1906(明治39)年
6月
東京製紙株式会社創立(大阪府)。資本金35万円。
6月
大阪紡績、金巾製織を合併。
6月
藝防抄紙株式会社創立(山口県)。資本金50万円。
6月
岩野泡鳴「神秘的半獣主義」(「左久良書房」)
6月
イラン、大衆運動高揚。
6月
第1回仏・グランプリ自動車レース開催(ル・マン近郊)。ルノー搭乗のハンガリー人セイス・フェレンツ優勝。
6月
ポーランド、ビヤウィストクで計画的反ユダヤ人暴動。ユダヤ人数百人が虐殺。
6月
カナネア鉱山(メキシコ北部、米国人ウィリアム・グリーンの経営)、賃金差別に抗議し1万人スト。マゴンの影響を受けたカナネア人道自由同盟が指導。州知事指令により23名虐殺、敗北。アリゾナ州警備隊も越境して参加。
6月1日
奉天の日本軍撤退。日本、奉天に領事館設置。
6月1日
日露講和条約により、北緯50度以南の樺太がロシアから割譲。
6月1日
(資)池貝鉄工所設立。
6月1日
耕地整理及土地改良奨励費規則公布。
6月1日
幸徳秋水・岡繁樹・岩佐作太郎・竹内鉄五郎・小成田恒郎・倉持善三郎ら、オークランド白人社会党本部にて在米日本人の「社会革命党」発会式。在米日本人社会主義者50名参加。秋水執筆の宣言・綱領・党則採択。
竹内鉄五郎:
日雇い労働者。岩手県出身。啄木と同期で盛岡中学在学、仙台の東北学院で院長押川方義に愛国主義を叩き込まれ、島貫兵太夫の激励をうけ渡米。週刊「平民新聞」により社会主義に共鳴。「竹内の無鉄砲」とあだ名される。
6月2日
この日付け漱石の森巻吉宛手紙。
「(前略)此夏は又講義をかゝなければならない苦しくて面白くなくてきく人もつまらなくて、然もやらねばならぬとは馬鹿気て居る」。大学の講義に熱意がない。
6月3日
山路愛山、『社会主義管見』刊行。発禁。
6月3日
(漱石)
「六月三日(日)、高浜虚子宛手紙に、「少々眼がわろくて弱はり候。」と洩らす。
六月四日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)
6月4日
韓国、老儒・前賛政崔益鉉(チェ・イッキョン)、全羅北道泰仁で蜂起。「棄信背義十六罪」を日本政府に送る。全羅南北道境界地帯制圧。
10日、崔益鉉・林炳瓉ら義兵軍、全州・南原の鎮衛隊に包囲。崔(自ら縛につく)ら13人逮捕。
8月18日、対馬厳島獄舎に護送。
翌明治40年1月1日、死亡(74)。
崔益鉉:
1876(明治9)年江華条約時(44歳)、3日3晩の伏閣上疏を行う。高宗・閔氏政権は反政府分子と見做し、全羅南道の西方海上の黒山島に3年の流刑。1895(明治28)年断髪令時、再度上疏。この時、高宗はこの反骨の士に刮目、特進官・議政府賛政という官職につける。更に京畿道監察使に任じようとしたところ、林公使に反対され、一切の官職から退かされ、郷里からも追われ忠清南道定山面に引下る(1905年3月)。
崔益鉉は、起兵を前にして、日本政府に対する声明を発表した。
「忠国愛人は性といい、守信明義は道という。人にして此の性がなければかならず死に、国にして此の道がなければ必ず滅ぶ」と前提して、日本が江華島条約、下関条約、ロシアへの宣戦布告のなかで「韓国独立」を云々しながら、それを踏みにじってきた「棄信背義十六罪」(信を棄て、義に背いた16の罪)をあげ、日本が守信明義に帰ることを訴えた。
「かれは欧米列強のアジア侵略のなかで、「東洋三国が鼎足して(日本、朝鮮、中国の三国が協力して)立ち、全力を蓄えて之に備えても、なお支えられぬを恐れる」のに、日本の侵略行為によってアジア三国が「同室相讐」をまぬかれず、結局、欧米列強によって「貴国が強いと雖も、終(つい)には亡び、東洋の禍も、已む時あるなし」。
と述べている。
「東洋併亡之禍」をさけるために日本が信義を守ることを訴えるために起ったのだという大義名分を説いている。このように、日本の背信を責め、その道義心に訴えることを挙兵の大義名分として義兵闘争を指導した儒生は、崔益鉉の他にも多数存在した。しかしアジアにおいて「西欧化」を先取りした伊藤博文は、崔益鉉を頑迷な老儒としてなじった。
崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、3年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』)
6月4日
徳富蘆花、10日余をエルサレムとその周辺で過ごし、6月4日、北方のガラリヤ(イエスの郷里)へ出発。サマリアの山地を越えて3日間の馬車の旅の後、6月6日、イエスの生地ナザレに到着。
蘆花の日記
「ヨセフの子と呼ばれ、マリアの子と視られ、弟妹に気の知れぬ兄視(あにし)せられて、雪の冬、泉の夏、野花の春、山の月の秋と、ここナザレの山の上に過ぎし三十年の生涯よ。想へばなつかし、知りたし。」
6月9日、ガリラヤから西方の海岸のハイファ港に出て、14日、フランスの汽船オリノク号に2等船客として乗り、黒海入口のコンスタンチノープルに向かう。
20日、コンスタンチノープルに着き、23日、そこからウィーン行きの汽車に乗る。ブルガリア、ルーマニアを経てロシアへ入るためである。
つづく

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