2009年5月23日土曜日

阿仏尼

■阿仏尼の生涯
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出生~藤原為家との出会い
貞応元年(1222)~26年頃の生まれ。
父は平度繁(実父・養父説あり)。
安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王。後堀河天皇の准母)に仕え、安嘉門院四条(アンカモンインノシジョウ)と呼ばれた時期が長い。その後、宮仕えから退き、奈良の法華寺に入り、阿仏を名乗る。
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阿仏の若い頃の失恋と漂泊を綴った日記「うたたね」の一節。
恋に疲れた女が広隆寺参詣の帰路、花園の法金剛院に寄って紅葉をめでるが、時雨模様の空に恋の終わりを予感する。
「人知れず契りしなかの言の葉を嵐吹けとは思はざりしを」
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「うたたね」
若い頃、貴人との恋に敗れ、自ら髪を削いで山寺に隠れ、その後転々とし、結局遠江に下り、更に乳母の病の報に再び京に戻るという内容。情熱的な筆致であるが、自らを浮舟に擬した雨の夜の出家・出奔、実在感のない恋人の描写などのように、自己劇化と古典を模す美文調の観念的修辞表現から、虚構による創作的作品とする見方もあり。
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建長5年(1253)頃、歌壇の重鎮藤原為家(定家の子)の助手のような職を得る。阿仏30歳前後、為家56歳。
阿仏は、為家の寵愛を得て側室となり、為家の子為相・為守を生む。
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2人の恋の歌(「玉葉和歌集」)。
阿仏のもとで夜を過ごした為家が、雨にぬれで帰る。
為家「帰るさの東雲暗き村雲も我が袖よりや時雨れそめつる」。
阿仏「後朝(キヌギヌ)の東雲暗き別路に添えし泪はさぞ時雨れけむ」。
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藤原為家
藤原定家の後継ぎ息子。
若い頃は、蹴鞠に一所懸命になり歌に身を入れず、定家は為家の不勉強を心配し嘆いたりするが、中年を過ぎてから歌に身を入れる。歌風は、定家ほど深い歌ではないが、とにかく定家から嗣いだ御子左家(ミコヒダリケ)の歌壇における地位を保つことは出来る。
為家は、明るく宴会好きで世渡りは上手。威勢のある西園寺家に接近し、父よりも出世し権大納言にまで昇進する。
御子左家の財産である荘園、定家の「明月記」、様々な写本類は為家に伝えられる。
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為家は、1275年、78歳で没す。
この時の阿仏の歌。
「とまる身はありてかひなき別路になど先立たぬ命なりけむ」。
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阿仏はまた、歌論書「夜の鶴」、宮仕えの娘に与える庭訓書「乳母のふみ」も書いている。
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阿仏尼(為相)と為氏との相続争い
為家は生前、所領の播磨国細川荘(兵庫県三木市)を正妻の子の嫡男(二条)為氏に与えたが、後に、家に伝わる典籍・文書などと共に為相に与えるという書状を残す。
しかし、為氏は為家没も荘園を手放さなかった。
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相続については、公家法と武家法で解釈が違い、阿仏は鎌倉幕府に訴えるため旅立つ決心をする。
(公家法では悔い返しは認められないが、武家法ではこれが認められている)
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「十六夜日記」
1279年10月16日~翌年秋の阿仏尼の日記で、中世の女性による日記文学の白眉とされる。
前半は鎌倉での裁判のため京都から下向したときの旅日記。
後半は鎌倉滞在記で、京都の知人との和歌のやり取りが中心。
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書出し。
「昔、壁の中より求め出でたりけん書(フミ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上の事とは知らざりけりな」
(孔子の旧居を壊したら、「孝経」という書物が出てきたとの話を踏まえ、「今の世の人の子」(為氏)は親の遺志を守らない不幸者だ、と非難。
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自分は夫を助け和歌の家を支えてきたが、為相が継ぐべき荘園を為氏に横領された。このままでは生計が成り立たず、歌道が廃れる。
公家法が幅をきかせる京都では解決できないので、鎌倉幕府へ訴え出ようと、「いざよう月に誘われ出でなんとぞ思いなりぬる」。
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10月18日、不破の関跡に近い藤川(現、藤古川)を渡る。
「我が子ども君に仕へんためならば渡らましやは関の藤川」
(「子供の出世のためだけでしたら、こんな苦労はいたしません。亡夫の遺志をつぐため、和歌の家のためです」という。)
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「十六夜日記」で、阿仏は、和歌の名家で息子3人のを育て、重要な仕事である和歌などの資料管理に携わったことを誇らしげに書く。
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鎌倉にて
10月29日鎌倉着。
月影の谷(ヤツ)に寓居を構える。江ノ島電鉄「極楽寺駅」近く。
「東にて住む所は月影の谷とぞいうなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」
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「十六夜日記」には、鎌倉の町の様子や訴訟の進展、自らの日常生活については、殆ど書かれていない。記述は京都の知人や家族との和歌の贈答に終始している。
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「源氏物語」や和歌を教えながら、ひたすら勝訴を祈願して社寺に和歌を捧げる毎日を過ごす。
「都人思ひも出でば東路の花やいかにとおとづれてまし」。
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関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」に、裁判を待つ間に年を取る悲しみうたった歌。
「故郷の人に見せばや黒髪に年もかさなる霜のしろさを」。
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「十六夜日記」の最後の長歌。
「鎌倉の世のまつりごと繁ければ聞え上げてし言の葉も枝にこもりて梅の花四年の春になりにけり」。
(幕政繁多で、上申書が取り上げられないまま4年目の春を迎えた)。
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弘安6年(1283)4月8日、鎌倉で没。
墓とされるものは鎌倉と京都にある。
それから30年後、ようやく阿仏の子為相が勝訴。
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藤原為相
藤原定家の御子左家は、定家の孫の代で為家の長男の為氏が二条家を称し(大覚寺統に接近)、二番目の為教が京極家(持明院統に接近)、為相が冷泉家を称するようになり、三つの家に分裂するが、二条家・京極家は後に断絶し、冷泉家のみが今に残る。
冷泉家も室町時代には様々な変転を経ることになるが、ここでは割愛する。
(京極家には京極為兼という興味深い人物がおり、いずれこの人を取り上げたい)。
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為相は、為氏(その後、為氏の子為世)との係争の為、しばしば鎌倉に赴き、その間武士らに和歌や連歌を教授し、鎌倉歌壇の指導者と仰がれる。
長らく鎌倉の藤ヶ谷に居を構え藤谷黄門とも呼ばれる。
娘の1人は鎌倉幕府8代将軍久明親王(持明院統の後深草天皇の皇子)の側室となり、久良親王が誕生。
この頃の冷泉家は、持明院統の外戚として鎌倉で栄える。
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嘉暦3年(1328)7月17日、66歳で鎌倉に没す。
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関連
①阿仏尼寓居跡
②阿仏尼の墓、冷泉為相の墓
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