2025年10月6日月曜日

大杉栄とその時代年表(639) 1905(明治38)年12月10日~11日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑧;本格的闘争期(12月9~11日)③〉 「ドゥバーソフの砲兵部隊は12月10日に系統的に市の砲撃を開始した。倦むことなく大砲と機関銃が活動し、街頭を射撃した。すでに、数人単位ではなく、数十人単位で犠牲者が出た。群衆は狼狽し、憤激して逃げまどった。そして現に起こっていることの現実性が信じられなかった。つまり、兵士たちは一人一人の革命家を狙うのではなく、モスクワという名のえたいのしれない敵、老人や子供の住んでいる家、そして街頭の無防備の群衆を狙って撃っているのだ。」(トロツキー『1905年』より)

 

ピョートル・ドゥバーソフ(1845-1912)

大杉栄とその時代年表(638) 1905(明治38)年12月9日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑦;本格的闘争期(12月9~11日)②〉 市中心部より立ち遅れたプレスニャでは、急いで組織的中心の創出に取りかかった。...プロホロフ労働者たちが指導者たちに決定的な行動を求めたことがこれらの組織化に作用をした。... プロホロフ工場に革命諸党派と労働者らの統一戦線が形成された。 より続く

1905(明治38)年

〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑧;本格的闘争期(12月9~11日)③〉

12月10日 

周縁部工場諸地区では集会が続く。

ツィンデリ工場は数千人規模の大集会となり、政治的権利をうるために蜂起の必要問題が語られ、軍隊の支持がその成功の鍵になるとされた。

タガンカ広場の200人集会では商人の姿が目立った。ここで唯一の政治的スローガンは憲法制定会議召集で、集会参加者はタガンカ監獄へ農民大会代議員などの政治犯解放に向って、阻止された。

ヴヴェジェンスカや広場での800~900人集会では、トヴェーリ通りのバリケードに来たロストフ連隊の一中隊がカザーク分隊に対して一斉射撃を加えて、退却させたという報告がなされ、参加者全員に強い印象を与えた。

昼、ギュブネル工場とその隣接工場の労働者たち数千人がハモフニキ兵営へ巨大なデモをかけたが、途中、竜騎兵の阻止にあって失敗した。これは、翌11日に群集がスパッスク兵営のロストフ連隊「はぎ取り」をめざした動きとならんで、蜂起過程で見られた数少ない兵士に対するアピール行動であった。


事態の急激な展開は運動指導部を慌てさせた。

この日の「部隊」長連立ソヴィエト会議ではメンシェヴィキとエスエルが積極的行動を主張したが、ボリシェヴィキは大衆と組織双方の準備の悪さを理由にそれに慎重であったといわれる。

ソヴィエト執行委は地区組織との接触を失ない、ほとんどを連合ソヴィエトに依存する形となった。

この日夜の決定

①ソヴィエト執行委と大衆との結合確保が困難なため、大衆闘争の直接的指導は地区ソヴィエトに属すべきこと

②バリケードを構築のこと、

③兵士を「はぎ取る」ため、兵営ヘデモ行進のこと。

バリケード構築や兵営へのデモはすでに民衆が実施しており、指導部は全く立ち遅れていた。

蜂起は、エネルギーを束ね、統括すべき部分の機能不全から、専ら地区単位の人民運動の動向にその運命を託すことになった。


当局側もまた事態の急転回に狼狽していた。

12月20日付のモスクワ守備隊当局の陸相宛て報告書は、この10日について、運動はさらに危険性を孕んだ。バリケードが凱旋門につくられ、それによって環状道路全てを把握し、市中心部と軍隊のいる周縁部を切断しようとする動きが出たため、一部を兵営に残置した上で、軍隊全てを市中心部へ集中することにした、と報告。

実際にこの日、兵営から引き出された兵士集団は、主力を二隊に分けられて、劇場広場(現在、ボリショイ劇場前のマルクス広場)と馬場(現在、クレムリン脇の展覧会場)に集中され、残りは駅と幾つかの公共施設に張りつけられた。しかし、実態は順序は逆で、市中心部を軍事力で封殺された蜂起側が凱旋門に踏みとどまり、バリケードを構築したのを、当局は報告書にいうように切断志向と理解したということである。

だが、これは、重大な意味をもっっていた。蜂起側が期待した兵士集団が最も手の届かぬ市中心部に封じ込められ、権力側が信頼するに足りない部分は兵営に閉じこめられて、全体として、蜂起側と兵士の接触が著しく困難になった。


「革命家の戦術はありのままの状況からただちに決定された。これと対照的に、政府軍はまるまる5日間、敵軍の戦術に即応する能力をまったく欠き、ただ血に飢えた暴虐さと狼狽・愚鈍をつなぎ合わせただけだ。

典型的な戦闘の光景はこんな具合である。グルジア人の武装行動隊といえば最も命知らずな部隊の一つであったが、彼らは24人の狙撃隊を組み、2手に分れて公然と行進している。群衆は、将校に引率された16人の竜騎兵がこっちへ乗り込んでくるぞと警告した。武装隊は隊列を整え、モーゼルを構える。斥候の騎兵が現われたと見るや、武装隊は一斉射撃を浴びせる。将校は負傷し、前列の馬も傷を負って後脚で立ち上り、隊列は混乱に陥って、そのため兵士たちは射撃できなくなる。こうして武装隊が100発も射たないうちに竜騎兵は数人の死傷者を残したまま、ほうほうのていで退散する。「さあ逃げろ、今度は大砲を運んできたぞ」と群衆がうながす。事実、ほどなく大砲が出てくる。最初の砲撃で無防備の群衆の中から数十人の死傷者が出る。群衆は自分たちまで砲撃を浴びるとは全然予期していなかったのだ。ところがグルジヤ人たちばこの頃はもう別の場所で軍隊とやり含っていた。武装行動隊はほとんど難攻不落といってよかった。一般の共感という甲胃に身を守られていたからである。

多くの実例の中からもう一つ引いておこう。ある建物に陣どっていた。13人の武装行動隊は、大砲3門、機関銃2挺を有する5,600人の兵士の射撃を4時間にもわたってもちこたえた。軍隊に大損害を与え、実弾を全部使い果たしたのち、この武装隊は負傷者ひとり出さずに引き上げた。兵士側は砲火でもっていくつかの街区を破壊し尽くし、何棟もの木造家屋に火を放ち、恐怖のあまり呆然としていた少なからぬ住民をめった打ちにした。こうしたことはすべて、たかが1ダースほどの革命家を退散させるためだったのである。

バリケードは防御に役立たなかった。それはせいぜい軍隊、ことに竜騎兵が移動する障害物となったにすぎない。バリケードの築かれた地区では、家は大砲の射程外にあった。軍隊は街路全体を掃蕩してはじめてバリケードを『占拠』した。その向う側に誰ひとりいないことを確認するために、だ。バリケードは兵士が引き上げればすぐに復旧された。ドゥバーソフの砲兵部隊は12月10日に系統的に市の砲撃を開始した。倦むことなく大砲と機関銃が活動し、街頭を射撃した。すでに、数人単位ではなく、数十人単位で犠牲者が出た。群衆は狼狽し、憤激して逃げまどった。そして現に起こっていることの現実性が信じられなかった。つまり、兵士たちは一人一人の革命家を狙うのではなく、モスクワという名のえたいのしれない敵、老人や子供の住んでいる家、そして街頭の無防備の群衆を狙って撃っているのだ。」(トロツキー『1905年』より)


〔プレスニャの状況〕

労働者たちの街頭示威行動が続く。

プロホロフからは「土地と自由」と書かれた旗が、その染色部門からは「射つな、ともに労働者だ」と兵士に呼び掛けた旗が出た。彼らは路上でカザークの一隊と遭遇し、その士官と「交渉」をした。

プレスニャの気分は全般に高揚していて、一部の者は自発的にバリケードを街頭に構築し始め、運動指導部の立ち遅れを指摘するほどであった。

この日、プロホロフ大食堂の集会で、地区のバリケード化が決定され、ただちに実行に移された。街灯を破壊した闇の中で、一般住民も参加し、プレスニャはバリケードで包囲された。市中心部でのバリケード構築に遅れること1日である。バリケードはやがて地区の「自治」を保障する象徴となったが、同時にそれはプレスニャと市中心部を物理的に切断した。更に、全プレスニャにサービスしていたクードリンスカヤ広場の電話局が燃上したこともその孤立化を促進した。

住民たちは泥棒防止のため、各戸に見張りを立て、地区のバトロールを始めた。


12月11日

この日が戦闘のピーク

蜂起側はバリケード構築を進め、鎮圧側は軍隊の占拠地域を拡大して、両者は環状道路の北部から西部一帯を中心に激突を繰り返す。

一斉射撃をおそれ、外出もままならぬこともあって、大衆集会はみられない。


バリケード構築は拡大。環状道路をクードリンスカや広場からツヴェトヌイ・ブリバールまでを覆い、更にアルバート、マーラヤ・ブロンナヤの各通りなどを捉えた。

鎮圧側も確実に拠点を確保しつつ、劇場広場に集結した兵士を使ってバリケードの解体にかかり、パルチザン戦術を全面的に採用し出した「部隊」と衝突した。

特に激戦がみられたのは、カレートナヤ環状道路、クラースナヤ関門、ブトウイルスカヤ中継監獄の3地点。


戦闘のピーク時であるが、労働者は益々農村へと去り始めた。幾つかの工場では労働者の農村への逃避が目立つようになり、モスクワ市に踏みとどまり蜂起に参加する者との区別(蜂起参加者のエリート化)が進行した。


鉄道員たちは独自な「部隊」を組織した。

モスクワ鉄道管理局全体で約500人規模と推定され、各路線毎に結成された「部隊」の中で最大級はモスクワ=カザン線でほぼ200人。鉄道員の「部隊」も、当初は駅とスト破りとに対する防衛中心であったが、闘争激化につれて蜂起に積極的関与を果し出した。

極東からの兵士を乗せた帰還列車のほとんどはカザン線経由でモスクワ入りするために、蜂起側はこの路線に最も注目して、その軍隊列車の運行を図り、まず兵士との衝突を回避しようとした。

蜂起側は出来ることならば、これら兵士を革命側へ引き入れることを望んだが、当局も、動員解除兵士の一部でモスクワ守備隊を補充する動きが出た。


「部隊」側は、政府軍の補強阻止と武器獲得のために、市郊外のペロヴォ駅とリュベルツイ駅にチェック・ポイントをもうけ、そこで帰還列車を止め、ピストルやライフル銃を奪取し、帰還兵士らに「人民の事業」への参加を呼びかけた。"


カザン線「部隊」は同線モスクワ=ファウストヴォ間の主要駅で憲兵、警官の武装解除をやり、そこに「人民権」を自己の権力として樹立し、周辺の工場労働者、農民を加えた独自の「部隊」を駅毎に組織した。これらの「部隊」は鉄道財産(貨物等)の防衛をしたが、連日「部隊」列車を運行し、昼間にモスクワで闘う者を救出、支援し、夜間に戻ることを繰り返した。

「部隊」列車の運行は別の地域でも見られた。ムイティシチーの車輌工場(2,500人)から一部の労働者がモスクワへ出て戦闘に参加し、モスクワ駅とムイティシチー及びプーシキノ駅の間に「部隊」列車が運行された。


〔プレスニャの状況〕

この日、プロホロフ労働者たちは同工場消防隊から鉄挺を奪って、バリケード構築に使用した。

この日、蜂起側から軍隊への最初の攻撃。「部隊」はプレスニャ関門にあった露店を燃やし、出動したカザーク隊に射撃して、1人を死亡させた。翌日もまた、カザークと歩兵隊がバリケード解除を試みたので「部隊」が応戦した。

プレスニャの奮闘に対し、他地区から支援はなかった。当局の網をかいくぐってプレスニャに潜入してきた活動家たちは支援の困難さを述べた。ザモスクヴォレーチエ地区のコロメンスキー工場から来た者は、その労働者の大半は農村へ散ってしまい、その「部隊」は15~20人程の少数で、プレスニャ支援に回れないと言った。

時間の経過とともに武器の消耗が目立ち出した。セドイは当時、プレスニャにあったのはライフルと小銃200丁、連発拳銃500~600丁、サーペル150本、爆弾50発でしかなかったと証言している。


つづく


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