大正12(1923)年
9月4日
埼玉県南部、北足立郡片柳村染谷での事件
9月4日午前3時頃、朝鮮人青年姜大興(カンデフン、24歳)は染谷に迷い込み地元自警団によって虐殺される。
『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より
「読売新聞」(1923年11月4日)の報道
「蜂の巣のごとく ー 槍で頭を突き刺す ー 」
「同村地方は大宮駅に近きため、流言蜚語早く起り単に東京の事にもならず、県立浦和中学校や埼玉県庁が鮮人の襲撃を受けつゝありとの怖しき流言伝はりたるため、村民一同不安にかられ村当局から注意もあった為め、一同日本刀其他の兇器を相携へ警戒の折柄、四日午前三時頃同字山方面に鮮人姜大興(二四)逃れ来り、染谷地内に入るや不逞鮮人なりと思惟し、警鐘を乱打して同村大字染谷A(二〇)、B(二〇)の両名は字八雲耕地に追撃し、Aは後輩部から槍で胸部を突刺したので畑中に転倒した。起き上がる所をBは日本刀で左肩部を斬付け、Aは更に槍にて前額を蜂巣の如く突き殴打し、C(四六)、D(三一)両名は日本刀で、Dは右腕をCは臀部を深く斬付け、E(四〇)は槍を以って後頭部を突刺し、因って同鮮人を殺害したものである。」
浦和地裁判決では、姜大興は、少なくとも溝や畑で2回転倒し、抵抗することなく逃げたが、少なくとも5人に追い回され、槍や日本刀で胸、左肩、前頭部、右腕、臀、後頭部を執拗に突刺され、斬り付けられ、重傷を負い、大宮市の萩原病院に収容されたようだが、4日午前9時頃死亡したという。
当時、旧制中学四年生で、事件を目撃した高橋武男の『かくされていた歴史』にある証言では、犠牲者はすぐに絶命したのではなく、「切傷や突き傷が多くて、戸板に乗せて病院に収容しようとして大宮に持っていったんです。それで今の開成高校のあがった所に坂がありますけど、あの坂をおりたあたりで息をひきとったと聞いています」とある。
高橋吉三郎のメモには、姜大興の体の傷は「中々大ニシテ 大ナルガ三四ヵ所 大小二十何ヵ所モアリシ」とあり、血だらけになり、数時間悶え苦しみ絶命したと考えられる。
朝鮮人姜大興墓
事件現場近くの常泉寺(曹洞宗)の墓地に姜大興の墓がある。高橋武男の三男である高橋隆亮と日朝協会埼玉連合会は、2007年から犠牲者の命日である9月4日に常泉寺で「朝鮮人犠牲者追悼会」を毎年開催している。墓を建てた時期は、武男は「すぐだと思いますよ。大正一二年のうちじゃないですか」と語る。戦前に日本人が建てた関東大震災時の朝鮮人犠牲者の墓碑、追悼碑は10基確認されているが、この墓は最も早く建てられたものである。
高橋吉三郎と区長関係文書、手帳
事件当時、染谷の区長は武男の父高橋吉三郎で、1885年10月28日生まれの37歳であった。高橋家は、吉三郎の父の代から吉三郎の代の頃、織物業を手がけて相当の財を築き、得た資金で土地を購入し地主として成長していったという。区長としての吉三郎は、多額の試合を投じて村民の生活向上に尽くしたり村の親睦に務めた。
吉三郎は、朝鮮人虐殺の経緯を記録した手帳「吉三郎メモ」を残していた。
事件の発生、被疑者の検挙、取り調べ、公判、判決、恩赦に至る経過が記され、最後のページは、「十三年三月十五日 特別ニ執行猶予赦免サル 此記事ハ証年□后記シタルモノナレバ漫ハ覚違アルモ写シ□シ」とある。
3日午後から始まった埼玉県の不逞鮮人問題
本庄駅で救護に当たっていた青年団員栗田剛の証言(『かくされていた歴史』)
「二日になって汽車が動き出し、避難民が続々本庄駅にやって来ました。私達は、二日ごろから避難民の救護にあたりました。この頃になってやっと東京のことの片鱗が判ってきました。」
「三日だと思いますが、郡書記の門平文平氏が、駅で集まった主だった人達に、県の通牒文(埼玉県が発した「不逞鮮人暴動に関する件」という「移牒」)を読み上げたのだそうです。その内容はたちまち広がりました。その通牒以前は、殆どの人は朝鮮人の暴動という事を知らなかったと思います。」
「三日午後ニ不逞鮮人ノ件生ズベシ」(吉三郎メモ)
9月1日、吉三郎は東京上野で打ち合わせがあり上京し、御徒町辺りで地震に遭遇。徒歩や貨物自動車を乗り継いで、午後6時頃に帰宅する。道中の様子はメモされているが、「不逞鮮人」の記載はない。更に、2日のことは何も書かれていないくて、3日に突然「不逞鮮人」のことが書かれている。
「三日午後ニ不逞鮮人ノ件生ズベシ 急報役場ニ到着セシト 消防、在郷軍人青年団共同ニテ夜番スルコトニ決定ス」とある。
その後に、「12. 9 3夜 9 4午前3時」と手帳の上部に姜大興の事件が発生した日時を表題のように記し、「日將(まさ)ニ暮ントスル頃ヨリ様々ノ情報頻々トシテ来リ浦和ハ鮮人ノ襲来ニヨリ縣廳ハ今將ニ放火サレントシ」と書き始める。日暮頃(午後6時頃か)、流言蜚語が出現した。
メモには、「軍隊出動」の文字もあり、吉三郎は3日夕方の段階で東京で戒厳令が出され、軍隊が出動していることを知っている様子。「後家人ヲ強姦シ□□□□ト号外ガ」との記述もあり、新聞号外と思われる記述もある。
「スワ鮮人ノ襲来」「来タート大声」
3日午後、役場に「急報」が届いた後、片柳村染谷は緊迫につつまれてゆく。
「吉三郎メモ」によると、日本刀・槍で武装した自警団員が吉三郎の家の「門前ニ一旦集リ部署ニ付」いたとあり、続いて姜大興が染谷に向かってくる場面が記述されている。
「(午前)一時頃ト覚シキ頃南山崎方面ニ警鐘鳴リ火炎如キニ見エタルアリ スワ鮮人ノ襲来ヨ ト各人驚ク」とある。染谷の南西の浦和から木崎方面へ2キロに山崎があり、その南方で警鐘が鳴ったと思われる。
埼玉県の警察は、県南部で多数の朝鮮人を収容し、3日夜から中山道を北へと連行。姜大興はその途中、現在の北浦和駅付近で岩槻への道に逃げて、山崎付近から片柳村方面に迷い込み、染谷の自警団と遭遇することになったと思われる。
次に、「二時半頃山方面ニ警鐘乱打シ□□ト西□方面ニ向フ 来タート大声ニ呼ハル芝山ノ前ヨリト余ハ□虚言ノ□聞カシカバ ウソナリト思ヒテ(中略)遂ニハ□所村ノ田ノ方ニ向ツテ来タート連呼シヌ」と続く。
片柳村と芝川を挟んで南に位置する三室村(現、さいたま市緑区)の三室小学校の「学校沿革誌では、、、。九月三日に「郡役所ヨリ不逞鮮人警備ニ関スル通牒アリタリ。午後三時頃不逞鮮人襲来ストノ報ニ接ス浦和附近ノ各町村全部警鐘ヲ乱打ス、本村ニテモ消防組、軍人分会、青年団員、学校職員、役場吏員等全部出動シ警戒ノ任ニ当ル、続テ夜警ヲナス」と、緊迫した状況が記述されている。"
また、三室村の南西3.5キロほどの浦和町の同じ頃の状況について、9月4日の上毛新聞は「警鐘を乱打し、浦和町の大警戒、東電浦和開閉所より前橋支店に報告した処に依ると鮮人多数入町し為めに各町に於て警鐘を乱打し之が防禦に当たって居る町中は鼎の涌いた様な騒然たる状況である(午後三時二十四分記)」と伝えている。
つづく
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