2023年11月16日木曜日

〈100年前の世界126〉大正12(1923)年9月4日 姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)続き② 『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より 安行村・戸田村の状況 埼玉県の「移牒」こそ流言蜚語の発生源     

 

虐殺された姜大興の墓に焼香する市民

=さいたま市見沼区の常泉寺で2022年9月4日、木村健二撮影

〈100年前の世界125〉大正12(1923)年9月4日 姜大興(カンデフン、24歳)虐殺(片柳村染谷での事件) 『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より


姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)続き②

また、三室村の南西3.5キロほどの浦和町の同じ頃の状況について、9月4日の上毛新聞は「警鐘を乱打し、浦和町の大警戒、東電浦和開閉所より前橋支店に報告した処に依ると鮮人多数入町し為めに各町に於て警鐘を乱打し之が防禦に当たって居る町中は鼎の涌いた様な騒然たる状況である(午後三時二十四分記)」と伝えている。


安行村、「戦時以上ノ気分」

さらに安行村(現、川口市東部の安行)の青年団領家支部長、長島彦太郎の詳細な震災の記録「関東大地震実記」を見てみる。

村では住宅の全壊99戸、半壊66戸、死者6名の被害が出ており、戸締りのできない家が大部分のため、9月1日には自警団が組織される。その後、1日午後に、警察官から小菅刑務所から囚人150人脱走の情報が入り、「殺気立ツ」状況になった。しかし、この時点では自警団の武装についての記述はない。

9月2日、彦太郎は王子で圧死した親族の遺体引取りのために東京に出かけている。風が強く燃え残りの紙類が安行近くへも降ってきたなどの記述はあるが、「不逞鮮人」に関する流言の記述はない。

彦太郎が行った王子は、東京の中でも1日午後4時という早い段階で流言が発生したとされるところで、王子警察署の報告では、9月1日の項で「不逞鮮人」「放火」「毒薬」「爆弾」「殺人」アラユル暴行」という流言が記されている。

彦太郎はこれらの流言を耳にしなかったか、耳にはしたがそれが緊迫感をもって何らかの行動を起こすほどのものとは思えなかったようだ。

次に、9月3日、彦三郎は「不逞鮮人」のことを書いている。

「大地震及東京ノ大火災ヲ機トシテ不逞鮮人ガ東京、横浜ニ暴動シ其ノ余波ハ我県内ニモ侵入シテ早ヤ其ノ一団ハ根岸鳩ケ谷方面ニ出没シタトノ怪報ガ三日午後二時頃ニ中山芳太郎方ヲ取片付ノ際達セラレタノデ、中山方ヲ退散シテ各自棍棒、鍬、万能、鎗等ノ兇器ヲ持参シ村ノ入口ヤ其他要所要所ヲ警戒シタ」とあり、状況は「戦時以上ノ気分デ人心ノ動揺、其ノ極ニ達シ安眠モ出来ズ殺気紛々ノ状態ト成ツテ来タ」としている。

吉三郎メモにある3日午後3時頃の村役場からの「急報」が、安行村の午後2時頃の「怪報」に相当し、郡役所から村役場を通じて各区長に伝えられた埼玉県の「移牒」だと推測できる。

戸田村、「不逞鮮人各所ニ放火」

戸田村の日坂安右衛門(52)の日記による戸田村の状況。

9月2日は中山道を避難民・見舞人が行き来する様子を書いているが、流言蜚語については何も書かれていない。

しかし、3日になると不逞鮮人に関する流言蜚語や自警団結成について記述されてる。流言義後は、戸田橋を通過する避難民から伝わったものか、埼玉県の「移牒」によるものかは分からない。

3日の日記「鮮人等火ヲ付ケル由ニ聞ク、鮮人等警察官ト抜刀戦フアリ、市中戒厳令ヲ発布セラルト・・・・・鮮人弍、川口ニ捕ハル、通行セリ・・・・・不逞鮮人各所ニ放火シ、三百年ノ文化ハ一場ノ夢、ハカバト化シタリ云フ、吾地ニ於イテモ消防隊及青年会ニテ警戒セリ」とある。


「移牒」こそ流言蜚語の発生源

北足立郡役所管内の埼玉県南部の4ヵ村、片柳村、三室村、安行村、戸田村の流言蜚語の状況を見てみると、9月2日までは流言蜚語について知っている可能性は高いものの、それに関する記述はない。流言蜚語について、耳にしていても、記録し、恐怖し、自警団を結成して朝鮮人を襲撃、殺害するという程ではなかった。

ほぼ共通しているのは、3日午後の埼玉県の「移帳」が届き、不逞鮮人に関する流言蜚語が発生し、自警団結成へと急展開していることである。

埼玉県北部では、4日午後から5日にかけて、熊谷、神保原、本庄で、5日には寄居、児玉で事件が起きているが、その原因となった流言蜚語の第一報は東京からの避難民から広がったのではなく、3日午後に郡役所から各町村に伝えらた「移牒」によるものの可能性が高い(本庄の青年団員栗田剛の証言)。

自警団を虐殺へと飛躍させた「移牒」

この「移牒」とは、9月2日付けで埼玉県の香坂昌康内務部長が県下一市九郡役所に発した「不逞鮮人暴動に関する件」のことである。


〈参考記事〉↓

〈100年前の世界049〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺① 流言(朝鮮人暴動、来襲)が広がり、警察もこれを事実と信じ込む 「鮮人中不逞ノ挙ニツイデ放火ソノ他強暴ナル行為ニイヅルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人工対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」(2日午後5時、警視庁)

〈100年前の世界050〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺② 〈公文書による流言の拡大〉 〈9月2日に警官や軍人が流した流言〉 〈朝鮮人虐殺を容認した警察官の発言〉

この「移牒」は実物が残っていないが、吉野作造が論文「圧政と虐殺」(1924年)で紹介した。なお、綾川武治は、事件後に県当局が責任を隠蔽するため秘密裏に回収したと主張している。


千葉県、群馬県では

千葉県大和田町大和田新田(現八千代市)では、習志野の騎兵連隊から引き渡された朝鮮人を自警団が虐殺したが、この経緯を記した日記には、「三日 区長の引続(ママ)ぎをやる。(略)一切を渡す。夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役所より通知あり、在郷軍人団青年団やる。」とある。3日夜に役場からの「不逞鮮人」への警戒を要請する旨の通知があった。

群馬県藤岡市では、5日、6日に自警団が朝鮮人17人を虐殺した。この時、3日付けで佐波郡長が町村長に宛てて「東京府下震災に際し囚人多数脱出し、又不逞鮮人暴行有之たるやに聞き及び候処、警戒の厳重となるに随(したが)い、是等不逞の徒何時当地方へ入り込むやも測りがたく候条、この際警備隊を組織し、警戒を厳重ならしむるよう」との通知が伝えられた。


つづく

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