2026年2月20日金曜日

大杉栄とその時代年表(760) 1907(明治40)年 〈谷崎潤一郎と精養軒〉 明治36年6月、谷崎潤一郎は精養軒当主北村重昌家の家庭教師兼書生として住み込む。彼は、その身分のまま府立一中から一高に進学する。

 

谷崎潤一郎(大正5年)

大杉栄とその時代年表(759) 1907(明治40)年11月23日~29日 「「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

〈谷崎潤一郎と精養軒〉 

明治40(1907)年11月25日に上田敏の洋行送別会が行われた上野精養軒ホテルは、当時の東京の代表的なホテル兼レストランであった。

日本人の手で最初に出来たホテルとしては、慶応3年に幕府の外国奉行が計画し、明治元年8月に完成した東京築地ホテルがあった。このホテルは木造瓦葺4階建で、延1600余坪、収容能力100人の規模であったは、明治5年の京橋銀座の大火で焼失した。

明治10年頃、上野に精養軒ホテルができた当時は、経営実態は幼稚なもので、客として来た在留外人のベアやベルツなどが献立の仕方、寝台の整え方を教えるほどであった。しかし、その経営は次第に安定し、上流階級・知識人階級は社交の場としてここを利用するようになった。

明治16年、鹿鳴館が日比谷に設けられたのと前後して、洋風のホテルやレストランの数も増し、明治20年に東京ホテル、22年にホテル愛宕館、23年には渋沢栄一、大倉喜八郎等が発起となって帝国ホテルが日比谷に建築ざれた。ホテル業界の先駆者であった精養軒は上野と築地にホテル兼レストランを営み、宮中の宴会を請負うことなどもあって繁栄した。

明治40年、精養軒の当主は北村重昌でまだ30歳そこそこであった。この4年前、明治36年6月、谷崎潤一郎が家庭教師兼書生としてこの家に住み込んだ。北村家の邸宅は、歌舞伎座の向いの築地精養軒ホテル、食料品を売る精養軒西店、精養軒のパン工場の3つの建物の間にあった。

谷崎潤一郎は、明治19年(1886年)7月24日、日本橋区蠣殻町二丁目十四番地に、父倉五郎、母関の長男として生れた。父倉五郎は、神田万世橋の北側にあった玉川屋という大きな酒屋の次男に生れたが、少年時代に父母を失い、家は没落した。兄の英之助が谷崎久右衛門という米穀相場の速報を出版していた印刷屋の長女花の婿になった縁で、弟の倉五郎も花の妹関の婿となり、谷崎を名乗り分家した。

英之助は谷崎久兵衛と名を変え、米穀仲買人として成功した。倉五郎は、舅から分け与えられた資産によって、はじめ洋酒屋を営み次に街灯の掃除と点火を業とする点灯社を経営し、次に兄を見習って米穀仲買人となったが、実直な好人物に過ぎたので、そのいずれにも失敗した。潤一郎が生れた当時はまだ生計が豊かであったが、失敗するに従って倉五郎は転々と家を変え、次第に生活が苦しくなった。明治23年、潤一郎5歳のとき、弟精二が生れた。

純一郎は、数え年7歳で日本橋区の坂本小学校に入学したが、金持の総領息子として父母や乳母に甘やかされていたので、学校でも乳母が見える所にいないと泣き叫ぶのか常であった。そのため彼は1年生で落第したが、その次の年には一番で2年生になった。彼を落第させた稲葉清吉という教師が、潤一郎が高等科1年になったとき、また受け持ち教師となった。

稲葉清吉は師範学校出身の独身であった。彼は、主に哲学宗教関係の書物を読んでいたが、中国や日本の古典についても教養があり、熱意をもって生徒に教えた。高等小学校の4年間稲葉訓導の指導を受けて、潤一郎は漢詩や和歌の感銘の深い作品を読み味う方法を体得した。

潤一郎の同級の小学生たちは、回覧雑誌「学生倶楽部」を出して、彼は高等科2年生になった13歳頃から誘われてそれに参加し、花月散士、笑谷居士という筆名で文章を書きはじめた。

高等科は4年制であり、その2年を終えたものは中学校に入る資格があった。潤一郎は中学校に入りたかったが、その頃父が米穀仲買人として失敗し、家計が逼迫していたので、4年を終るまで小学校にいなければならなか

明治34年春、数え16歳で小学校を卒業したが、父は彼を上級の学校へ入れようとしなかった。しかし、稲築訓導や親戚の者の助言で父を承諾させ、4月、潤一郎は日比谷桜田門前の府立第一中学校に入学した。

彼の家の家計はいよいよ窮迫し、2年生になった春、彼は父から学校をやめるよう言い渡された。しかし、彼は父の再三の要求にかかわらず中学校をやめるという気持ちになれず、父と学校との間で話し合いがもたれた。潤一郎は東京の秀才の集りと言われた府立一中の中でも目立った秀才であったので、学校は何とか解決策を見出そうと努力した。特に国語担当の渡辺盛衛という教諭が彼を惜しんで学資の出る道を探した結果、明治35年4月、潤一郎(数え17歳)は父に連れられて、麹町中六番町の貴族院議員原保太郎を訪ねた。原は長州出身で、維新の際、上州の領地に引き籠っていた小栗上野介を斬首した官軍の隊長であった。また明治28年春、講和談判のため下関に来た李鴻章が上陸しようとしたところを小山六之助が拳銃で狙撃した時、山口県知事をしていた。その後は北海道庁事長官にもなった内務官僚である。

潤一郎は、原の屋敷の書生になると思っていたが、谷崎親子を居間に通した原は、紹介状を書いて渡し、築地の精養軒へ行かせた。

潤一郎が教えるのは、この家の幼い二人の少年と、中学校へ入ろうとしている主人の弟たちであった。玄関を入った左側に、琉球畳を敷いた六畳間があって、雑用をするもう一人の次郎さんという書生と、一緒に彼はそこに寝起きすることになった。子供たちは勉強のときにはそこへ来るのであった。

晩の食事のときは彼は、台所の戸棚と竈(かまど)の間の板の間に坐り、「戴きます」と挨拶して、その書生と向い合って食べた。この家には二人の書生の外に女中が三人いた。

その晩彼は床へ入ってから、自分も小学生の頃はここの家の子供たちのように「坊っちゃん」と呼ばれ、家にも多くの奉公人がいて何不足なく暮したことを考え、悲しくなって涙を流した。

潤一郎は家庭教師という名目で傭われたのだったが、日が経つに従って、子供たちを教えていないときは、家庭の用事を何でも言いつけられ、書生として働かされていた。

学校にいるときの潤一郎には、暗いいじけた所が全く見えず、傲然とした態度で級友たちに臨んでいた。北村家に住み込んで5ヵ月ほどして、9月の新学期に、2年生の彼は3年生に飛び級した。飛び級は、明治の秀才に許された特別待遇であった。

純一郎は、1年から3年まで首席を通した。彼が飛び級で3年となったとき同級になった吉井勇は、目立たない存在で、学年末の明治36年4月に落第し、それを機に退学したので、純一郎と間には交際がなかった。

3年生の潤一郎は4年生の土岐善麿、5年生の黒田朋信と三人で文芸部の委員をしていた。純一郎は1年生の時から「学友会雑誌」に漢詩や美文や文芸評論を発表していて、そのいずれもが、中学生の手になるとは思えないほど辞句が華麗で才気の迸るような文章であり、全校の注目のまとであった。

明治36年3月、潤一郎(数え19歳)は府立第一中学校を卒業し、7月、第一高等学校入学試験に通って英法科に入学した。一高に入ってからも潤一郎は北村家の家庭教師兼書生をしていたが、その翌年、数え20歳で2年生になった明治40年、彼は「校友会雑誌」に小説らしい文章を発表しはじめた。即ち、3月20日発行の第165号に「狆(ちん)の葬式」を、6月10日発行の第168号に「うろ覚え」を書き、その外に「死火山」というのも発表した。

これ等の作品を発表した頃、潤一郎は、箱根塔の沢の宿屋の娘で行儀見習のため北村家へ小間使いとして住み込んでいたふく子という娘が好きになった。二人の間にはある程度の交際があった。ふく子は少し前に北村家をやめて郷里へ帰っていた。そのふく子から谷崎あてに来た手紙を、朋輩の女中が盗み読みしたところ、「どうぞ私のことは思ひ切って下さい」という文句があった。そのことを女中は北村家の妻君に告げ口した。妻君は、その文句がある以上、二人の間に関係があったと推定した。

北村家から呼び出され、父倉五郎が精養軒の事務室へ出かけると、北村重昌は、婦人関係のことで間違いがあっては大事な息子さんを預っていて申しあけかない、という理由で、即座に潤一郎を連れ帰らせた。

父に連れられて家へ帰る途中、潤一郎はふく子とのいきさつを話した。倉五郎は「ふん、ふん」と耳を傾けてうなずき、潤一郎を答めることはなかった。

家では母の関は「あたしゃお前が大怪我でもして、呼びに来られたんじゃをいかと思って、飛んだ心配をしちまったよ」と言っただけであった。

純一郎はこの事件を機会に、文士として世に立つことを決心し、英法科から英文科に移った。

(『日本文壇史』より)


つづく


〈2029年度国債費が41兆円超、社会保障費を上回る試算〉  2029年度の財政状況の試算 「国債費」41兆3000億円に 財務省(NHK) / 金利上昇で国債費が41兆円に 財務省の後年度影響試算が判明(テレ朝)

 

財務省の試算では、2029年度の国債費が41兆3000億円に達し、社会保障費の41兆円を抜いて歳出最大項目になると予測されています。これは2026年度予算を基に金利上昇を想定したもので、利払い費だけでも21兆6000億円に上る可能性があります。税収は12兆円増えますが、歳出全体の139兆7000億円に追いつかず、ネットでは懸念の声が広がっています。一方で、試算手法や歳出削減を疑問視する意見もあり、財政運営の議論が活発化しています。

〈自衛隊階級呼称を大佐・中佐に変更へ 戦前回帰の批判相次ぐ〉 自衛隊の階級呼称を旧日本軍式に変更? 国営工廠も復活? 高市首相は「戦前のような国」を目指したいのか(東京)

 

 

2月18日に発足した高市内閣は、自民・維新連立で全閣僚を再任し、安全保障強化を掲げています。
与党は自衛隊の階級呼称を国際標準に合わせ「大佐」「中佐」「少佐」に変更する方針を検討中で、国際共同作戦の混乱を避けるのが目的です。
一方、東京新聞などから「戦前回帰」との指摘があり、Xでは「軍国主義回帰」との反対意見が目立ちます。
自衛隊法改正が必要で、今後の国会で議論が進む見込みです。

 

皇居東御苑~北の丸公園散歩 梅 河津桜 琉球寒緋桜 寒桜 椿寒桜 マンサク 夕方から日本橋、吉野鮨本店で同級生交歓 2026-02-18

2月18日(水)はれ

夕方、日本橋で同級生交歓があるので、早めに家を出て、皇居東御苑と北の丸公園を廻った。

ルートは、地下鉄竹橋駅~平川門~梅林坂~本丸広場(一周して)~潮見坂~二の丸庭園~三の丸尚古館(から戻って)~本丸広場~北桔橋門~乾門交番前公園~北の丸公園~清水門~地下鉄竹橋駅で、ほぼ2時間、1万2千歩だった。(かなり駆け足)


▼梅林坂

あたりに梅の香りが充満していたが、花は殆どピーク越えだった。 


▼天守台そばの河津桜は満開


▼椿寒桜は蕾が開き始めたところ。背景に天守台が見える。

▼琉球寒緋桜(リュウキュウカンヒザクラ)も咲き始め

▼寒桜は殆ど終盤

▼二の丸庭園、諏訪の茶屋横の梅、満開

▼新築なった(まだ未公開らしい)三の丸尚古館前の梅

今度はかなり広くなったみたいだし、若冲一挙公開みたいな展示会やってくれたら痺れるんだけど、、、

▼富士見櫓に向かう途中の坂(名称不詳)に咲くマンサク(シナマンサク)


▼乾門交番前の小公園に咲くマンサク

この公園のオオカンザクラはまだ固い蕾だった

▼北の丸公園の梅

▼北の丸公園の河津桜 まだほんの咲き始め

▼殆ど終盤の寒桜

▼清水門上のマンサク

▼清水門まえのスイセン

▼日本橋、吉野鮨本店で同級生交歓




2026年2月19日木曜日

〈高市首相の消費税減税公約に過去ブログ検証で批判集中〉 〈プレジデント誌に検証され、高市首相の公式ブログを全削除(ウソがバレたので証拠隠滅)〉 → 「後先考えずに全削除などするから、逆に指摘を認めた形になってしまった。、、、軽率・軽薄・不誠実。まさに高市総理を象徴するような事件である」(弁護士 明石順平さん) / 「流石に笑う」 高市早苗首相、公式サイトから『ブログ全削除』か…過去には消費増税に理解の投稿 「隠滅しちゃったんだ」疑問の声(中日スポーツ) / プレジデントオンラインが「消費減税は私の悲願は真っ赤なウソ」という検証記事を投稿した後、高市早苗公式ブログのコラム記事が全て削除されてしまうまでの経緯(togetter) / 高市首相「無責任な減税しない」、国債発行抑える 単独インタビュー(日経) ← 「責任ある積極財政」は言うが、「責任ある減税」とは言わない / 「消費減税は私の悲願」は真っ赤なウソ…公式ブログ記事1000本を検証して判明「増税政治家・高市早苗」の正体(プレジデント)

 

 

プレジデントオンラインの記事が、高市首相の公式ブログ約1000本を検証し、選挙公約の「消費減税は悲願」に過去の痕跡がないと指摘。
一方、消費税10%引き上げを財政再建に必要と肯定的に繰り返していた内容が明らかになり、記事公開直後に公式サイトのコラムページがすべて削除された。
X上で批判が広がる中、政府は国民会議を立ち上げ公約実現を急ぐ方針を打ち出し、施政方針演説原案で夏前の中間まとめと法案提出を明記した。
過去発言との整合性が問われ、政治の信頼をめぐる注目が集まっている。

 

 

2月8日の衆院選で自民党が勝利した高市早苗首相は、公約で食料品の消費税を2年間ゼロにする方針を発表し、夏前の中間まとめを目指すと述べました。しかし、2025年12月の日経新聞インタビューで「無責任な減税ではない」と語った過去発言が再拡散され、「嘘つき」との批判が相次いでいます。
一方、擁護派は文脈の違いを指摘し、与党内では給付付き税額控除との組み合わせで実現に向けた議論が進んでいます。
この公約の行方が、高市政権の実行力を試す試金石となりそうです。 

(このストーリーは、Xのポストの要約であり、時間の経過とともに新しくなります。Grokは間違えることがあるため、アウトプットが事実かどうかを確認してください)

(時事小言)政権への委任拡大 空洞化する民主政治 藤原帰一(朝日);「フランスの政治学者ベルナール・マナンは、主著「代表制統治の諸原理」、、、その主著の終章で、マナンは観客民主主義という独特な概念を提起している。、、、観客民主主義といっても、観客が政治を左右するわけではない。選挙における選択のイニシアチブは有権者ではなく政治家が握っているからである。、、、有権者の投じる票がなければ政治家は当選できない。しかし、有権者が政治家のコミュニケーションによって操作される対象に過ぎないのであれば、有権者が民主政治の主体だということはできない。有権者が政治家を選ぶ主体から政治家に操作される観客へと転じた時、民主政治は壊れてしまう。それを私は恐れる。」

 

 

有料記事がプレゼントされました!2月19日 23:03まで全文お読みいただけます (この藤原さんの論考がこれまで今回選挙について読んだなかでもっとも本質を突いていると思った。) 

(時事小言)政権への委任拡大 空洞化する民主政治 藤原帰一:朝日新聞 

 「マナンは観客民主主義という独特な概念を提起している。かつての選挙研究は有権者の社会的・経済的・文化的背景によって政治的選好を説明できたが、現在では社会・経済・文化的背景が変わらなくとも選挙結果が変わるようになった。それを説明する要因としてマナンが注目したのが、政治におけるパーソナリティーの役割の拡大だった。政治家は有権者に直接呼びかけ、世論はイベントやコミュニケーション戦略によって左右され、コミュニケーションのエキスパートが政治活動家や政党の官僚に代わる役割を果たすのである。」

大杉栄とその時代年表(759) 1907(明治40)年11月23日~29日 「「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。」(荒正人)   

 

上田敏

大杉栄とその時代年表(758) 1907(明治40)年11月10日~22日 「『読売新聞』に、白雲子「漱石の人物と其作物」掲載される。・・・人物では徳義を知らず、作物では第三流に位すると批評する。自然主義者たちの反感を代表したものというよりも、『読売新聞』の漱石への反感を露骨に主張したもので、非難と罵倒の限りを尽くしている。『読売新聞』では、明治三十九年末頃から明治四十年初めまで、入社を期待し再三「社告」を出したにも拘らず、裏切られたという感じが強かったと推定される。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

11月23日

名古屋において開港式挙行

11月24日

大杉栄(22)、牛込区牛込赤城元町の貸席・清風亭で劉師培らが開いた社会主義講習会(第6回)に出席。前回に引き続き「バクーニンの連邦主義」を講演。参加者100余名。

25日、東京控訴院で電車賃値上反対騒擾事件の控訴審判決。大杉栄(22)無罪(のち検事長によって大審院に上告される)。西川光二郎、岡千代彦、山口義三、吉川守圀、斎藤兼治郎、樋口伝、半田一郎、竹内余所次郎、松永敏太郎、鈴木高次、増山伝吉、羽鳥滝三も控訴棄却で無罪。一審で各重禁錮1年6ヶ月だった千葉操と山本不美男は、一審判決を取り消して、千葉は重禁錮1年、山本は無罪。

11月25日

(漱石)

「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。この会は「市楊会」と名付けられる。

十一月二十七日(水)以前、荒井某、紹介状なしで訪ねて来て、信州に帰る旅費を得たいからと『坑夫』の素材を売り込む。上田敏が洋行の暇乞いに来ていたため、荒井某に再び来るようにと云い、若干の金を渡す。

(十一月二十七日(水)、上田敏、横浜港からサイベリア号で出発する。京都帝国大学総長岡田良平、上田敏に京都帝国大学に来るように勧める。明治四十一年二月十五日(土)付夫人宛手紙に、京都帝国大学就職の件はぼ決定したこと、三月二十四日(火)付(ナポリ発)夫人宛手紙で確実に決定したことを伝える。


(荒井某);当時、十八、九歳。その後、書生として住み込み、漱石の子供たちの作文や習字に、甲乙を付けたりする。明治四十一年四月三日までいた。『坑夫』が発表されてから、漱石の悪口を沼波瓊音(『万朝報』)や新渡戸稲造に持ち込んだことを沼波瓊音から聞かされる。荒井某に問い訊すと否定したが、翌日急に帰りたいと云い家を出る。その後二、三度訪ねて来たが、会わない。このことがあってから、紹介状のない人物には会わぬことにする。


(上田敏);アメリカを経て、フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・ドイツ・オーストリー・スイス・イタリアを廻り、明治四十一年十月十四日(水)帰国する。文学のほか、音楽・美術に関する見聞を拡げる。」(荒正人、前掲書)

11月27日

上田敏(33)、横浜港からサイベリア丸で出航、アメリカを経てヨーロッパ留学に向かう。

翌明治41年10月22日帰国。

上田敏には婁悦子との間に娘瑠璃子(6歳)があり、高等師範学校教授と東京帝大文科大学講師とを兼ねていた。彼の研究、翻訳等の仕事は、明治38年10月に出した「海潮音」を最高潮として、休息期に入った感があった。「海潮音」は白秋、霞風、太田正雄等の新詩人たちに取っては極めて大きな意味を持っていたが、出版当時は売れ行きが悪く、出版社本郷書店では残本をもてあましていた。

明治39年1月、彼は馬場孤蝶、森田草平、生田長江とともに雑誌「芸苑」を再興した頃から、日本の芸術一般の批評家として活動しようと試みた。彼はこの雑誌に「芸苑子」なる名前で「鏡影録」を連載し、文学のみでなく、演劇、音楽等の分野についても具体的批評を行った。この雑誌は、はじめ殆ど上田敏一人が仝誌面を埋めて書いていたが、次第に若い人々が登場した。生田長江がよく活躍し、彼があまり長い「小栗風葉論」を書いたので、それまでの星郊(せいこう)という号のかわりに、長江という号を上田敏からもらった、という喝が出た。また上田敏の従弟蘆風吹田順助が詩を書き、暮潮小牧健夫、江村川下基一、草野柴二こと若杉三郎、茅野蕭々、辻村鑑等の新人が執筆した。森田草平と生田長江が主として文壇時評を行い、横瀬夜雨、石川啄木、三木露風等が詩を寄稿した。

明治40年1月、上田敏は、「読売新聞」が恒例によって行う、新年特輯号に依頼されて217行の長詩「牧羊神(ぼくようしん)」を発表した。それは、「阜(をか)の上の森陰に直立(すぐた)ちて/牧羊の神パアン笙(しやう)を吹く」で始まり、「『ざらば明日参らう。/うえうちり、たちえろ』/白樺木立わけ入れば、/東の阜に月はのぼりぬ」で終る力作感に満ちたものであったが、牧羊神の説明的な挿句が多く、「踏絵」のような鮮明な集中的な効果は持ち得なかった。

明治40年、彼は森田草平や生田長江の世話で、九段中坂下のユニヴァーサリスト教会を会場として、芸苑社の連続講演会を開き、藤村、孤蝶等の講師に混って彼自身も「希臘古典劇論」、「旧訳書の文学的価値」、「中世文学」等の欝を行った。Lかしこれ等の講演でも、「芸苑」編輯でも、彼は文壇の常識からは遥かに高い学究的レベルを崩そうとせず、その隔離感を自ら持てあましたかのように、この年5月、通巻17号で「芸苑」発行を中止した

この年の夏頃、画商小林文七が、浮世絵の販路を海外に拡める計画を立て、上田敏にその仕事を援助する意味での同行を求めた。彼はそれを受け容れ、アメリカ~ヨーロッパに遊ぶこととした。

11月25日、与謝野寛の肝煎りで、上野の精養軒で送別会が開かれた。出席者は、鴎外、漱石、藤村、孤蝶等を50余名。東京帝大や高等師範学校で彼に学んだ学生の外、「芸苑」「明星」等の関係で直接間接に上田敏を知る青年たちも多かった。太田正雄や成瀬清(東京帝大独文科学生、数え23歳)もいた。成瀬は、「帝国文学」に小説や戯曲を書き無極という雅号を持っていた。彼は独文科で藤代素人(そじん)の指導を受けていたが、フローレンツの講義は時々怠けて、漱石のシェイクスピア講義を聞きに行ったりしていた。漱石はこの年の春に東大をやめたので、この日成瀬は久しぶりでその姿を見た。

テーブル・スピーチは、鴎外が先ず指名され、彼は「人生というものは」で始まる鄭重な送別の言葉を述べた。次に漱石が指名され、漱石は、「西洋から雪隠を土産に持って帰った男の話」をした。角ぼった顔に口髭を生やした漱石は、唇のあたりに微笑を漂わせながら低い声で語った。ロンドンで西洋便所に感心した男が、新式の便器を買って持ち帰ったところ、日本でもとうにそれ以上のものが出来ていた、ということである。自分は洋行などはつまらぬものと思う。洋行する金があったら家でも建てた方がいい、というのがその趣旨であった。

成瀬清はたまたま鴎外の近くに坐っていたので、鴎外が傍の者に「夏目君にはああした独特のユーモアがある」と言ったのが聞えた。成瀬はそれを聞いて、鴎外は自分に欠けているものを認めたのだ、と思った。

(『日本文壇史』より)

11月27日
同志9名(斎藤兼次郎、半田一郎、樋口伝、岡千代彦、竹内余所次郎、山口義三、吉川守圀、西川光二郎、大杉栄)で、電車賃値上反対騒擾事件弁護のお礼として「弁護士諸君に謝す」を執筆。

11月28日

最初のコロタイプ印刷、東京の村山旬吉発明(特許とする)

11月29日

荒畑寒村、白柳秀湖の入営送別会を兼ねて開かれた金曜講演会(第13回)で「兵士の問答」を講演。


つづく


伊勢崎賢治「統一教会の問題。アメリカで同じ事が起きたら国家反逆罪。日本では外患誘致罪(刑は死刑しかない)と同じ。日本社会では単なるスキャンダルで終わってるが“国家の安全保障を揺るがす大問題”。そういった連中がスパイ防止法と言ってる」 / スパイ防止法議論で二之湯元公安委員長の旧統一教会接点が再注目 / 高市首相が意欲を示す「スパイ防止法」の制定はなぜ危ないのか/「中島岳志と解く」(武田砂鉄ラジオマガジン) / スパイ防止法は「世界を敵と味方に二分する」 (神奈川新聞);〈戦争に反対すると「スパイじゃないか」と思われるようになり、戦争反対と言えなくするのです。勝共連合が全国でまいてるビラには「スパイ防止法に反対してる人はスパイだ」とある〉

2026年2月18日水曜日

〈中国レアアース規制で日本企業、新規注文断る事態広がる〉 → レアアース磁石、新規注文「断らざるを得ず」中国から輸入3分の1に(朝日) / 「選挙対策では」 熱狂の南鳥島レアアース掘削、誇張いさめる声も(毎日) ← すぐに日本は資源大国になるハズでは?

 

2025年11月の高市首相国会答弁が発端となり、中国が2026年1月からレアアース輸出を規制。日本企業は輸入量を3分の1に制限され、新規注文を断らざるを得ない状況だ。経済試算では1年続くとGDP1.3%減、失業者216万人に上る可能性がある。一方、双日が豪州企業と連携しサマリウム輸入を開始するなど多角化が進み、南鳥島沖の海底資源試掘も成功した。

大杉栄とその時代年表(758) 1907(明治40)年11月10日~22日 「『読売新聞』に、白雲子「漱石の人物と其作物」掲載される。・・・人物では徳義を知らず、作物では第三流に位すると批評する。自然主義者たちの反感を代表したものというよりも、『読売新聞』の漱石への反感を露骨に主張したもので、非難と罵倒の限りを尽くしている。『読売新聞』では、明治三十九年末頃から明治四十年初めまで、入社を期待し再三「社告」を出したにも拘らず、裏切られたという感じが強かったと推定される。」(荒正人)   

 

大杉栄とその時代年表(757) 1907(明治40)年11月1日~9日 大韓帝国第2代皇帝の純宗、即位に伴い、それまでの宮殿であった慶雲宮から昌徳宮へ移る。これにより、高宗は徳寿宮(旧・慶雲宮)に取り残され、実質的な影響力を削がれる。 より続く

1907(明治40)年

11月10日

日米官憲、不敬事件取締協議。領事代理松原一雄が地方検事デブリン・移民局長ノースを訪問。

11月11日

ニューヨークの「コール」紙に「暗殺主義」全文掲載。センセーションを巻き起こす。

11月12

内相原敬、西園寺首相訪問。山県有朋系の倒閣工作への抵抗決意促す

11月12

片山潜、「渡米」創刊。

11月13

秋山真之、慶應野球部に「褌論」を贈る

11月13

大杉栄(22)、午前10時、東京控訴院第3号法廷で電車賃値上反対騒擾事件控訴審の第六回公判が開かれ結審。判決言い渡しは同月25日(月)午後1時と告げられる。午後5時閉廷。

11月14

台湾、北埔事件。

11月14

韓国皇太子李根入京。

11月14

(漱石)

「十一月十四日 (木)、森田草平・川下江村・生田長江共著『草雲雀』 (服部書店)、漱石の序文掲げ刊行される。

藤岡作太郎宛手紙に『虞美人草』推質の礼をのべる。」(荒正人、前掲書)

11月14

[露暦11月1日]第3国会開会。富裕階級優遇の選挙法で反革命派が勢力を得る。

11月中旬

渡米中の東大高橋教授、在米無政府主義者の動静報告。

11月15

西川光二郎、「社会新聞」と「日本平民新聞」との関係断絶を森近運平に通告。

11月15

福田英子「羽織紐着の教訓」(「世界婦人」第19号)

11月15

大杉栄(22)、神田区三崎町の吉田屋で開かれた出獄歓迎を兼ねた金曜後援会(第11回)に参加。山川均が歓迎の辞を述べる。

16日、神田区和強学堂で開かれた日本エスペラント協会第2回大会で、引き続き評議員に選ばれる。

17日午後7時、神田区三崎町の「週刊社会新聞」編集部で開かれた大杉栄君出獄歓迎を兼ねた社会主義研究会に出席。西川光二郎が講演。田添鉄二、鈴木楯夫、岡千代彦、松崎源吉、半田一郎、斎藤兼治郎が歓迎の辞を述べ、その後に大杉が謝辞を述べる。茶華の饗応があった。10時散会。参加者70名。"

11月15

岡倉天心(44)、横浜港から出航、第3回目のボストン美術館勤務のためアメリカに向かう。

41年7月、ヨーロッパからシベリア鉄道経由で、中国の北京を回って帰国。

11月16

米、オクラホマ州、合衆国加盟(46番目)。

11月16

アメリカ合衆国が日本人労働者移民の渡航制限を要請する。

11月17

大韓協会結成。大韓自強会の後継団体。抗日路線貫徹出来ず。

11月17

西川光二郎、田添鉄二、片山潜の分裂声明。「社会新聞」第25号。

片山潜 ; 「幸徳兄今日の立場は明に無政府主義の立場なり・・・堺兄は準無政府主義なり・・・余は両兄らと一切の関係を絶つべし」と断言。

11月17

(漱石)

「十一月十七日 (日)、松根豊次郎(東洋城) (赤坂区表町一丁目一番地、現・港区元赤坂一丁日) を訪ねようと外出する。途中で高浜虚子に会い、牛肉馳走になり、松根宅を訪ねることを中止する。

『読売新聞』に、白雲子「漱石の人物と其作物」掲載される。

十一月十八日 (月)、文芸協会から演芸会の特等席の招待券(一円五十銭) を貰う。(推定) 高浜虚子宛葉書で、この招待券を貰っていたら一緒に行きたい。一人でなら、それほど行きたくないと伝える。

十一月二十二日(金)、文芸協会の演芸会から高浜虚子に招待券が来ていないとの返事で、行かぬことにする。


『読売』記事;人物では徳義を知らず、作物では第三流に位すると批評する。自然主義者たちの反感を代表したものというよりも、『読売新聞』の漱石への反感を露骨に主張したもので、非難と罵倒の限りを尽くしている。『読売新聞』では、明治三十九年末頃から明治四十年初めまで、入社を期待し再三「社告」を出したにも拘らず、裏切られたという感じが強かったと推定される。この日、漱石が『読売新聞』を読んだかどうか分らめが、読んだとすれば不愉快になり、松根東洋城を訪れることになったのであろう。高浜虚子との問でも、この文章は話題になったと想像される。もし、この日に読まなかったとしても、誰かに教えられ数日以内には読んだと思われる。」(荒正人、前掲書)

11月19

浪花千栄子、誕生。

11月21

大阪の活版技工組合加盟70工場で賃上げ要求。

23日、同じく20工場の職工700人同盟罷業。

11月22

文芸協会第2回大会開催(東京本郷座)。

シェイクスピア作、坪内逍遥訳『ハムレット』(5幕)上演。翻訳による初演。他に、杉谷代水作「大極殿」と逍遙作「新曲浦島」。4 日間、ほぼ満員であったものの、財政的には赤字で、逍遥が全額個人負担した。

上演された『ハムレット』については、漱石『三四郎』に取り入れられている。


此ハムレットは動作が全く軽快で、心持が好い。舞台の上を大に動いて、又大いに動かせる。能掛りの入鹿とは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中に立って、手を拡げて見たり、空を睨んで見たりするときは、観客の眼中に外のものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。其代り台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢に出る。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみた事を言って呉れれば好いと思った。御母さん、それぢゃ御父さんに済まないぢゃありませんかと言ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して、呑気に遣って仕舞ふ。

「十一月(日不詳)、本郷座に、文芸協会演芸部第二回公演を見に行く。(推定)


『大極殿』(三場)・『ハムレット』(五幕八場)・『新曲浦島』(二幕)が公演される。どれを見たか不明であるが、『ハムレット』は見たらしい。(『三四郎』からの推定)」(荒正人、前掲書)

11月22

夜、金曜講演会(第12回、神田区三崎町・吉田屋)で、大杉栄(22)、「獄中の研究」を講演。堺利彦の講演中、福田狂ニらの妨害にあう。

その後、大杉ら40名(来会者60名中)は、分派問題の現状に関する協議会を開く。大杉、安井有恒(青山学院事務員)、山川均、椎橋重吉(元平民新聞社員)の4名提出決議案(「在京同志の決議」)を採択。賛成37名で可決。のち全国の同志に配布する。


つづく

2026年2月17日火曜日

大杉栄とその時代年表(757) 1907(明治40)年11月1日~9日 大韓帝国第2代皇帝の純宗、即位に伴い、それまでの宮殿であった慶雲宮から昌徳宮へ移る。これにより、高宗は徳寿宮(旧・慶雲宮)に取り残され、実質的な影響力を削がれる。

 

高宗と純宗

大杉栄とその時代年表(756) 1907(明治40)年10月20日~31日 第1回文部省美術展覧会(「文展」)開催。上野勧業博物館、~11月20日 日本画99点、西洋画91、彫刻16。新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。 より続く

1907(明治40)年

11月

韓国、大韓帝国第2代皇帝の純宗、即位に伴い、それまでの宮殿であった慶雲宮から昌徳宮(チャンドックン)へ移る。これにより、高宗は徳寿宮(旧・慶雲宮)に取り残され、実質的な影響力を削がれる。 

昌徳宮への遷宮は、単なる住居の変更ではなく、新皇帝の即位とそれに伴う政治的枠組みの再編、特に日本による保護国化の過程における象徴的な出来事。

純宗は昌徳宮を活動拠点とし、韓国併合へ至る激動の時代を迎えることになる。

11月

韓国、義兵軍は徐々に追い詰められ、この月、李麟栄の原州部隊は朝鮮全土の義兵将に向けて、「12月中に兵を率いて京畿道楊州に集結せよ」との檄を飛ばす。楊州はソウルの北方に位置し、現在は維楊里と呼ばれる。

この呼びかけに応えて義兵部隊1万余名が揚州に集結し、そこで会議が開かれ、「十三道倡義軍」結成を決定。総大将李麟栄、軍師長許薦(コウィ)を選出し、1月に漢城に進攻することを決議した。李麟栄は「義兵は純然たる愛国血団である」とし、各国領事館に「万国公法上の交戦団体としての承認」を要請した。

翌1908年1月、十三道倡義軍先発隊300名が漢城東大門外30里まで進むが、日本軍の攻撃が開始され、義兵部隊はあっけなく敗退する。李麟栄は「父の喪に服すため」戦線を離脱。

11月

満鉄、図書取扱規程、制定(調査部所管)。

11月

日本人向けに「満洲日日新聞」、刊行。

11月

森近運平、堺利彦、『社会主義綱要』刊行。発禁処分。

11月

金子筑水「自然主義論」(「新小説」)

11月

狂句「気位は目白台より高くなり」(霞舟、「新小説」)。草創期の日本女子大(校長成瀬仁蔵)を揶揄。

11月

大阪でペスト流行。

11月

(漱石)

「十一月 (日不詳)、長塚節の写生文「佐渡ケ島」(『ホトトギス』第十一巻第十四号 十一月一日発行) を読み感嘆する。」(荒正人、前掲書)

11月

荷風、「アメリカ物語」を脱稿して巌谷小波に送り出版を依頼。

11月

レーニン、ロシア脱出。ジュネーブ亡命。~'17年4月迄9年間。

11月

英客船モーレタニア号処女航海、以後20年間、速力と総トン数で客船として世界最大を誇る。ルシタニア号の姉妹船。

11月1日

韓国、第3次日韓協約により、在韓国日本人警察官吏はすべて韓国警察官に任命。

11月1日

室蘭、初の民間製鉄所の日本製鋼所が設立。

11月3日

幸徳秋水、帰郷途上、大阪平民社で歓迎会。森近運平・小松丑治・竹田九平・岡本頴一郎・三浦安太郎・松尾卯一太・荒畑寒村・百瀬晋など参加。

4日、大阪から別府に向かう。温泉逗留し、23日、別府発。24日、宿毛港着。

11月3日

2代目野村徳七主催天長節パーティー。大阪。200余出席。

11月3日

(漱石)

「十一月三日 (日)、天長節。『東京朝日新聞』 (特集号) 社会面に、「佗住居作らぬ菊を憐めり」「白菊や書院へ通る腰のもの」「草庵の垣にひまある黄菊かな」「旗一筆菊のなかなる主人かな」と詠む。『読売新聞』の「書斎の装飾」(ニ)として、「光線の足らぬ書斎」 (夏目漱石氏の書斎)掲載される。

記者の探訪記事であろう。書棚の高低は様々で薄暗いと書かれている。書斎の装飾についての質問に対し、〝装飾などは浪人の身として考えてみたこともない。〞と答える。年俸三千円もありながらと反感を露骨に示している。」(荒正人、前掲書)


11月3日

天長節不敬事件サンフランシスコ、「暗殺主義」第1号「日本皇帝睦仁君ニ与フ」、日本領事館正面玄関ポーチ、オークランドやバークレーの日本人街の銀行・学校・集会所に貼り出される。竹内鉄五郎起草、小成田恒郎教唆、岩佐作太郎・倉持善三郎らも関与。日本へも密送される。領事代理松原一雄は、この日外務省に速報、4日に詳報を送る。

11月5日

啄木(21)義兄山本千三郎北海道帝国鉄道管理局岩見沢駅長に就任。

11月5日

大杉栄(22)の山川均宛書簡(「獄中消息」一〇月一三日付」)が「日本平民新聞」に掲載される

11月6日

啄木(21)、この日、花園町畑14の借家に移る。

16日、「小樽日邦」白石社長、啄木の言を容れ岩泉主筆解任。社内は動揺する。

19日、「主筆江東氏を送る」(「小樽日報」掲載)。

20日、啄木の推薦で、沢田信太郎、北海道庁を辞して、編集長として着任。   

11月7日

上海、宋教仁・譚人鳳・居正・趙正ら孫文反対派、中国同盟会中部総会組織。宋教仁は孫文の「両広革命」論批判。自らは「長江革命」論唱える。

11月8日

(漱石)

「十一月八日 (金)、宝生新に謡曲習う。(毎週金嘱目を稽古日とする。謝礼は五円だったらしい)

十一月九日 (土)、夜、高浜虚子の『鶏頭』の序の構想を練る。

十一月九日 (土)以後十一月末までの聞(推定)、安倍能成、野上豊一郎に勧められ訪ねて来る。(十一月十四日 (木)・二十一日(木)・二十八日 (木) の木曜会であったかもしれぬ。(安倍能成『我が生ひ立ち』))

十一月十日(日)、午前十時頃から午後四時まで、高浜虚子の『鶏頭』序を書く。(四百字詰原稿用紙で、十五枚余り)

十一月十日 (日)前後、『文藝評論』(講義「十八世紀英文學」)の訂正を始める。(十二月十日 (火)前後(日不詳)、完成する。(小宮豊隆))


『鶏頭』;写生文の主張を実践した代表的短篇。『風流懺法』とともに名作として名高い。高浜虚子の畑女短篇集『鶏頭』 (明治四十一年一月一日 春陽堂刊) に他八筋とともに収録され、漱石は二十八ページに及ぶ序文を掲げる。」(荒正人、前掲書)


11月8日

偶然、外遊中の東大教授高橋作衛(国際法学者)がサンフランシスコに立ち寄り、領事館スパイ川崎巳之太郎(「新世界」記者、サンフランシスコ日本人会幹事)・巽鉄男(オークランド日本人会幹事)から全貌を知らされ、東大教授穂積陳重~弟東大教授穂積八束を通じて元老山縣に報告。山縣は、翌41年1月上旬頃、高橋情報を要所に流し西園寺内閣を揺さぶる謀略(社会主義者取締りが緩慢である)を開始。

11月9日

大杉栄の出所を迎えるため、堀保子が菅野すが、坂本清馬とともに巣鴨監獄前の旅館・下宿兼茶屋の守田館に泊る。

10日早朝、大杉、巣鴨監獄から出獄

午前8時から牛込区牛込赤木元町の貸席清風亭で劉師培らが開いていた社会主義講習会(第五回)に出席し、「バクーニンの連邦主義」を講演。午後1時散会。参加者約100名(張継ら)


つづく

離反相次ぐトランプの共和党、春の予備選が終わればさらに増える(マッシー下院議員)(ニューズウィーク日本版);<トランプに不満を抱いている共和党議員は水面下に多くいると、同党のマッシー下院議員は言う。中間選挙へ向けた共和党の予備選さえ終われば、トランプも怖くなくなり表に出てくる可能性もある>

2026年2月16日月曜日

アメリカ国土安全保障省は、Google、Reddit、Discord、FacebookとInstagramを所有するMetaなどに、ICEを批判するSNSアカウントのメアド、電話番号、その他のデータの提出を命じた。X(ツイッター)はとっくに提出済だろう。もはや移民かどうか関係なくすべての反トランプのアメリカ住民が監視の対象になる。(町山智浩)

大統領の圧力、大富豪の転向、大手紙の苦境 政権急接近で読者離れ、社員3割削減 ワシントン・ポスト(朝日) / ほぼ全ての新聞が消えていく...ニュースメディア衰退の背景にある「根深い要因」(ニューズウィーク日本版) / 大規模リストラのワシントン・ポスト メディア苦境とベゾス氏の変化(朝日) / ワシントンポスト凋落とNYタイムズ独走の理由 (津山恵子); 米メディア界を揺るがしたワシントン・ポストの大量解雇。かつての栄光から一転、なぜ「崖っぷち」に立たされたのか。読者離れやAI導入の迷走、ベゾス体制下の誤算を徹底分析。ニューヨーク・タイムズとの決定的な差を浮き彫りにし、メディアの未来を考察する。

 

<社説>首相の改憲意欲 多数派の強行許されぬ:北海道新聞デジタル 「憲法を変えなければ国が行き詰まるほどの重大問題に直面しているわけではない。数の力と『改革』のムードに流されるような改憲論議は危うい」 / 選挙期間中、「改憲」については街頭では一度もなく、上越市での支持者を集めた演説会で一回触れたきり。 / NHKの党首討論はトンヅラだし!  

「政治系のショート動画作成で月収400万円」 高市旋風を生み出したのは広告動画だけではなかった 「政治的な立場から応援しているわけではない」(デイリー新潮) / 「選挙中、最も収益の上がるコンテンツは高市氏を絶賛する動画だった。2週間で100万円堅く稼げる」自民党へはポジティブ投稿、中道へはネガティブ投稿。 / “飲み代のために選挙動画”も?広告は倍に? SNS選挙で何が(NHK) / 「毎日目にして親近感」SNSの高市首相人気、自民大勝の一因か…公示後フォロワー急増で他党首圧倒・動画再生回数も(読売)   

大杉栄とその時代年表(756) 1907(明治40)年10月20日~31日 第1回文部省美術展覧会(「文展」)開催。上野勧業博物館、~11月20日 日本画99点、西洋画91、彫刻16。新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。

 

新海竹太郎《ゆあみ》(重要文化財 東京国立近代美術館)

大杉栄とその時代年表(755) 1907(明治40)年10月1日~19日 嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

1907(明治40)年

10月20日

(漱石)

「十月二十日(日)、外出中、狩野亨吉訪れ、人形と石を土産にくれる。

十月二十四日 (木)、佐瀬武雄(蘭舟)の『葦切』(原稿)を読む。

十月二十五日 (金)、佐瀬武雄(蘭舟)宛手紙に、『葦切』の感想その他を伝える。

〔文部省第一回美術展覧会、上野竹の台(上野公園)で開催する。「文展」と称す。〕

十月二十六日 (土)、「『草雲雀』序」書く。

十月二十八日 (月)、『虞美人草』、『大阪朝日新聞』の連載終る。

十月二十九日 (火)、『虞美人草』、『東京朝日新聞』の連載終る。

『虞美人草』切抜帖の終りに、「秋の蚊の鳴かずなりたる書斎かな」と詠む。

十月三十日 (水)、『虞美人草』の出版、隆文堂と春陽豊激しく競合い、春陽堂に決まる。


『草雲雀』;森田草平・生田長江・川下江村共箸。三人は、明治三十九年七月東京帝国大学を同時に卒業。森田草平は英文学科、生田長江は哲学科、川下江村は独文学科である。在学中から、『明星』や『芸苑』に執筆していた。文学的傾向も似ていた。川下江村は卒業後一年で死去する。」(荒正人、前掲書)

10月22日

米、金融恐慌が始まる.

10月24日

 ジョン・ピアポント・モルガン、エドワード・ヘンリー・ハリマン、ジェームズ・スティルマン、ヘンリー・クレー・フリックおよび他のウォールストリートの銀行家が、1907年の銀行パニックの舞台となっていたニューヨーク証券取引所の急落する株価へ投資するべく2500万ドルのプールを作成し、アメリカの金融危機を防ぐ。

10月25日

上野勧業博物館、第1回文部省美術展覧会(「文展」)、開催。~11月20日

日本画99点、西洋画91、彫刻16。公募展、優秀作品は政府が買い上げ。

新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。

帝大教授、美学者の大塚保治、東京美術学校校長正木直彦、東京美術学校校の西洋画科教授黒田清輝などが開催に尽力する。

正木直彦『回顧70年』

文部官僚として渡欧した際に牧野伸顕からその計画を聞いたときのことを振り返って、

「明治33年にドイツに居ったとき、私は岡田良平、福原鐐二郎とともにオーストリアを訪ねたことがあった。その時、オーストリアの公使は牧野伸顕さんで、イタリアから転じられたばかりのところであった。会って話してみると、大層美術のことに趣味を持っておられ、かつ欧米各国の美術施設にも精通していることが分かった。

(略)

しきりに日本に於いても文部省あたりで、美術の奨励法を講ずべきであると力説せられ、それについてはフランスのサロンの如きものを文部省が主催すべきである、と述べられたのであった。もちろん我々はこれに大いに賛意を表し、共々この実現に努むべきことを約したのであった。」


文展開催のニュースは、日本の画壇を盛り上げたが、審査委員の選考では紛糾した。

帝大総長の浜尾新(はまおあらた)、京都高等工芸学校校長の中沢岩太(なかざわいわた)、正木直彦、黒田清輝らが選考にあたり、まず日本画の大家橋本雅邦の名前が挙がった。

審査委員の打診を受けた橋本雅邦は、東京美術学校を退職して日本美術院を設立していた「岡倉天心が参加するなら受ける」と答えた。岡倉天心はその突出した才能から、東京美術学校で排斥運動がおこったという経緯があり、危惧されたが、岡倉天心の先輩にあたる中沢岩太が「岡倉なら吾輩が抑えつける」とフォローにまわった。

岡倉天心は東京美術学校から日本美術院へと率いてきた「下村観山と横山大観も審査委員にするなら受ける」と答え、そうなると「東京の人数が多いから、京都の人数をもっと」と中沢岩太が言い出す。ここに見える日本画の派閥争いは、のちに文展の解散にもつながっている。

展示は、日本画、洋画、彫刻の3部門からなり、日本画では京都の竹内栖鳳の六曲一双の屏風「雨霽(あまばれ)」、東京の下村観山が出品した二曲一双の屏風「木の間の秋」、寺崎広業の「大仏開眼」などが評判となる。

洋画では無名の新人(和田三造「南風(なんぷう)」)が2等賞(最高賞)をとって話題をさらう。20代半ばだった和田三造は雑誌のインタビューに答えて、「こう責任を負うては将来が困ります」と戸惑いを見せた。

「前夜には文部大臣の招待で帝国ホテルへ行ったが、イヤハヤ大苦しみ。コンな目に逢ったのは産まれて初めてです。私はご覧の通りの日本服で、従来洋服と云ふものを着たことがない。当夜も此儘で行くつもりでしたが先生(黒田清輝)のたってのすすめで、洋服の借り着です。靴が小さくて痛いのには非常に弱りました。」

なお、1908(明治41)年開催の第2回文展では、前年に東京美術学校を卒業したばかりの朝倉文夫「闇」が彫刻部門の2等賞をとり頭角をあらわし、第3回で「山から来た男」で3等賞をとって評判を確かなものにした。

美術界を活気づけ、後世に残る多くの作品を世に送りだした文展だったが、審査委員の分裂が顕著になり1918(大正7)年に幕を閉じる。

翌年からは、文部大臣の管理下に新設された帝国美術院が主催する帝国美術院展(帝展)がスタート。帝展では審査委員は帝国美術院が推薦し、内閣が任命する中堅作家と決められていた。

10月27日

幸徳秋水、老母多治子・妻千代子と帰郷。

29日、梅田着。老母を親戚にあずけ富山(妻千代子の姉須賀子の嫁ぎ先富山地検判事松本安蔵)に向かう。

11月1日、大阪に戻る。

10月28日

現役歩兵科兵卒の帰休に関する件公布。歩兵科兵役を3年から2年制に改訂。即日施行。

10月30日

二葉亭四迷「平凡」(「東京朝日」、~12月31日、62回)

二葉亭四迷『平凡』(青空文庫)

10月30日

野口雨情、岩泉主筆のために小樽日報社を追われ、31日退社する。啄木は主筆の懐柔策で月給25円に増俸され、三両の主任となるも、秘かに主筆排斥を画す。

10月30日

平野謙、生まれる

10月31日

ハワイのセントルイス野球団来日。~11月19日。東京芝三田の綱町グランドで慶応大学と対戦。初めて入場料を徴収。


つづく


2026年2月15日日曜日

エプスタイン問題、米ゴールドマン幹部ルームラー氏が辞任へ(日経) / ゴールドマン・サックスと「エプスタイン文書」の余波(宮野宏樹) /  ゴールドマン法務トップ辞意でも、ソロモンCEOの擁護姿勢が社内に波紋(NewsPicks) / エプスタイン関連ファイルによれば、彼女はその小児性愛者の首謀者を「アンクル・ジェフリー」と呼び、「彼のことが大好き(I ADORE him)」とまで絶賛していたうえ、彼から高級ギフト(エルメスのバッグ、1万ドルのカード、毛皮のコート)を受け取っていたという。    

地元紙・神戸新聞が検証…”インフルエンサー”中田敦彦の言動が兵庫県知事選に及ぼした「影響力」 | FRIDAYデジタル

大杉栄とその時代年表(755) 1907(明治40)年10月1日~19日 嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

 

明石元二郎

大杉栄とその時代年表(754) 1907(明治40)年10月 〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉 「リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1907(明治40)年

10月1日

服部良一、誕生。

10月1日

啄木(21)、 出社して道会議員の社長の白石東泉(義郎)と会い、編集会議に臨む。野口雨情(英吉)と三面を担当することになる。

2日、小樽区花園町十四番地西沢善太郎方に間借し、母と妻子との4人の新生活を始める。

○啄木の描く小樽。

10月1日。「遠く聞ゆる夜回りの金棒の響は函館のそれよりも忙しげ也。小樽は忙しき市なり。札幌を都といへる予は小樽を呼ぶにへ<市>を以てするの尤も妥当なるを覚う」。

10月3日、「小樽の如き悪道路は、蓋し天下の珍なり」。

また、彼の「小樽のかたみ」(「石川啄木全集」第8巻)というスクラップには、「当時小樽は、人口一〇万で、その膨張が急速であった。商港としては函館を凌駕して(北海道で)第一位に上がった。日露の協約が成立してからは、ウラジオストックとの貿易で、覇を敦賀と争っている。新聞も上田重吉(重良であろう)の小樽新聞は三千幾百号となり、約一万部を越えている」。

「小樽にきて初めて真に新開地的な、真に植民地精神の溢れる男らしい活動を見た。小樽の人は歩くのでない、突貫するのである。小樽人の特色は、執着心のないことである」。

小樽は「男らしい活動の都府」であり、「此活動の都府の道路は人も言う如く日本一の悪道路である。善悪に拘らず日本一と名のつくのが、既に男らしいではないか。且つ他日此悪道路が改善せられて市街が整頓すると共に、他の不必要な整頓……階級とか習慣とか言う死法則まで整頓するのかと思へば、予は一年に十足二十足の下駄を余計に買わねばならぬとしても、願わくば未来永劫小樽の悪路が日本一であって貰いたい」。

10月3日

韓国、伊藤、副統監曾禰荒助、純宗に謁見。日本皇太子の訪韓、英親王の日本留学策示す。

10月4日

大阪府三島郡五領村の廃弾工場で砲兵工廠払い下げの小銃弾28,000発爆発。死者66人。

10月4日

(漱石)

「十月四日(金)、渡辺和太郎から鮑を送られる。大谷正信(繞石)宛手紙に、医学士尼子四郎から、有尾敬重(勧業銀行)の子息が中学校を卒業し、高等学校を受験するまでの英語の家庭教師を探して欲しいと云われていたので、勉強を見て貰えぬかと頼む。

移転後、神経衰弱はおさまったが、胃病に苦しむ

十月七日(月)、森次太郎(円月)、『満洲日日新聞』の創刊に関して、訪ねて来る。

十月八日(火)、高浜虚子宛手紙に、宝生新から謡を習う件は別に急がない、ただ、家賃が五円あがったので、月謝を五、六円も出すのは苦しく、様子を伺ってからにしたいと伝える。(高浜虚子は初め、松本金太郎を推していたが、後に宝生新に変える)

森次太郎(円月)宛手紙に、『満洲日日新聞』創刊を祝して、「朝日のつと千里の黍に上りけり」と詠む。」(荒正人、前掲書)

10月5日

6月に創刊された「大阪平民新聞」(編集森近運平)、「日本平民新聞」と改題。

10月5日

明治天皇の母の典侍、中山慶子(71)、没。

10月6日

大阪兵器廠爆発事故(死傷者約100名)

10月8日

韓国駐箚憲兵に関する件、公布。主として治安維持に関する警察を掌り統監が配置を決定。韓国駐箚憲兵隊隊長明石元二郎少将

翌1908年6月、韓国人憲兵補助員制度。

年末、憲兵は2,347人・補助員4,234人となる。

10月8日

京都西陣で染物同業組合友禅部職工同盟会結成。加盟700人。

10月10日

皇太子嘉仁親王、韓国行啓

10月10日

ハンガリー、普通選挙要求20万人ストライキ

10月12日

旭川の野砲兵第7連隊に入営中の宮崎郁雨、啄木の身を案じ、機動演習の余暇を利用して小楯に来訪一泊する。

15日 「小樽日報」創刊。社屋は小樽区稲穂町字静屋畑十四番地(現、稲穂二丁目十九番地十三号)。社主中村定三郎の招きで社中一同精養軒に祝宴。これよりさき啄木は野口雨情らと主筆岩泉江東の排斥を企てるが、初号発刊のこの日事が露顕する。

10月15日

グスタフ・マーラー(47)、『フィデリオ』を最後にウィーン宮廷歌劇場を去る。

12月アメリカのメトロポリタン歌劇場に向かう。

10月16日

嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

10月16日

「(十月十六日(水)、「今日は先生の寫眞を床の間へ飾った。夕方に先生の鳥籠を探しにいつた。」(小宮豊隆宛鈴木三重吉手紙))」(荒正人、前掲書)

10月17日

6月の招待に対する文士の西園寺への答礼会。芝紅葉館。

柳浪、宙外、桂月、眉山、独歩(転地先湊町より上京)、花袋、秋声、藤村、鏡花(逼塞先の逗子より上京)、春葉、露伴、小波ら。天外、風葉、逍遥、鴎外、四迷は欠席。漱石には声かからず。

10月18日

幸徳の帰郷送別会を兼ね「社会主義金曜講演会」。90名。張継、北輝次郎、幸徳演説。堺、山川、片山出席。

10月18日

ハーグ万国平和会議が閉幕、ハーグ陸戦協定(陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約)締結。

10月18日

アメリカ・アイルランド間に無線電信サービスが開始。

10月19日

箕面有馬電気軌道株式会社設立。本社大阪、資本金550万円、専務取締役小林一三。

1910年3月10日、梅田~宝塚間開業。

1918年2月4日、阪神急行電鉄株式会社と改称。


つづく

2026年2月14日土曜日

鎌倉散歩 長谷寺~光則寺~収玄寺~甘縄神明神社 2026-02-14

 2月14日(土)晴れ

暖かい。気温は14~15℃。明日は18℃とかいう予報。

今日は、鎌倉の長谷寺を中心に光則寺、収玄寺、甘縄神明神社をグルっと回ってきた。

今日は、久しぶりに帰りは鎌倉駅まで歩いたので、暖かいを通り越して暑かった。

▼長谷寺

正面の枝垂れ梅は、まだ満開ではないけど、ま、十分に見応えあり。

あちこちでメジロに遭遇したけど、メジロと遊んでる余裕もなかったので、写真はイマイチ。









▼光則寺

梅は、他と比べて控えめなので写真は割愛。

ロウバイとセツブンソウ。



▼長谷寺近く、「はせつる茶寮」とあるお宅(店)の前の梅

枯れた感じがすごくいいので、毎年楽しみにしている。


▼収玄寺の河津桜

すごくキレイに咲いている。

高いところでメジロが戯れていた。



▼甘縄神明神社の玉縄桜

いまちょうど見頃というところ。蕾がいっぱいあって、花自身が若くて溌溂としている。

この神社の近くに安達盛長(鎌倉殿の13人の1人)の館(甘縄の館)があって、頼朝は神社参詣の折には必ず立ち寄って、幕府草創期の昔話をしたと言われている。






「人は時として、幻想を破壊されたくないがために真実を聞きたくないのだ」(フリードリヒ・ニーチェ) / 「大衆は真実を渇望しない。 彼らは、彼らの好みに合わない証拠を避け、誤りが彼らを誘惑するならば、誤りのほうを神格化することを好む。 彼らに幻想を与えることができる人は誰でも簡単に彼らの主人となり得る。 彼らの幻想を破壊しようとする人は誰でも常に彼らの敵となる。」(ギュスターヴ・ル・ボン)/ 「全体主義体制にとって理想的な臣民は、ガチガチのナチでもゴリゴリの共産主義者でもない。事実と創作、真実と虚偽の区別がつかなくなっている人々である。」(ハンナ・アーレント)