2026年4月10日金曜日

大杉栄とその時代年表(801) 1908(明治41)年9月1日 漱石『三四郎』(『東京朝日新聞』連載) 熊本から東京に出て来た三四郎が乗る汽車の中で広田先生が「日本には富士山しか自慢するものがない」と言う。三四郎が「しかし、これから日本もだんだん発展するでしょう」と言うと、広田先生は「亡(ほろ)びるね」と答える。「日本人は調子よく上ずっているけれど、何ひとつ自分で作っていない。全部借り物だ。これでは国家の将来はないんだ」

 

漱石「三四郎」第4回(「あなたは餘つ程度胸もない方ですね」と云われる)、名取春仙画

大杉栄とその時代年表(800) 1908(明治41)年8月27日~31日 「おはり一つ兄さんに折入ってお願ひ申したい事があります。ほんたうにすまないのですけれども月末まで質の方をどうかして下さいませんか。一月も兄さんのおかげで助かりましたが、実は六月きりでしたのを七月末までのばして置きましたが、半分も売って利子にしようと思ひましたら、あんまり安いから今迄三月もまつてくれたので御座居ます。今の処は半分でもいいのですからどうぞお願ひ致します。誠にすみませんけれどね - 兄さん」(啄木の妻・節子の宮崎郁雨宛手紙) より続く

1908(明治41)年

9月

韓国、私立学校令・学校令、制定

9月

関東州裁判令(勅令)、制定。関東都督府下に2審制の地方法院・高等法院をおく。初代高等法院長平石氏人(大審院判事)。

9月

大阪鉄工所、日本最初のタンカー虎丸を建造(531トン)、スタンダード石油会社へ納入。

9月

牧野省三、横田商店の依頼で第1回作「本能寺合戦」を製作。

9月

エム・パテー第1作「曽我兄弟狩場の曙」を製作。

9月

セルゲイ・エリセーエフ、谷崎潤一郎(23)、東京帝国大学文科大学国文科入学

9月

荷風、井上唖々と花柳界に足をふみ入れ、柳橋芸者・小勝(鈴木かつ)と馴染む。

9月

市川房枝(15)、萩原町立尋常小学校代用教員となる。

9月

越前電気株式会社創立。

9月

日本国政府、ベトナムのチャウらの国外退去を要求。

9月

日本女子商業学校でタイプライター及び英語速記教授開始。

9月

有恒社亀戸工場、開業。

9月

ベトナム、知識人層の逮捕と処刑執行。

9月

トルコとアラビア半島のイスラム聖地を結ぶヒジャーズ鉄道(1900年建設開始)開通。公募で集めた資金で建設。シャリーフ・フサイン、メッカ太守になる。

9月

オランダ、バリ島で直接統治を確立。

9月

国際労働者保護会議、児童の夜間労働禁止を要求。

9月1日

夏目漱石(41)『三四郎』(『東京朝日新聞』連載、~12月29日、1909年5月刊行)

夏目漱石「三四郎」(青空文庫) 


漱石は明治の悪くなっていく日本人を文明批評的に書く。

熊本から東京に出て来た三四郎が乗る汽車の中で広田先生が「日本には富士山しか自慢するものがない」と言う。三四郎が「しかし、これから日本もだんだん発展するでしょう」と言うと、広田先生は「亡(ほろ)びるね」と答える。「日本人は調子よく上ずっているけれど、何ひとつ自分で作っていない。全部借り物だ。これでは国家の将来はないんだ」。


〈作品背景(Wikipediaによる)〉

明治末期の青年の成長を描いた作品である。当時は、主人公のように地方の人間が立身出世を目指し多数上京していた。作者は福岡県京都郡の農村出の青年・三四郎の目を通し広田の発言として日露戦争後に一等国だと軍備拡張する日本社会を「滅びるね」と批評している。

三四郎は美禰子や野々宮らと知り合い、郷里を踏まえつつ、学問、恋愛と出会う三四郎の戸惑いと成長して無限の可能性のある青年像を描き出している。特に三四郎は恵まれていて明治時代に東京帝国大学に進学できるのはわずかで、苦学生が多い中で月25円仕送りもされていた。日本で最初の教養小説であり新聞小説として広く読まれ注目される。

里見美禰子の視点からは、明治時代末、女性は家から独立する場合には就職の道は無く結婚して夫に養われる以外なかった。特に両親も長兄にも先立たれた美禰子は既に数えで23歳であり当時では適齢期を過ぎた年齢だった。次兄恭介の結婚で同居する真砂町の次兄の家では新妻にとり美禰子は邪魔になり、居場所を探さねばならず先行きに焦りがあった。野々宮には自分を理解しても容認してくれない不満がある。新たに現われた三四郎は「私そんなに生意気に見えますか」と心底を打ちけても不機嫌に黙り込んだまま自分の心情を理解すらできない男性だと見限った。その上で今の水準の高い生活を続ける経済的な面で野々宮との結婚を選択できなかった美禰子と三四郎との関係には評者たちからは様々な感想がある。

漱石は自我を持った女性が苦手で、前作『虞美人草』では、登場する新しい女の藤尾を排除し終盤に殺すが、読者は逆に人気が集まり意図と相反した。この経験から作者の手のうちから少し距離を取る手法で主人公もヒロインの心情や生活がわからない「死角」を持たせ謎がある形にして生きさせ読者に考えてもらうようにした。


〈モデル〉

・三四郎;小宮豊隆がモデル。特に母親からの手紙は小宮自身への母からの書簡が参照されている。

・佐々木与次郎;鈴木三重吉。

・里見美禰子;森田草平と心中未遂事件を起こした平塚雷鳥。漱石は会ったことはなく森田草平の言ったことで書いた。

・野々宮宗八;寺田寅彦。地下の研究室の描写は、弥生町の理科大学本館の寺田寅彦の研究室そのまま。漱石は『虞美人草』執筆当時に1回訪問した。

・広田萇;一高の岩元禎教授。与次郎に対して言う「不可(いか)ん不可ん、下列の極(きょく)だ」は岩元の口癖で、発表時から噂になっていた。

・「三四郎」の名前;早稲田南町の夏目家の近所に陸軍幼年学校の物理学教授田中三四郎邸があり、漱石がその表札を見て、主人公の名を思いついたとする説がある。

・三四郎と美禰子が出会った東京大学の心字池(育徳園心字池)は、本作品にちなんで「三四郎池」と呼ばれるようになった。


〈佐藤裕子『「私そんなに生意気に見えますか」―『三四郎』論』 の「結」より〉

(読み易さのため段落を付した)

『三四郎』においては、登場人物の殆どが、自分が期待する評価ないしは扱いを眼前に展開される現実から受けていないことに悩む人々であった。

三四郎は東京に降り立った時、彼が熊本で受けた教育が「売薬程の効能もなかった」(二)ことに悩み、また野々宮さんは自分の研究が世界的水準にあること自負しつつ、その一方で「冗談」(同)のようにしか見えないことを自覚している。

美禰子もまた「私そんなに生意気に見えますか」(五)という言葉に集約されるように、 自分の意図することと行動との食い違いに気づき悩んでいる。

美禰子が三四郎の自分への思いを受けて「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」(十二)という言葉を発する時、少なくとも三四郎に対する自分の行為が〈罪〉であると規定しているのだ。

また与二郎は文科大学に邦人の外国語教員を招聘するための活動を展開しているが、 彼の身分は東京帝国大学文科大学本科生ではなく、選科生である。つまり彼の存在そのものが、本流からは〈ずれ〉た位置にあるということである。

広田先生とても例外ではない。あるいは文科大学外国語教員招聘の企てが失敗した時、広田先生が三四郎に語った「存在を無視されてゐる方が、どの位対面を保つに都合が好いか知れやしない」(十一)という言葉の裏には、〈対面を保つのに相応の扱いならいざしらず、 相応しくない扱いを受ける位なら無視されている方がいい〉という論理が隠されている。日頃は与二郎から「もう少し出娑婆つて呉れると可い」(四)と考えられている広田先生が抱く自負・矜持である。

このように主要な登場人物の殆どが何らかの形で、自らが考え期待することと現実とが必ずしも一致しないという〈ずれ〉に気づき、その〈ずれ〉に悩む人々なのだ。現実と折り合うことを選んだ美禰子の〈それから〉はまだ見えてはいない。

しかし『三四郎』以降の作品に底流する〈片の着かない現実〉や〈現実とのずれ〉に悩む人々の系譜がここに始まったといっていいだろう。

『三四郎』の意義はまさにここにこそ存在するといえる。


つづく

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