新人第七号社説)

『国民』の徳富氏が如何に今の政府及び軍人に親しきかを知り、『新人』の海老名氏が如何に今の青年の一部に持(も)て居(を)るかを知る者は、吾人が此二論文を批評するを見て、決して無用の業と為さざるぺし

国民子先づ『韓国経常の実行』に於て日く

・・・・・

鳴呼『日韓議定書の精神』とは何ぞや、・・・国民子は其最後に於て、韓国を『我国の保護の下に』置くべきを言へり。」

「而して国民子更に共『韓国経営と実力』の冒頭に於で日く

・・・

鳴呼『韓国の領土保全』乎(か)、『独立扶植』の警語は何時の間にやら消え失せたるこそ笑止なれ、既に保護国と云ふからは独立の二字は余り声高に語り得ざる筈也、清盛の甲(よろひ)は弥々(いよいよ)多く法衣(ころも)の裾より現れたり、両も其『領土保全』を説明するや亦更に甚だしきものあり、日く

・・・

清盛は既に自ら其法衣を脱ぎ棄てたり、実力とは、即ち兵力の事也、領土保全とは明かに領土併呑の事也、此に至つては独立も保護もあつたものに非ず、世の義戦を説く者、世の『韓国の独立扶植』を説く者、之を読で果して何の感あるか」

「次に吾人をして新人子に聞かしめよ、新人子は『日清戦争の当時、日本軍が朝鮮独立の為に出征したるを喜び、日本帝国を東奔酉馳して愛隣の大義を完(まつた)うせんことを論じた』る人なり、而して『近頃宇内の大勢と東洋の形勢に深く感激する所あり、韓国民族に一片の忠言を呈』して曰く

・・・

鳴呼狼は法衣を着すましたり、保護国は不可也、属国は不可也、両も只『合同』と称すれば甚だ可也、合同平、合併乎、併呑平、『実なきの名は君子の恥づる所なり』とせば、吾人は韓人が、無実の合同を為さんより『寧ろ滅亡するに如かず』と言はんことを恐る。此点に於で吾人は寧ろ国民子の露骨を愛す、新人子更に曰く

・・・

吾人の見る所を以てすれば、日本民族が如何に異民族に悪感を懐き居るかは、彼れが識ゆる新平民に対することにでも明白也、日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せる所に非ずや、韓人が日本人と合同せんとする事あらば、そは合同に非ずして併呑也、韓人は到底使役せられんのみ、・・・

・・・」

「見よ、領土保全と称するも、合同と称するも、其結果は只ヨリ大なる日本帝国を作るに過ぎざることを、又見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく曾て韓国の独立扶殖を説きたる者なることを、然らば則ち将来の事亦知るべきに非ずや、要は只其時の都合次第に在り

斯くて吾人は此の有力なる二論文が、或は法衣を脱ぎ、或は法衣を纏ひ、或は表となり、或は裏となり、或は威(おど)し、或は騙(すか)し、百方苦心、韓国滅亡の為に働きつゝあるを見たり、而して吾人は又日本の浮浪の輩が斯の如き論議を背後に負ひて或は長森案(*)を韓廷に提出し、或は塩専売権、或は煙草専売権、或は仁川埋立工事、或は水田買収計画等に奔走し居るを見たり、日本が文明の為に戦ひて東洋諸国を指導すと謂ふものゝ其の公明正大なること一に何ぞ此に至るや」


(*)元大蔵省官僚長森藤吾郎により考案され、小村寿太郎外相と林公使の修正を受けた「韓国荒蕪地開拓案」


大杉栄(19)が西川光二郎宛てに出した書簡(「地方通信名古屋より」)が、この日付け『平民新聞』に掲載される。

7月17日

福岡県三池炭鉱万田坑の坑夫、待遇改善を要求してストライキ。



つづく

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