2026年2月17日火曜日

大杉栄とその時代年表(757) 1907(明治40)年11月1日~9日 大韓帝国第2代皇帝の純宗、即位に伴い、それまでの宮殿であった慶雲宮から昌徳宮へ移る。これにより、高宗は徳寿宮(旧・慶雲宮)に取り残され、実質的な影響力を削がれる。

 

高宗と純宗

大杉栄とその時代年表(756) 1907(明治40)年10月20日~31日 第1回文部省美術展覧会(「文展」)開催。上野勧業博物館、~11月20日 日本画99点、西洋画91、彫刻16。新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。 より続く

1907(明治40)年

11月

韓国、大韓帝国第2代皇帝の純宗、即位に伴い、それまでの宮殿であった慶雲宮から昌徳宮(チャンドックン)へ移る。これにより、高宗は徳寿宮(旧・慶雲宮)に取り残され、実質的な影響力を削がれる。 

昌徳宮への遷宮は、単なる住居の変更ではなく、新皇帝の即位とそれに伴う政治的枠組みの再編、特に日本による保護国化の過程における象徴的な出来事。

純宗は昌徳宮を活動拠点とし、韓国併合へ至る激動の時代を迎えることになる。

11月

韓国、義兵軍は徐々に追い詰められ、この月、李麟栄の原州部隊は朝鮮全土の義兵将に向けて、「12月中に兵を率いて京畿道楊州に集結せよ」との檄を飛ばす。楊州はソウルの北方に位置し、現在は維楊里と呼ばれる。

この呼びかけに応えて義兵部隊1万余名が揚州に集結し、そこで会議が開かれ、「十三道倡義軍」結成を決定。総大将李麟栄、軍師長許薦(コウィ)を選出し、1月に漢城に進攻することを決議した。李麟栄は「義兵は純然たる愛国血団である」とし、各国領事館に「万国公法上の交戦団体としての承認」を要請した。

翌1908年1月、十三道倡義軍先発隊300名が漢城東大門外30里まで進むが、日本軍の攻撃が開始され、義兵部隊はあっけなく敗退する。李麟栄は「父の喪に服すため」戦線を離脱。

11月

満鉄、図書取扱規程、制定(調査部所管)。

11月

日本人向けに「満洲日日新聞」、刊行。

11月

森近運平、堺利彦、『社会主義綱要』刊行。発禁処分。

11月

金子筑水「自然主義論」(「新小説」)

11月

狂句「気位は目白台より高くなり」(霞舟、「新小説」)。草創期の日本女子大(校長成瀬仁蔵)を揶揄。

11月

大阪でペスト流行。

11月

(漱石)

「十一月 (日不詳)、長塚節の写生文「佐渡ケ島」(『ホトトギス』第十一巻第十四号 十一月一日発行) を読み感嘆する。」(荒正人、前掲書)

11月

荷風、「アメリカ物語」を脱稿して巌谷小波に送り出版を依頼。

11月

レーニン、ロシア脱出。ジュネーブ亡命。~'17年4月迄9年間。

11月

英客船モーレタニア号処女航海、以後20年間、速力と総トン数で客船として世界最大を誇る。ルシタニア号の姉妹船。

11月1日

韓国、第3次日韓協約により、在韓国日本人警察官吏はすべて韓国警察官に任命。

11月1日

室蘭、初の民間製鉄所の日本製鋼所が設立。

11月3日

幸徳秋水、帰郷途上、大阪平民社で歓迎会。森近運平・小松丑治・竹田九平・岡本頴一郎・三浦安太郎・松尾卯一太・荒畑寒村・百瀬晋など参加。

4日、大阪から別府に向かう。温泉逗留し、23日、別府発。24日、宿毛港着。

11月3日

2代目野村徳七主催天長節パーティー。大阪。200余出席。

11月3日

(漱石)

「十一月三日 (日)、天長節。『東京朝日新聞』 (特集号) 社会面に、「佗住居作らぬ菊を憐めり」「白菊や書院へ通る腰のもの」「草庵の垣にひまある黄菊かな」「旗一筆菊のなかなる主人かな」と詠む。『読売新聞』の「書斎の装飾」(ニ)として、「光線の足らぬ書斎」 (夏目漱石氏の書斎)掲載される。

記者の探訪記事であろう。書棚の高低は様々で薄暗いと書かれている。書斎の装飾についての質問に対し、〝装飾などは浪人の身として考えてみたこともない。〞と答える。年俸三千円もありながらと反感を露骨に示している。」(荒正人、前掲書)


11月3日

天長節不敬事件サンフランシスコ、「暗殺主義」第1号「日本皇帝睦仁君ニ与フ」、日本領事館正面玄関ポーチ、オークランドやバークレーの日本人街の銀行・学校・集会所に貼り出される。竹内鉄五郎起草、小成田恒郎教唆、岩佐作太郎・倉持善三郎らも関与。日本へも密送される。領事代理松原一雄は、この日外務省に速報、4日に詳報を送る。

11月5日

啄木(21)義兄山本千三郎北海道帝国鉄道管理局岩見沢駅長に就任。

11月5日

大杉栄(22)の山川均宛書簡(「獄中消息」一〇月一三日付」)が「日本平民新聞」に掲載される

11月6日

啄木(21)、この日、花園町畑14の借家に移る。

16日、「小樽日邦」白石社長、啄木の言を容れ岩泉主筆解任。社内は動揺する。

19日、「主筆江東氏を送る」(「小樽日報」掲載)。

20日、啄木の推薦で、沢田信太郎、北海道庁を辞して、編集長として着任。   

11月7日

上海、宋教仁・譚人鳳・居正・趙正ら孫文反対派、中国同盟会中部総会組織。宋教仁は孫文の「両広革命」論批判。自らは「長江革命」論唱える。

11月8日

(漱石)

「十一月八日 (金)、宝生新に謡曲習う。(毎週金嘱目を稽古日とする。謝礼は五円だったらしい)

十一月九日 (土)、夜、高浜虚子の『鶏頭』の序の構想を練る。

十一月九日 (土)以後十一月末までの聞(推定)、安倍能成、野上豊一郎に勧められ訪ねて来る。(十一月十四日 (木)・二十一日(木)・二十八日 (木) の木曜会であったかもしれぬ。(安倍能成『我が生ひ立ち』))

十一月十日(日)、午前十時頃から午後四時まで、高浜虚子の『鶏頭』序を書く。(四百字詰原稿用紙で、十五枚余り)

十一月十日 (日)前後、『文藝評論』(講義「十八世紀英文學」)の訂正を始める。(十二月十日 (火)前後(日不詳)、完成する。(小宮豊隆))


『鶏頭』;写生文の主張を実践した代表的短篇。『風流懺法』とともに名作として名高い。高浜虚子の畑女短篇集『鶏頭』 (明治四十一年一月一日 春陽堂刊) に他八筋とともに収録され、漱石は二十八ページに及ぶ序文を掲げる。」(荒正人、前掲書)


11月8日

偶然、外遊中の東大教授高橋作衛(国際法学者)がサンフランシスコに立ち寄り、領事館スパイ川崎巳之太郎(「新世界」記者、サンフランシスコ日本人会幹事)・巽鉄男(オークランド日本人会幹事)から全貌を知らされ、東大教授穂積陳重~弟東大教授穂積八束を通じて元老山縣に報告。山縣は、翌41年1月上旬頃、高橋情報を要所に流し西園寺内閣を揺さぶる謀略(社会主義者取締りが緩慢である)を開始。

11月9日

大杉栄の出所を迎えるため、堀保子が菅野すが、坂本清馬とともに巣鴨監獄前の旅館・下宿兼茶屋の守田館に泊る。

10日早朝、大杉、巣鴨監獄から出獄

午前8時から牛込区牛込赤木元町の貸席清風亭で劉師培らが開いていた社会主義講習会(第五回)に出席し、「バクーニンの連邦主義」を講演。午後1時散会。参加者約100名(張継ら)


つづく

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