以前に、信長の父信秀について記した際、③信秀/信長以前の織田氏についても触れる予定でしたが、これがまだ実現していないので、天文7年(1538)12月2日に信長祖父の信定が没していることもあり、まずこの件について記します。
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□織田氏のルーツ:
越前国織田荘の土豪から越前守護斯波氏の被官へ。
織田氏は、名字の地である越前国織田荘(福井県丹生郡織田町)の荘官として成長してきた在地土豪で、南北朝初期に斯波氏が越前守護に任命されてからは、その被官としての地位を強めていったと推定される。
越前の織田剣神社には、明徳4年(1393)6月17日付で、藤原信昌・同兵庫助将広父子が奉納した置文が残されている(「右 信昌嫡男兵庫助藤原将広・・・」「・・・父子共ニ同心之趣・・・」)。
これは、父子が織田剣神社を修理再興し、また神領の課役を免除すると述べ、子孫代々に亘り同社の修理を怠らず荒廃せぬようにと申し伝えている文書である。
信昌・将広の「信」「広」は、その後の織田氏の歴代に慣用的に使われる諱(イミナ)で、官途名「兵庫助」も織田氏に継承されている。
このことから、「藤原信昌・将広父子」は、織田氏の先祖にあたる者と考えられる。更に、「将広」は、斯波義将の偏諱(ヘンキ)の「将」を与えらており、この時点で既に斯波氏被官であったと推定できる。
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尾張支配(尾張守護代と又代)の完成。
応永7年(1400)3月、斯波義将の子義重は、応永の乱(前年、将軍義満が大内義弘を討伐)の恩賞によって、越前に加え尾張の守護職を与えられる。在京して室町幕府を支える義重は、初め尾張守護代に越前守護代甲斐氏(祐徳)を兼任させるが、応永10年頃迄には織田常松(伊勢入道)を尾張守護代とする。
しかし、常松は斯波氏の重臣として在京することが多く、代わりに織田常竹(出雲入道)が又守護代(又代)となって尾張に在国し、中島郡下津(オリツ、愛知県稲沢市)に守護所を構え、実質的支配を行う(尾張織田氏の始め)。
常松と常竹の尾張支配は、応永34年(1427)頃まで続き、両者共に正長2年頃~永享初年頃(1429~30)迄に没し、代わって織田勘解由左衛門尉教長(朝長)が在国する又代、次いで在京の守護代に任じられる。
その後、織田一族は在京の守護代、在国の又代を相次いで継承、尾張において斯波氏の他の家臣を圧倒する地位を確保する。そして、応仁の乱勃発の頃までには、織田一族の中でも守護代・又守護代を世襲する家柄が固まってくる。
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守護代織田氏(嫡流)は、守護斯波氏の偏諱の一字を与えられ下の一字に「広」を通字とするようになる。斯波義淳の時の織田淳広、斯波義郷の時に織田郷広、斯波義敏の時には織田敏広、斯波義寛の時に織田寛広。
一方、在国する又守護代(又代)は、大和守久長というように実名に「長」を通字として使い、受領名の大和守や仮名の五郎を称す。この家系は、嫡流家から守護代を出せない場合には代わりに守護代を勤めることもあり、嫡流家に次ぐ織田氏の有力な庶流である。
このように尾張の織田氏は、在京して守護斯波氏を補佐する嫡流家の守護代家と、尾張に在国して在地支配を勤める又守護代家の、安定した補完関係を維持しながら、実質的領域支配者として勢力を国内に扶植してゆく。斯波氏家臣として同列にあった坂井氏も織田氏の被官として組織化してゆく。
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応永12年(1405)7月25日、斯波義重は管領(~応永14)となり、この頃守護斯波氏の城として、伊勢街道と鎌倉街道の分岐する、東西交通の要衝清洲に城を築城。以後200年間、清洲は尾張の中心地となる。応永11(1404)年の妙興寺文書に織田出雲守常竹の、応永15(1408)年には織田伊勢守常松の、署名文書が残されている。
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その後の斯波氏。
応永16年(1409)8月10日、斯波義重は管領を辞し義敦(~1433)に家督を譲るが、幼少の為、引き続き守護職としての発給文書は義重が行う。
応永25年(1419)、義重が没し、義淳が尾張守護となり、応永26年(1419)には遠江守護職も兼任(今川泰範の後任)。
永亨元年(1429)8月24日、義敦は管領となり、この年、織田勘解由左衛門(教長?)が守護代となる。
永亨2年5月、義敦は越前守を兼任。永亨3年(1431)の文書に織田教長の名が見える。
永亨4年10月10日、義敦は管領を辞任し、永亨5(1433)年12月1日没。義敦には嗣子が無く、出家し相国寺の鄂隠の弟子となっている義敦の弟瑞鳳が還俗、義郷と改め家督を継ぐ。
永亨6年2月、義郷は幕府に出仕、尾張・遠江守護となり治部大輔に任じられるが、永亨8(1437)年9月29日、三条中納言邸訪問の帰路、落馬し翌日没。義郷没後、千代徳丸(1、義健)が家督を継ぐが、実権は老臣甲斐常治が掌握。
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嘉吉元年(1441)12月21日、尾張守護代織田郷広が、寺社領・本所領を横領し、追放・逐電する(「建内記」)いう事件が起る。これは、守護権力の空白化の中で、在地豪族が、中央の貴族・寺社の荘園を蚕食する事象である。
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斯波家・織田家の内訌から尾張の分割支配へ。
享徳元年(1452)9月、守護斯波義健(17)の没後、その家督を巡り斯波氏一族の義敏(斯波高経の曾孫で持種の子)と義廉(斯波氏の老臣の甲斐・朝倉らが推す渋川義鏡の子、母は山名宗全の女)の内訌が生まれ、将軍義政の継嗣争いが加わり応仁の乱が勃発。
斯波氏の内訌は織田氏にも波及し、織田氏は、義廉方に守護代伊勢守敏広が、義敏方には大和守敏定が与して戦うこととなる。
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周防に下っていた義敏は将軍義政の寵臣伊勢貞親(義敏と貞親の妾が姉妹の関係にある)を動かし、寛政6(1465)年12月入京、翌文正元年7月23日、家督を再度獲得。8月、将軍義政は、義敏を再び越前・尾張・遠江守護に任じる。
しかし9月、義敏を支持する貞親が、山名宗全・細川勝元らに排除され、義敏も斯波家家臣らから支持されず越前に逃亡。僅か20日余で義廉は守護に復帰、9月14日、甲斐左京亮、織田広近、朝倉氏景らを従え幕府に出仕。伊勢貞親と義敏は京を離れ、義敏は越前に下る。
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この頃、越前の朝倉孝景や甲斐氏らと共に義廉を推す織田伊勢守敏広(常松の曾孫)は、尾張に在国するが、京都では、義敏方の浪人勢力が強く、弟の与十郎広近に兵を与えて上洛させ、義敏方に備えさせる。京では朝倉孝景やその子の広景、山名宗全らが義廉を支持。
応仁元年(1467)年5月細川勝元と結んだ斯波義敏の兵は、越前・尾張・遠江に入り山名党を攻撃。織田敏広は、これ迄の経緯から西軍斯波義廉に味方し、小田井城主・清洲城主織田大和守敏定(敏広の又従兄弟?)は、東軍の斯波義敏につく。
応仁2年、義敏の子義良(義寛)が東軍から尾張守護職に補せられると(~1476)、斯波義廉も西軍から尾張守護職を与えられる(~1477)。
文明7年(1475)頃、越前・遠江を朝倉・今川両氏に奪われた西軍の将斯波義廉が、下津城に拠る守護代織田敏広を頼り、尾張に下る。
翌文明8年11月、東軍の織田敏定は、敏広と戦いこれを敗走させ、下津城は廃城となる。
文明10年(1478)9月、幕府は、義良(義寛)を守護に、織田敏定を守護代に任じ、義廉・敏広ら討滅を命じる。敏定は尾張に入部して清洲に拠り、敏広方は美濃の斎藤妙椿の応援をうけてこれに対決。
10月12日、織田敏定は敏広と戦い勝利するが、12月4日には、敏広が義父の美濃国守護代斎藤妙椿の援軍を得て清洲城の敏定を攻撃。
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しかし、応仁の乱が終結すると、文明11年(1479)1月19日、両者の和議が成立、守護斯波義寛のもとで大和守敏定が守護代となり、敏広の子も義寛に帰参。守護代は嫡流家から又代家の敏定の家系に継承される。
これ以後、織田氏は、
①守護所の下津から岩倉に移った伊勢守敏広系の岩倉織田氏と、
②守護斯波氏を擁し清洲に拠る大和守敏定系の清洲織田氏に分立し、
対立しながら尾張を分割支配することになる。
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弾正忠系織田氏の台頭。
「信長公記」首巻の巻頭に、信長誕生の頃の尾張の国内情勢(織田氏の分裂状況)が書かれている。*
「去る程に尾張国は八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守、諸侍手に付け進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下の郡四郡、織田大和守下知に随へ、上下川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に候て守り立て申すなり。大和守内に三奉行これあり。織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠、此の三人諸沙汰奉行人なり。弾正忠と申すは尾張国端勝幡と云う処に居城なり。西巌・月巌・今の備後守・・・とてこれあり。」
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これによれば、良信(月巌、信長曾祖父)~信定(西巌、信長祖父)~備後守(信秀、信長父)に繋がるのが信長の家系で、尾張下四郡守護代織田大和守の3奉行の中で、頭角を現してくる弾正忠(官途名)を称する家系である。良信以前には遡ることができない。
良信は、守護斯波義良の偏諱「良」を与えられており、斯波氏被官の地位であったこと、文明14年(1482)の清洲宗論では奉行をつとめた事が知られている。信定は守護代清洲織田氏の3奉行の1人としての活躍が見られ、尾張の西端に位置する勝幡に居城し、湊町津島の領有によって豊富な経済力を確保し、それは信秀や信長が戦国大名に発展する基盤となる。信秀の代では、守護代家を凌ぐ勢力を保持するに至る。
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