2025年10月7日火曜日

大杉栄とその時代年表(640) 1905(明治38)年12月12日~14日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑨;闘争後退期(12月12~16日)①〉 14日 この日から蜂起側の士気は低下し出した。ツィンデリ工場労働者がストに不満を言い出し、...労働者間にパニックが目立ち、一部は帰村した...この日が様々に限界で、転換点であった。この夜、メンシェヴィキたちは、兵士が人民側に移行するのは大衆の高揚がある場合のみであるが、それが低下した故、もはや勝利はありえないとの判断に達した。

 

軍隊による攻撃で破壊されたモスクワの街並み

大杉栄とその時代年表(639) 1905(明治38)年12月10日~11日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑧;本格的闘争期(12月9~11日)③〉 「ドゥバーソフの砲兵部隊は12月10日に系統的に市の砲撃を開始した。倦むことなく大砲と機関銃が活動し、街頭を射撃した。すでに、数人単位ではなく、数十人単位で犠牲者が出た。群衆は狼狽し、憤激して逃げまどった。そして現に起こっていることの現実性が信じられなかった。つまり、兵士たちは一人一人の革命家を狙うのではなく、モスクワという名のえたいのしれない敵、老人や子供の住んでいる家、そして街頭の無防備の群衆を狙って撃っているのだ。」(トロツキー『1905年』より) より続く

1905(明治38)年

〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑨;闘争後退期(12月12~16日)①〉

12月12日


政府軍により厳しく占拠されているニコライ駅を巡る攻防戦。12月10日から15日まで断続。

この日、ペロヴォ駅から300人の「部隊」列車が着き、カザン線の蒸気機関車庫に結集した2,000人とともに、ヤロスラヴリ線駅の作業場に陣取った者たちと呼応して、ニコライ駅を攻撃。しかし、15日早朝、政府軍の砲撃で蜂起側は鎮圧された。


バリケード地帯は一見平穏に明ける。幾つかの商店が開き、人々は買い物に出た。

正午頃から銃声が響き出し商店は慌てて閉じられた。政府軍が「部隊」のアジトと推定した家屋を襲撃、交戦が繰り返された。

総督ドゥバーソフの内相ドゥルノヴォーへの報告。

i状況は大変に深刻であり、バリケードの環がますますきつく町をとらえている。対抗すべき軍隊は明らかに不足しており、ペテルブルクから、たとえ一時たりとも歩兵旅団を派遣されることが極めて必要である。」


蜂起側は、ミウッスカヤ広場の市電車庫に労働者2,000人程でバリケードを築き、同広場にある「工業学校」を上級生約100人で占拠した。さらに、ロゴシュカヤ関門に鉄道橋からヴラジーミル街道を横切って、貨車7輌でバリケードが構築される。

政府軍は、バリケードを解体するため、プレチステンカ、ポヴァールスカヤ、トヴェーリ、ミャスニツカヤ、ボクロフカの5通りへ軍を繰り出す。ポヴァールスカヤ通りへ向つた一隊はクードリンスカヤ広場で強固なバリケードに遭遇して、苦戦。同広場の背後はプレスニャ地区である。


12 "街頭での交戦が続く中、警官は通りから姿を消すか、反乱者の襲撃をおそれて平服を着用していたが、一方で、ドゥバーソフの民警が公然と登場


この日から17日までは、町の外観はさほど変らず、バリケード解体と復旧が繰り返えされる「相対的安定」期であったが、蜂起側はその間に確実に疲労し、後退して行く


〔プレスニャの状況〕

午後、プレスニャに向け、ヴァガニコフスコエ墓地方向から最初の砲撃。蜂起側は3度まで大砲を奪取する機会をえたが、それを使える者がいなかった。孤立する中で、火力が決定的に不足し、「部隊」は地区内を移動しつつ、苦闘していた。

この日~翌日(13日)頃、プレスニャへ 「カフカース」、「大学」 「鉄道」などの「部隊」残党がやってきた。セドイは、彼らはプレスニャに期待をかけ、その力量を過大評価していた、という。当局もまた同様な過大評価をしていて、プレスニャはにわかに全市的注目をあびることになった。


12月13日

政府軍は環状道路のスハリョーヴァヤ塔からカレートヌイ・リャートまでのバリケードを撤去し、蜂起側の「解放区」は西側、プレスニャ方向へ縮小を始めた。攻防戦の拠点は市中心部からプレスニャ地区へのいわば正面入口にあたるクードリンスカヤ広場に移り出した。

しかし、鎮圧側は一挙にそこを確保する軍事力を欠いていた。

総督は夜9時以降の外出禁止令を出し、さらに夕方6時以降全ての通行者はチェックされ、通りに3人以上集まっていると兵士ないし警官に発砲されると警告した。彼は、ペテルブルクに対し、守備隊1万5,000人のうち使えるのは5,000人に過ぎないと軍隊増派を改めて願い出た。モスクワを支援する余裕はないとの返事があり、ドゥバーソフは直接、ツァールスコエ・セローへ電話した結果、セミョーノブ連隊のモスクワ派遣が決まった。


〔プレスニャの状況〕

砲撃にさらされて、蜂起側は市中央部でと同様に少人数に分散するパルチザン戦術を採用。

この日、プロホロフ工場に「部隊」が公然と姿を現わした。この時のプロホロフ、マモントフ、シミット及び製糖の各「部隊」は合計400~600人(後のプレスニャ関係起訴状による)。「部隊」はまず警官の武装解除をめざして地区内全ての交番を襲撃した。さらに各地でカザークとの交戦を繰り返した。プレスニャでの最大の会戦地点は大きなバリケードが築かれたプレスニャ関門と動物園周辺の2ケ所で、これらのバリケードをはさむ交戦がモスクワ武装蜂起の最も代表的かつ象徴的な戦闘となる。

この夜、カザークと消防士がプレスニャ橋のバリケードに火をかけたが、蜂起側は「部隊」に守られて、それを復旧した。


12月14日

ミウッスカヤ広場の蜂起派は砲撃をうける。政府軍は、革命派戦闘組織の中核が集中しているとみたブロンナヤ通りに攻撃を集中。

明らかにこの日から蜂起側の士気は低下し出した。

ツィンデリ工場労働者がストに不満を言い出し、ジロー工場ではアンチ・キリストの到来が言われて、労働者間にパニックが目立ち、一部は帰村した。復活祭までストはやれない、一両日中に就業しなくてはという話が労働者間で出るようになつた。

大衆の気分から言えば、この日が様々に限界で、転換点であった。

この夜、メンシェヴィキたちは、兵士が人民側に移行するのは大衆の高揚がある場合のみであるが、それが低下した故、もはや勝利はありえないとの判断に達した。


勢力関係は大きく変化し、均衡は崩れた。

「部隊」は疲労し、それが数的に少ないことが判明して、人民大衆の気分は急速にしぼみ出した。「部隊」のために、平和な住民が銃殺されていると思う者も出てきた。『世評』紙記者は、今日(15日)、状況が急変した。幾つかの通りで店は開き、交通が少し戻ってきた。幾つかの銀行が午前中営業した、と書いた。

通りを馭者が走り、パン屋が白パンを売り、各工場で個別的にグループが就業し、そして工場労働者の農村への一斉逃亡が出現した。

この夜、何人かの「部隊」長は自己の隊員を「除隊」し、解放した。「部隊」活動の弱化に伴ない、各地に商店荒らしなどの無法者(ブリガーン)が出没し出した。


〔プレスニャの状況〕

「部隊」の多くは疲労したが、総督の住民に対する軍隊への協力よびかけが逆に彼らを今一度奮起させることとなった。

夕方、プロホロブの「部隊」が刑事警察部長ヴォイロシニコフを逮捕し、銃殺した。

プレスニャ蜂起の過程で、兵士が蜂起側に加担した事実は極めて乏しいが、この日、ネスヴィージ連隊の兵士らが実包65発を「部隊」に提供している。


つづく


0 件のコメント:

コメントを投稿