2023年8月31日木曜日

〈100年前の世界049〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺① 流言(朝鮮人暴動、来襲)が広がり、警察もこれを事実と信じ込む 「鮮人中不逞ノ挙ニツイデ放火ソノ他強暴ナル行為ニイヅルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人工対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」(2日午後5時、警視庁)

 

「浅草公園十二階及花屋敷付近延焼之状況」

〈100年前の世界048〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑭ 【横浜証言集】 (南部地域の小学校の作文集) 「万歳の声に彼岸を見れば、これ如何に大きな朝鮮人の死体、自分も思わず万歳と呼んだ。」 「其の時向こうで鮮人が二、三人殺されました。」 「すると僕の前で朝鮮人が一人皆にたけやりで殺されました。」 「そこから根岸橋までくると朝鮮人が幾人ともなく死んで流れてるました それはひさんのやうでした」 「よく朝原へきて見ると朝鮮人が二三人ころされていた」 / (中部地域、横浜公園、横浜港) より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺①

・大震災二日目。朝鮮人暴動に関する(「不逞鮮人来襲」の)流言拡大。

1日正午前の初震についで、人体に感じる余震がその日だけで128回以上に達し、翌2日は96回、3日は59回、4日は43回と連続的に大地は揺らぎ続き、2日夜、「今夜二時頃、また大地震が来るかも知れません。その時は宮内省で大砲を二発打つから、皆さん用意して下さい」(法務府特別審査局資料第一輯「関東大農災の治安回顧」(特別審査局長吉河光貞著)との流言が広がる。

しかし、砲撃音なく烈震もないが、更にそれを追うように翌3日牛後11時に大地震が発生するなどという流言が続く。

その他の流言では、政友会首脳死亡(圧死)説、山本権兵衛暗殺説、囚人釈放・暴動説(実際に、2日夜には巣鴨刑務所で騒擾、看守の抜剣警備・威嚇発砲により鎮圧)。

1日夕方~夜、東京・川崎や横浜の一部で、「社会主義者や朝醇人の放火が多い」「朝鮮人が来襲して放火した」との流言が起る。全市が焼失して救済の見込みもなく、一部では掠奪事件も起る横浜(本牧町付近)では、1日夜7時頃、「不遇鮮人が来襲して放火する」との流言が起り、附近一帯に広がり、1時間後には、近くの北方町・根岸町・中村町、南吉田町に流布し、横浜港外に碇泊する船舶等にまで達する。

また、流言は「朝鮮人放火す」から、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」というものとなり、更には殺人し、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展。

流言は、その日正午頃迄には横浜市内に拡がり、鶴見・川崎方面にまで達す。震災で被害の甚だしい横浜市の被難民が東京西部にこれを伝える。

江東方面からもこの種の流言が広がり、2日午後迄にほ東京全市を包み、警察もこれを事実と信じて応戦体側をとる。

2日午前中、警視庁へは昨日来の火事は不逞鮮人の放火によるものとの流言飛語が伝わる。

午後3時頃、富坂署から暴行・放火の鮮人数名を検挙したとの報せがあり、正力松太郎官房主事が急行。同時に、神楽坂署からも不遇鮮人の放火現場を民衆が発見したとの報告が入る。

4時頃、大塚署長から不達鮮人が大塚火薬庫襲撃の目的で集合中との訴えありと、応援を求めてくる。

5時、警視庁は、「鮮人中不逞ノ挙ニツイデ放火ソノ他強暴ナル行為ニイヅルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人工対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」として各署に厳重取締りを命ずる。

6時頃、渋谷署長から「銃器・兇器を携えた鮮人約二百名、玉川二子の渡しを渡って市内にむかって進行中との流言あり」との報告が到着、世田谷・中野署長からも同様報告が入る。警視庁は、渋谷・世田谷・品川等の各署に対し、不穏の徒あれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令。個々の朝鮮人の放火・暴行から部隊での来襲へと流言が成長する。実際は、神奈川県高津村で警備の為に在郷軍人や消防夫を集めて半鐘を乱打したことが、対岸の世田谷方面での流言となり、世田谷署から警官隊が急行した事が、更に流言を大きくしたと、後日の調査でわかる。

警視庁幹部は、「流言の根源は、一日夜横浜刑務所を解放された囚人連が諸所で凌辱、強奪、放火等のあらゆる悪事を働き回ったのを鮮人の暴動と間違えて、どこからともなくいろいろの虚説が生まれ、電光的に各方面に伝わって不祥事を引き起した」と話したという(10月22日付「報知」)。吉野作造は流言飛語の出所についてこの説をとる。

後に警視庁刑事部捜査課は、流言が横浜方面から東京府に伝わった最初の地域は荏原郡であり、同郡の六郷村をはじめ蒲田、大森、入新井、羽田、駒沢、世田ケ谷の6町と調布、矢口、池上、玉川の4分村についで平塚、馬込の2村と、目黒、大崎町にまたたく間に広がった事を確認。

捜査課の調べによると、2日牛後4時頃、六郷村方面から自転車に乗って大森町に入ってきた34~5歳の法被を着た男が、「大変な騒ぎだ。今、不逗朝鮮人千名ばかりが六郷川を渡って襲撃してきた。警戒、警戒」と、大声で叫びながら大井町方面に走り去ったという。


〈朝鮮人虐殺と政府・官憲情報〉

(金富子『関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺』(大原社会問題研究所雑誌 №669/2014.7)より)

9月1日、「午後3時頃社会主義者及び鮮人の放火多し」が、東京で最も早い朝鮮人関係の流言として警視庁編『大正大震火災誌』(1925年)に記載されている。のちに同書は官憲の流言を徹底的に消し去るが、山田昭次氏によれば、実際は同日夕方に警察官ないしは警察署が自ら「朝鮮人の放火者が徘徊」(巡査が上野公園の避難者に)、「各町で不平鮮人の殺人放火」(曙町交番巡査が自警団に)、「爆弾凶器を有する鮮人十一人当町に襲来」(日本刀をもった警察官が埼玉県入間町の町民に)という流言を流布したことが確認されている。

早くも1日夜半には、在郷軍人と警官が触れ回った「泥棒」流言をきっかけに、旧四ツ木橋の土手近くに避難した一般住民によって虐殺が始まった(翌2日に木根川橋近くで「投毒」「婦女暴行」流言により虐殺が起こり、同日さらに軍隊が出動し四ツ木橋の土手の朝鮮人虐殺が急増した)。

2日、流言は一気に拡散した。東京・神奈川の警察官・警察署は、朝鮮人が暴動を起こしたという虚偽情報の流布を呼びかけ、張り紙などにより盛んに行い、民衆に朝鮮人虐殺を容認する発言までした。

2日夕,政府は「朝鮮人暴動」流言を口実に、手続き不備なまま戒厳令を発布した(同日東京市と府下5郡、3日に東京府全域と神奈川県に拡大、4日に埼玉県と千葉県に拡大)。約5万の軍隊が出動して、各地で朝鮮人を拘引し、虐殺を開始した。

2日夜、埼玉県では、同県内務部長香坂昌康が郡町村長宛に「不逞鮮人暴動に関する件」という題名の移牒文を発し、自警団の結成を促すとともに「一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講じる」ことを示唆した。

この指令を受けて埼玉県各地では自警団が結成され、朝鮮人虐殺が行われた。

3日早朝、内務省警保局長後藤文夫は、「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり…」として、「鮮人の行動に対して厳密なる取締り」を命じた電文を船橋無線電信所より各地方長官宛に送った。かくして「朝鮮人暴動」は政府公認の事実と認定され、全国に発信された(2日の埼玉県内務部長の移牒文、3日のこの電文は後に問題化する)。

1日夜半から2日、3日にかけて東京・横浜で生じた流言からはじまった虐殺は、4日以降に千葉県、埼玉県、群馬県などに拡大し関東一円で虐殺が繰り広げられた。

ところが、戒厳令を布告し内務省警保局長が「朝鮮人暴動」を認定した(2日)にもかかわらず、「暴動」の確証がなかった。軍隊内部は2日午後にこれに気づき、3日には捜査の結果「総て虚報」であることを確認している。

虐殺の国家責任を問われかねないことに気づいた日本政府は、5日に政策を転換した。同日、山本権兵衛内閣は「内閣告諭第二号」を発して、民衆による朝鮮人「迫害」の「自重」を求めたが,実際に迫害したのは軍・官憲であったので自己撞着であった。同日、臨時震災救護事務局警備部に官憲が集まって「鮮人問題に関する協定(極秘)」を結び,①官憲・新聞等に対して「一般鮮人は皆極めて平穏順良」と流言を否定し、②「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に努むること」を指示して朝鮮人への責任転嫁を画策し、③海外に向けて「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」する方針が決定された。政府は、国家責任を隠蔽するために、第1に流言と虐殺の責任を自警団(民衆)に転嫁し、第2に虐殺を正当化するために「朝鮮人暴動」の事実探しが必死で行われた(その成果は10月20日の司法省発表である)。

関東で組織された自警団数は、3,689であった(23年10月下旬当時)。9月11日、臨時震災救護事務局警備部司法委員会は朝鮮人を虐殺した自警団検挙の方針を出したが、全員の検挙を放棄し「顕著なるもの」「警察権に反抗」的な一部の自警団だけを検挙するというものだった。これに基づき9月19日から10月にかけて埼玉、千葉、東京などで、一部の自警団の検挙が行われた。自警団裁判の判決を分析した山田昭次氏によれば、朝鮮人を殺害するため警察を襲撃した被告や日本人を朝鮮人と誤殺した被告には実刑だったが、朝鮮人を虐殺した被告の大部分は執行猶予になった。

埼玉県の自警団裁判では、同県内務部長の移牒文が自警団結成と虐殺を招いたことが指摘され、それを発した香坂前内務部長(福島県知事に栄転)の責任のがれが問題になった。また同年12月、衆議院本会議で永井柳太郎議員(憲政会)が、朝鮮人に対する「調査と陳謝」「遺族への相応な方法」を講ずることを要求し、虐殺事件に関して政府が自警団を検挙し責任を免れようとしたこと、内務省警保局発で全国に発せられた電文(9月3日)を取り上げ「朝鮮人の襲来に関する流言は政府自ら発したもの…全責任は前内相水野錬太郎氏にある」「官吏を処罰」すべきなどと責任を追及したが,山本首相は「調査中」と答弁するのみであった。結局、流言を事実認定・発信した政府・官僚はもちろん虐殺の主体となった軍・警察も含め、国家権力で責任をとった者は誰一人いなかった。

(本論文の主命題である「レイピスト神話(朝鮮人男性が日本人女性を強姦したという流言)」については別の機会に紹介したい)


つづく




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