2023年9月1日金曜日

〈100年前の世界050〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺② 〈公文書による流言の拡大〉 〈9月2日に警官や軍人が流した流言〉 〈朝鮮人虐殺を容認した警察官の発言〉     

 

「本所石原方面大旋風之真景」

〈100年前の世界049〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺① 流言(朝鮮人暴動、来襲)が広がり、警察もこれを事実と信じ込む 「鮮人中不逞ノ挙ニツイデ放火ソノ他強暴ナル行為ニイヅルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人工対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」(2日午後5時、警視庁) より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺②

〈公文書による流言の拡大〉

(震災当初、政府や警察は流言を否定せず、むしろ広めていた。情報源の少ないなか、官憲が流した誤情報が信憑性をもって広まった。公権力の手によってデマが流布した。)


内務省警保局長から各地方長官宛に海軍の船橋送信所から呉鎮守府副官経由で送った流言(3日午前8時15分)

(原文は、2日午後に東京から船橋に送られた。従って、内務省警保局長後藤文夫は9月2日午後には朝鮮人暴動を事実と思い込んでいたと推測できる


呉鎮守府副官宛打電                  九月三日午前八時十五分了解

各地方長官宛                      内務省警保局長出

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加へられたし


これを受けて各地では、通牒や通達で隅々まで流言を拡大してゆく。

神奈川県三浦郡長名で各町村宛に配られた公文書


「不逞鮮人」に対する自衛勧告の件通達

                                号外大正十二年九月三日三浦郡長

今回の災害を期として不逞鮮人往行し被害民に対し暴行をなすのみならず井水等に毒薬を投ずる事実有之候条特に御注意相成度追て本件に就ては伍人組等を活動せしめ自衛の途を講せしめられ度

埼玉県内務部長の指令

(9月2日夕告に内務省から帰ってきた埼玉県地方課長が内務省から持ち帰った指令に基づいて埼玉県内務部長が電話により郡役所経由で埼玉県内の町村役場に送った指令)

「庶発第八号 大正十二年九月二日

                      埼玉県内務部長

郡町村長宛

不逞鮮人暴動に関する件

移牒

今般の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の妄動これあり、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣聞くに及び、漸次その毒手を振るわんとするの惧(おそれ)これあり候に付いては、此際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団は一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合は、速やかに適当の方策を講ずる様至急御手配相成たし。右その筋の来牒により、この段移牒に及び候也。」

(吉野作造『圧迫と虐殺』1924年、東京大学法学部「明治新聞雑誌文庫」所蔵、96~97頁)


警視庁は、自動車・ポスター・メガホンなどにより朝鮮人来襲の報を全市に撒く。

朝鮮人暴動の流言は、事実と断定され、警察と軍隊の通信網によって伝えられ、新聞も報道し、たちまち全国に広がり、流言には尾ひれが付いてゆく。

〈9月2日に警官や軍人が流した流言〉(山田昭次『関東大震災と朝鮮人虐殺』より)

①東京市麻布区本村尋常小学校一年生西村希代子作文「大じしんのおはなし」

(9月2日)ゆうがたになったら〇〇〇〇〇〇〇(ふていせんじん)がせめてくるからとあまわりさんがいいにきました。

(琴秉洞編・解説『朝鮮人虐殺児童証言資料』緑蔭書房、1989年、300頁)

②東京市京橋区高等小学校一年生鈴木四郎作文{思い出」

(9月2日)日は西に傾いた。(中略)巡査が、「今晩は〇〇〇(不逞鮮)人の夜襲がありますから気を付けて下さい」と叫びながらまわってあるいた。

(琴秉洞編・解説、前掲書371頁)

③神奈川県橘樹郡中原村(現川崎市中原区)の小林英夫の日記1923年9月2日条

この日、警察より「京浜方面の鮮人暴動に備うる為出動せよ」との達しあり。在郷軍人、青年団、消防団等、村内血気男子は各々武器を携え集合し、市之坪境まで進軍す

(川崎市役所編・刊行『川崎市史』1968年、303頁)

④横浜市磯子小学校高等科一年内田豊次の作文「震災時の有様」

九月二日は恐ろしかったのは朝鮮人騒ぎだった。鮮人が暴れたといって巡査や又人々が刀や竹やりをもって鮮人征伐だといっていた。

(琴秉洞編・解説、前掲書120頁)

⑤横浜市寿高等小学校一年生木川マツ作文「嗚呼焦土」

(9月2日)石川の方で、がやがやものさわぎの声がする。なんだろう。兵隊「朝鮮人が乱暴するから来たのだ」といった。

(琴秉洞編・解説、前掲書73頁)


〈朝鮮人虐殺を容認した警察官の発言〉

①東京日日新聞(1923年10月22日付)の読者の投書。

「私は、三田警察署長に質問する。9月2日夜、××襲来の警報を、貴下の部下から受けた私どもが、ご注意によつて自警団を組織した時、『××と見たらは、本署へつれてこい、抵抗したらは○しても差し支えない』と、親しく貴下からうけたまはつた」

②東京市本所区(現墨田区)に住んでいた川島つゆ手記『大震災直面記』(古庄ゆき子、1974年、27頁)

「〇(鮮)人と見れば打殺してよろしい」

それを巡査が触れて歩いた。それが事実であるから致し方ない。(中略)

向こう鉢巻に勢い立った親父達が「今日は六人やっつけてやった」とか「俺が第一番に手を下してやっつけたのだ」とか云うことを得々と語って、流行性変態振りを発揮して居た。


つづく


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