2026年4月15日水曜日

大杉栄とその時代年表(806) 1908(明治41)年10月4日~9日 「十月九日 新聞の海外電報は、欧州外交界の活気を伝へてゐる。墺国のボスニア、ヘルゼゴビイナ合併、勃牙利の独立宣言、クリート島の希臘合併宣言………列国会議が開かれねばならぬ事となつた。世界の視聴は今巴爾幹半島に注がれた。そして、そして、此活劇の脚色家は、独帝にあらずして誰だらう!」(啄木日記)

 


大杉栄とその時代年表(805) 1908(明治41)年10月1日~3日 「1908年10月、私はウィーンで、広範な労働者層を対象としたロシア語新聞『プラウダ』を発行しはじめた。」 「『プラウダ』における私の主要な協力者は、後にソヴィエトの著名な外交官となるA・A・ヨッフェだった。私たちの親交はウィーン時代から始まった。ヨッフェは、高い思想性を持ちながら、個人的には非常に温和で、大義への揺るぎない献身を有した人物だった。彼は『プラウダ』にその持てる力と手段を注いでくれた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1908(明治41)年

10月4日

(漱石)

「十月四日(日)、小宮豊隆来る。午後、寺田寅彦来る。(神楽坂まで夫人と一緒である)小宮豊隆、夜遅く帰る。

(十月初め(日不詳)、『国民新聞』で高浜虚子を主宰者に、島田青峰・野上豊一郎を下働きとして、「文芸欄」を新設する。)

十月五日(月)、『三四郎』脱稿する。

十月六日(火)、寺田寅彦宛手紙を、使いに持たせて博士祝いの案内をする。夜、鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎三学士の卒業祝いも兼ねて、食事をする。寺田寅彦、自転車で来る。二か月かかって、『三四郎』を脱稿したので謡をうたう。十二時近くに散会する。


(『国民新聞』文芸欄)これは、新聞に設けられた最初の文芸欄である。徳田秋声に依頼して『新世帯(あらじよたい)』を掲載する。徳田秋声の文壇的出世作となる。高浜虚子は、明治四十三年秋に辞任する。十月から十一月にかけて、『国民新聞』は、漱石に寄稿を求める。伊藤整は、高浜虚子が『国民新聞』に連載した『俳諧師』が完結した頃で、九月であったとしている。高浜虚子は、初め『国民新聞』政治部長から社会部長にならぬかとの交渉を受けたが、その任でないと断る。「文学部」を設けてもよいということになり、承諾する。『読売新聞』のように一ページを割き、「国民文学」の欄を設ける。


(『三四郎』脱稿)その後、春陽堂から催促もあって、『文学評論』の校閲にとりかかり、十一月初め頃から年末にかけて約一か月間これに専念し、半分ほど書き直す。瀧田哲太郎(樗陰)と森田草平が清書する」(荒正人、前掲書)


10月4日

「十月四日

日曜日。

明星百号に載せる写真を撮りに行かうといふので、昼飯がすむと、金田一君と二人で出かけた。九段の坂の佐藤といふ処で撮る。金田一君は腰かけて、予は立つて。

[写真メモ]写真番号九〇八八九段坂佐藤(番町三四一)

それから、日比谷へ行つて、初めて公園の中を散歩した。人工の美も流石に悪くない。松本楼でビールを飲み乍ら晩餐をとつて、また散歩して、夕間暮、電車旅行をやらうぢやないかと築地浅草行といふのへ乗つた。四十分許り見知らぬ街を駛つて、浅草に着く。塔下苑を逍遥ふこと三十分。大勝館に活動写真を見て、また電車。大分疲れて餒じくなつてゐた。四丁目の藪でまたビールを飲んで蕎麦。例の天プラ屋の娘が淫売だと女中が話したので、金田一君少し顔色が悪かつた。帰つて来て寝たのは十一時。

今日初めて、東京の日曜らしい日曜を経験した。


十月六日

“今日は六日ですね”と女中が言つたのでヒヤリとした。

(略)

夜になつて、明星が来た。巻頭に雑誌“昴”の予告、この広告文は予が書いてやつたのだ。・・・・・

春陽堂の後藤宙外氏から葉書、稿料暫時待つてくれと書いて来た!

夜は明星を読んだ。


十月七日

(略)

一時頃、吉井君が太田正雄君をつれて来た。今年医科大学を卒業するのだつたが、試験におくれて一年のびたといふ。話は面白い人だ。学殖も浅くはないし、観察も一見識がある。並木君も来た。四時半、相ついで帰つて行つた。

夜になつて雨が降り出した。」(啄木日記)

啄木が初めて木下杢太郎に会ったのは、10月3日の鴎外宅での観潮楼歌会で、7日に対談した。

啄木22歳、杢太郎23歳。杢太郎は前年2月に、新詩社同人となって『明星』に数篇を発表していたが、この年、北原白秋・長田秀雄・吉井勇・長田幹彦らと新詩社を脱退し、「パンの会」を興す準備をしていた。パンの会は東京に展開された耽美的文芸運動、杢太郎が発起者で白秋と共に主導者であった。この会は1909、10年が全盛であった。

10月5日

清国と、満鉄、京奉両鉄道連結協約に調印。

10月5日

岡田武松、『気象学講話』。

10月5日

ブルガリア独立宣言

ブルガリア大公フェルディナント1世、青年トルコ党革命の混乱に乗じて、オスマン帝国からの独立宣言。自らツァーリと称する(~1918年)。

1909年4月19日、トルコ(オスマン)、ブルガリアの分離を承認。

10月5日

蘭領東インド・ジャワ、5月20日設立の知識人民族主義者運動のブディ・ウトモ(純潔なる努力)第1回総会。

10月5日

仏、労働総同盟(CGT)マルセイユ大会(~12日)。反戦ゼネスト決議採択。

10月6日

オーストリア=ハンガリー二重帝国(皇帝フランツ・ヨーゼフ)、英仏独伊4国に対しボスニアとヘルツェゴビナの2州の編入を通告。

セルビアとモンテネグロ、強く反発。

ロシアはオーストリア・ハンガリー支持撤回、セルビア支援し対抗。ボスニア危機。

結局、トルコは償金54万クローネで併合合意。

10月7日

セルビア王国とモンテネグロ公国が反オーストリア=ハンガリー同盟を結成

10月8日

清国、英仏銀行と京漢鉄道回収のための借款成立(500万ポンド)。

10月8日

(漱石)

「十月八日(木)、小宮豊隆来て泊る。

十月九日(金)、午後、『三四郎』の原稿を小宮豊隆に頼んで、東京朝日新聞社に届けて貰う。(『草合』、『東京朝日新聞』新刊紹介に掲載される。)

十月十日(土)、寺田寅彦の留学決定し、その送別を兼ね八王子に遠足する。早朝、寺田寅彦来る。小宮豊陸・鈴木三重吉、人力車を列ねて来る。出発直前に野上豊一郎来る。寺田寅彦・鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎と共に、午前十時八分(十時三十二分かもしれぬ)新宿発八王子行の列車に乗る。十一時三十二分(十時三十二分発に乗ったとすれば、十一時五十七分着)八王子停車場に着く。大弓場で弓を射る。中町の万隣楼で昼食(松茸・鮎の塩焼と煮ころがし・刺身・きんぴら・きんとん・ビール)をする。弓を引いたり、将棋を指したりし、玉川(多摩川支流浅川)にかかる大和田橋(推定)を渡り、滝山城跡(推定)に登って平原を見渡す。コスモスの咲く河原を歩く。午後六時十一分八王子発飯田町行列車に乗り、七時四十四分(一、二分前)牛込停車場に着く。(推定)鈴木三重吉、汽車のなかで財布を失い、新宿停車場で調べて貰ったが出て来ない。島金(蒲焼 牛込区神楽坂町二丁目一番地、現・志満金 新宿区神楽坂二丁目一番地)で夕食をする。この後、十日間はど疲労を覚え、食欲減退し、一日一食にして紅茶だけ飲む

十月上旬または中旬(日不詳)、村上半太郎(霽月)、愛媛県から上京し立ち寄る。

十月十日(日)、小宮豊隆に誘われ、落語研究会に赴く。少し遅れれたので、席がうしろでよく聞えない。柳家小さんを聞いて帰る。

十月十二日(月)、小宮豊隆、今井某(不詳)と共に、筆を連れて、中島六郎(牛込区市が谷田町三丁目十一番地、現・新宿区市が谷田町)の所にヴァイオリンの稽古を依頼に行く。」(荒正人、前掲書)

10月8日

クレタ島のギリシア人、ギリシア本国との合併を宣言。ギリシア政府はクレタ併合宣言を躊躇。

翌1909年7月、ギリシャ本国で軍人によるクーデタ。

10月8日

セルビア、秘密結社「ナロードナ・オドブラーナ」結成。

10月9日

条約改正準備委員会官制公布。13日 委員任命。

10月9日

波多野精一、『基督教の起源』。

10月9日

「十月九日

新聞の海外電報は、欧州外交界の活気を伝へてゐる。墺国のボスニア、ヘルゼゴビイナ合併、勃牙利(*ブルガリア)の独立宣言、クリート(*クレタ)島の希臘(*ギリシャ)合併宣言………列国会議が開かれねばならぬ事となつた。世界の視聴は今巴爾幹(バルカン)半島に注がれた。そして、そして、此活劇の脚色家は、独帝にあらずして誰だらう!


(註)〈背景〉この年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起きるとオーストリアは、オスマン帝国の混乱に乗じて一方的にボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の併合を宣言。ボスニア地方には多数のセルビア人が居住していたことから、その東に国境を接するセルビア王国が強く反発した。

ロシアはセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国との戦争の危機となったが、ドイツが強硬にオーストリア=ハンガリー帝国を支持し対抗する意志を示したことと、ロシアは日露戦争と第一次ロシア革命の痛手から完全に回復していなかったため、当面は戦争を回避した。


(略)


十月十日

(略)

夕刻千駄ヶ谷についた。平野、吉井、渡邊、間島の四君がモウ来てゐた。おくれて松原君も来た。・・・・・

五十首といふことにして作り初める。


十月十一日

眠くて眠くて、仕方がない。到頭暁近くなつて予は松原と共に少し寝た。朝になつて、漸々三十五首だけ。〆切つて清書して選、大分よい歌があつた。外の人は皆五十首づつ。皆済んだのは四時頃であつた。晶子氏から二円の小為替券貰つた

帰つて来るとき、電車が満員で五台許り見送つた。吉井が是非昇菊の顔を見なけりやならぬと云ふ。平野の処で夕飯をくつて、八時少し前、三人で鈴本亭に行つた。小土佐がやつてゐた。太田正雄君も来てゐた。小京の風邪声、イヤで、イヤで、そして眠い。朝重は、お俊伝兵衛、猿廻しの段、昇菊に京歌のつれ引、眠くて、眠くて、見台を叩く音にびつくりする、昇菊が素的に美しく見えた。見てゐると、段々遠くなつてゆく様に見える。ト、ドタンと見台を打つ音、びつくりして又昇菊の顔をみる。こんな事が何回か続いて、十時二十分にハネた。帰りは月がよかつた。

(略)


十月十二日

秋晴の日だ。八時半に起きた。モウ徹夜の疲れが癒つてゐる。与謝野氏へ写真を送つた。

一寸出て、昨日の小為替を受取つて、Maupassant の短編集第六と兵子帯と、封筒などを買つて来た。今迄の兵子帯は、昨年の八月函館で買つたので、モウ目もあてられぬ程裂けてゐたのだ。

何もせぬうちに昼飯になつた。斬髪し、入浴して来て、心地がよい。

(略)」(啄木日記)

つづく

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