1906(明治39)年
6月5日
京都帝国大学に文科大学設置(勅)。9月11日開設。
6月5日
独、艦隊法修正案可決。ドレッドノート級潜水艦建造開始、キール運河拡張決定。
6月6日
駐英大使に小村寿太郎任命。
6月7日
共同火災保険株式会社創立(東京)。資本金500万円。
6月8日
南満州鉄道株式会社設立に関する勅令、公布。
7月13日設立委員任命(児玉源太郎ほか80人)。
9月10日満鉄株募集開始。10月5日募集締め切り。盛況で、約1,078倍の応募。以後投機熱盛んとなり、5、6ヶ月間に10数億円の新会社興起。
11月26日設立。1907年4月1日開業。
6月8日
田中正造に栃木県知事白仁武より予戒令適用(「一定の生業を有せず平常粗暴の言論行為を事とする者」に適用する)。正造の言論・行動の自由を封じ込める。
6月9日
駐清公使に林権助任命。
6月9日
文部大臣牧野伸顕、校長・教職員に対して学生の教育及び風紀引き締めに関する訓令。社会主義の宣伝に惑わされないよう。文部省訓令第1号。「万朝報」賛成、「時事新報」「毎日新聞」は非難。
6月10日
啄木(20)、5日間の農繁休暇を利用して、父の宝徳寺住職復帰運動のため上京、千駄ヶ谷の新詩社(与謝野鉄幹・晶子宅)に滞在。夏目漱石・島崎藤村・小栗風葉等を読み、帰郷後小説家を目指す。
7月「雲は天才である」(11月修正)、「面影」脱稿。春陽堂後藤宙外、後、小山内薫に送るが、いずれも返却。
6月10日
「常磐会」創立。
会場は山縣有朋の古稀庵(小田原)、新々(さらさら)亭・椿山荘(小石川)、新椿山荘(番町の英国大使官裏)など。1922(大正11)年2月山縣死去まで185回。会の名付け親は鴎外であり、幹事は鴎外と賀古鶴所。
『自紀材料』1906年6月10日に、「小出粲、大口鯛二、佐々木信綱、井上通泰、賀古鶴所と会す」とあり、これは創立時の会合であり、賀古を除く4人が選者。
選者の井上通泰は、
「明治三九年六月十日の夜森林太郎、賀古鶴所の二氏が小山粲、大口鯛二、佐々木信綱の三氏と余とを浜町一丁目なる酒楼常磐に招きて明治の時代に相当なる歌調を研究する為に一会を起さん事を勧められた。(中略)余は無論森、賀古の二氏の勧告に応じ(中略)其後賀古氏から話のついでに此事を山県公爵に申し上げた所が公爵も非常に喜ばれカを添へらるる事を約せられた」
賀古鶴所は鴎外と同窓で、わが国耳鼻科の開拓者。1888年には山県内務卿のヨーロッパ巡遊に随行。日露戦争には、「山県の懇請」により従軍。山県と同じく和歌・硯石・刀剣・古書と趣味も広く、「山県に信頼されて国事上の相談」も受けることもあった。鴎外の小倉左遷のとき、辞職を決意した鴎外を切諌し、鴎外が中央に戻ることを運動した。鴎外を「常磐会」幹事とし、山県と鴎外の仲を終始取り持ったのも賀古であると思われる。
鴎外の遺言には、「余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所ナリ・・・」とある。
鴎外と山縣は、「常磐会」を通して急速に緊密になる。
鴎外は山縣に「詠歌に関する『門外所見』を呈」し、「『古稀庵記』を椿山荘へ持ち」ゆき、山縣に頼んで親友・菊地常三郎を「大阪赤十字社支部病院長」にし、平井政通を「陸軍の軍医学校長」にし、陸軍の「新かなづかひ不採用を通告」させ、旧主家の亀井伯爵を「式部官に採用」させたりしている。
6月10日
ニュージーランド、1893年以来首相のチャード・セドン(キング・ディック)、没。1893年に世界で初めて婦人参政権を導入するなど実験的国家社会主義計画を推進。
6月11日
(漱石)
「六月十一日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。
(鈴木禎次、英国留学から帰朝する。)
六月十二日(火)、加計正文に、胃病の調子の今年はどよい年はないと伝える。」(荒正人、前掲書)
12日付け漱石の加計正文宛手紙。
「僕の胃病は今年程よき年はない。天下の犬を退治れば胃病は全快する。是が僕の生涯の事業である。外に願も何もない。況んや教授をや況んや博士をや」。教授や博士を問題にしていない。生涯の事業は、「天下の犬退治」である。
6月11日
米、森林自営農地法制定。
6月12日
日本エスペラント協会成立(東京)。東京高等商業学校生と加藤節の運動による。大杉栄、黒板勝美、千布俊雄ら出席。
8月、「日本エスペラント」創刊。
6月13日
帝国学士院規定公布。
6月13日
エジプト、デンシワーイ事件。鳩の狩猟会で英人将校を殺した現地人処刑。エジプト民衆の感情刺激。英狙撃部隊とエジプト住民が小競合い。
7月、英は増援軍をエジプトに派遣。
6月14日
ロシア領ビアリストクで大規模なポグロム(ユダヤ人の殺害)が起こる。
6月15日
『社会主義研究』第4号発行。
堺利彦訳『科学的社会主義』(エンゲルス『空想的及び科学的社会主義』のエイブリングによる英訳からの翻訳)
6月16日
(漱石)
「六月十六日(土)、上田敏・ロイドと共に卒業生の口頭試問を行う。(小山内薫、大いに閉口する。夜になって漱石苑に陳謝・嘆願の手紙を届く。)
六月十八日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)
6月17日
中国の汴鄭鉄道完成。
6月17日
[露暦6月4日]ペテルブルク市内各所で政治集会。ツァーリに対して闘う国会への支持決議。一部部隊反乱。
6月18日
モロッコのスルタン、1月のアルヘシラス会議を承認。
6月20日
清国、南昌教案で仏に賠償金25万両支払を約す。
6月20日
永井荷風(27)、この日チャイナタウンの魔窟に出入りし、アヘンを吸う賎業婦の悲惨を見て親密感を覚えたという。フランス語学習のため夜学校に通い始める。「娼婦の奴婢になるも何の恥じかあらん」という放蕩三昧の生活。
この月、短編「春と秋」、「長髪」、「雪の宿」を脱稿し、日本に寄稿(「太陽」「新小説」「文藝倶楽部」)。
つづく

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