1908(明治41)年
8月27日
憲法大綱の発布。清朝、憲政編査館、資政院王大臣奕劻、溥倫理ら、憲法、議院、選挙各綱要を進呈し、これにより9年後の憲法制定、議会召集を定める。
9月22日、憲法大綱、議院選挙綱要を発表。
8月27日
東洋拓殖株式会社法公布。
12月28日、京城に本社設立。資本金千万円(うち300万円は韓国政府引受、韓国における拓殖事業を目的とする)。総裁宇佐川一正。
8月27日
愛媛県別子銅山四阪島製錬所の煙害で、周桑郡農民1,500人余、居浜の住友鉱業所押しかけ抗議。煙害関係村民2千、今治に集結。紛争激化。
1910年11月9日、賠償金と製錬量制限で解決。
8月27日
外務大臣に小村寿太郎。
8月27日
啄木の上京後、妻の節子は宮崎郁雨の世話になりながら、子の京子、啄木の母カツの面倒を見ながら函館で想像に絶する辛酸をなめていた。
節子の宮崎郁雨宛の手紙(8月27日付)
「葉月二十七日
あつさは又々この二階をおそうて来ました。東京よりのたよりは切角まつてますがうちにはまだ来ません。
啄木が偉くなるかなれぬかは、神ならぬ身の知る事が出来ませんが、だれしも偉くならうといふ自信を持つてゐるでせう。ですがさう思って居る人が果して偉くなり得る力を持って居る人かどうかわかりません。
しかし私は吾夫を充分信じてをります。大才を持ちながらいたづらにうもれるゲザ(ゲーテのことか?)のたぐひではないかと思ふと何ともいはれません。世の悲しみのすべてをあつめてもこれ位かなしいことはないであらうと思ひます。古今を通じて名高い人の後には必ずえらい女があつたことをおぼえて居ります。
私は何も自分をえらいなど、おこがましい事は申しませんが、でも啄木の非凡な才を持つてることは知つてますから今後充分発展してくれるやうにと神かけていのつてゐるのです。だがら犠牲になる等いはれると何ともいはれず悲しくなるのです。私一人なら決して決してこんな事は言ひませんがね ー 兄さん
四年前から覚悟して居りますもの、貧乏なんか決して苦にしません。黄金とか名誉とか地位とかがはたしてどの位の価があるでせうね ー 兄さん
あゝ覚悟し得ぬ他人……あゝ私はこの為今迄もこれからもどのくらゐ苦しむか知れません。私は啄木の母ですけれども大きらひです。ほんとにきかぬ気のえぢ(ママ)の悪いばあさんですから夫もみつちやんもこまつてますのよ。こんなことは私両親にも夫にもいはれませんからね ー
あゝほんとうに私の不幸をきいて下さるのはお兄さん一人ですわ。はしたない女と思召すでせうが可愛想と思うて下さいませ。思へば一昨年の十一月でしたが、私がお産する為里に帰つたのが、三月まで盛岡に暮し五月宅が渡道する時私はこの地にまゐるまで母(実家の)の世話になり、九月に入りて札幌の二週間、日報社時代はとかくしてすごしましたが、今年になつてより又々東西に分れて私はこの北海の秋に親しむ身となってゐるのでございます。
無理にでもくつついて行きたいのですが、私が先へ行くと母がまたなげられた、捨てられたといひます。去年も色々の事情があつてのことですけれど私一人が悪い悪いといふのですよ。だれだつてかまはぬ気ならあんな無理してまでもよびませんわね ー
ほんたうに誤解といつたらひどいですよ、夫は何も知りますまいが私ばかりくるしいのですよ。私一人忍んでをればいいと思うて何もいひませんがね……あゝ夫の愛一つが命のつなです。愛のない家庭だつたら一日も生きてはをりません。私は世のそしりやさまたげやらにうち勝つた愛の成功者ですけれど、今はかく泣かねはなりません‥…しかし啄木は私の心を知つてるだらうと思ひます。もしも誤解でもするやうだとこれ位悲しいことはありません。盛岡へ行くことも私はゆかぬといふてやりましたから、キットめんどうだと思つてあゝゆうてよこしたのでせう。なんだかあまりグチになりますからこれでよしませう。おはり一つ兄さんに折入ってお願ひ申したい事があります。ほんたうにすまないのですけれども月末まで質の方をどうかして下さいませんか。一月も兄さんのおかげで助かりましたが、実は六月きりでしたのを七月末までのばして置きましたが、半分も売って利子にしようと思ひましたら、あんまり安いから今迄三月もまつてくれたので御座居ます。今の処は半分でもいいのですからどうぞお願ひ致します。誠にすみませんけれどね - 兄さん
節子
なつかしきお兄様 御許に
お返事はいただかなくとも宜しう御座居ます。京子せわしきため乱筆御ゆるし下され度候
月末の払や何かは先月いただいたので大丈夫にて侯間質の方のみ何とぞ何とぞお願ひ申上候
サヨナラ」
8月28日
台湾で刑事令、監獄令、民事令公布。
8月28日
政府、閣議で財政整理方針(非募債、財政緊縮、国債償還)決定。金融緩和、証券市場の回復を馴致する。
8月28日
(漱石)
「八月二十八日(金)、鏡、子供らと共に片瀬から帰る。
八月二十九日(土)、「午後夏目先生を訪ふ。『三四郎』まだ半分を書き終らぬ由。田端の十一月頃の景色を書く必要あれども其頃の時候たしかならずとて色々話す。大學運動会の事も聞かる。夫人令嬢等は昨日片瀬より歸京されし由。令嬢の一人百日咳にかゝりし由。」(「寺田寅彦日記」)
八月三十日(日)、『三四郎』書き始めようとすると、来客のため執筆できぬ。尾上始太郎(もとたろう)から謡を習う。
『三四郎』の(六)に、大運動会を描いている。田端の十一月頃の景色はない。初めの構想から消えたものであろう。」(荒正人、前掲書)
29 ・赤旗事件判決。
大杉栄重禁固2年半、堺利彦・山川均・森岡栄治2年、荒畑寒村・宇都宮卓爾1年半、村木源次郎・百瀬晋・徳永保太郎・小暮れい子・大須賀里子1年(徳永・小暮・大須賀は執行猶予)、菅野須賀子・神川松子無罪。仲裁以外何もしなかった堺・山川でさえ2年。避暑に行く程度に考えていた堺らにとって意外に思い判決。
9月5日、市ヶ谷拘置所より千葉監獄に移る
〈赤旗事件公判筆記 『熊本評論』9月20日掲載〉
「錦輝館赤旗事件の判決言渡しは8月29日午前11時服部検事立会、島田裁判長に依り言い渡された。判決左の如し
(略)
…寒村荒畑勝三君は、猛烈疾呼して曰く『裁判長!』裁判長は稍々青味勝ちたる顔を仰て寒村を一瞥した。寒村君は猛獅の吼ゆるが如く、
『裁判長! 神聖なる当法廷に於て、弱者が強者の為に圧迫せられた事実の、明瞭となりしを感謝します、何れ出獄の上御礼を致します』…
次で大杉君も亦『裁判長!』と疾呼して何事をか言わんとした、然し驚愕の色を眉宇に浮かべた裁判長は、『今日は言渡しを仕た迄だ、不服があれば控訴せよ』
と言い棄てて去んとする。茲に於て大杉君は『無政府党万歳!』
と叫んだ他の同志も我劣らじと『無政府党万歳』を連呼した。…』傍聴席には60余名の同志が席し、新聞社席には都下の新聞記者及幸徳秋水、坂本克水、徳永国太郎、等の諸君が着席して居た。
佐藤悟君は例の蛮声で、『是が所謂法律だ吾々は唯だ実行!!実行!!』
大杉君は、呵々大笑して居た。非常に感情の興奮する時、吾等は彼の此の哄笑を聞くのである。曾て本郷平民書房楼上に於て、金曜講演迫害事件の有た当夜、同志の一人がユートピアの話を仕て臨検警部の講演中止、集会解散を食った時、呵々大笑したのは大杉君であった。他人が血涙を振って憤る時に、哄然として大笑するのが大杉君の癖である、吾等は彼れの此の哄笑を聞く毎に、悲憤の涙が零れる。堺君は幸徳秋水君に。『社会党の運動も是で一段落だ、折角身体を大事に仕手呉れ』と言いつつ、相顧みて一笑した、ああ寂しき一笑、無限の感懐に満ちたる一笑。
山川君は、毫も興奮の状が容貌に現われて居無かった、静々笑って、悠然として、出て行った、ああ痩せたる彼れの後姿!!三ヶ月有半の牢獄生活に、青春の血潮を涸渇されたる彼は、今や再び苦き経験を繰り返さんとす、ああ恐ろしき監獄の烈寒………………
看守は十四名を牽いて撻外に出した、長き広き廊下に溢れたる群衆は、愁いと笑をもて目送する、同志の或者は再び万歳を連呼した。而して『ああ革命は近けり』と、声高々に歌うたいつつ。
大いなる運動、大いなる活動は、茲に時期を劃した、歴史は更に次の頁に移らねばならぬ。如何なる頁か、其は唯だ為政者の自由なる想察に任せる!!
8月30日
「東京朝日」社説(池辺三山)、財政政策などで桂内閣を評価し、論調の急変が世人を驚かす。三山の桂接近説が買収説に発展し、社内の反三山派を形成、明治44年の三山退社にまで影響する。
「吾人は西園寺内閣を中間にはさむことなく、戦後の桂内閣をして今日まで引続き存続せしめたる方、或いは却ってよろしかりしならんかとも思う」
8月31日
米ポートランドに領事館開館。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿