この無頼の詩人、酔いどれ老人にして、永遠の青年、田村さんの文章で、この辺りを案内していただくことにします。
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阿仏尼の寓居跡
「花が咲く、その、咲くという自動詞の語源は、裂くという動詞から来ていることも、あるとき知った。花は、だれの手によって裂かれたものなのか。自然のエネルギーか、神の手か ---
ぼくはいま、鎌倉の谷戸の奥に住んでいて、その裏山を越えると、月影ケ谷。そこには、藤原定家の嫡男、為家と結婚して、領地相続問題を幕府に訴えるために、この月影ケ谷に庵を構えた「十六夜日記」の著者阿仏尼が住んでいた。「月影の谷若葉して道清し」の鎌倉時代中期の女流歌人である。
この北側の谷には、野生の椿の老樹、モミジ、山桜などが密生していて、昼間でも、めったに人にあわない。野鳥はヒヨドリ、キジ、ハト、コジュケィ、オナガで、この谷と雑木林が彼らのテリトリーである。谷をおりきると、右側に「月影地蔵」の御堂があって、小さな野川の流れに沿って右折して、しばらく歩くと、極楽寺の裏手に出る。
ぼくはラーメン屋に入って、ラーメンをたべる。その店は狭いから、タバコを吸うのは極楽寺の境内ということになる。
庭の中央にはサルスベリの巨木があって、盛夏には、美しい薄紅の花をつける。梅、桜、藤などが、細長い前庭にところせましと植えられていて、早春から初夏まで、季節の推移を、あざやかに描き出す。冬は陽だまりの庭で、木のベンチに坐って、タバコを吸っていると、いつのまにか睡くなってきて、五、六匹の猫とともに、舟をこぎ出すのである。
極楽寺の境内に隣接するお宅の庭に、ユーカリとミモザの大木が何本かある。三月初旬から四月のはじめにかけて、ミモザの黄色い粒子状の花々がいっせいに咲く。黄色い煙霧!
・・・」(「ぼくの草競馬」集英社文庫)。
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なお、関連エントリは下記です。
「阿仏尼」について
「阿仏尼の墓 冷泉為相の墓」について
「極楽寺 極楽寺坂」について
この近辺の、「成就院」について
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極楽寺駅から成就院方向に行くと、こんな喫茶店がありました。
「街道をゆく」シリーズでお書きになったんでしょう。
大概は読んでいた積りだったんですが、この巻は読んでいないようです。
調べてみると、朝日文庫版の巻42に「三浦半島記」があり、その中に鎌倉編があります。
司馬遼太郎さんは1996年、田村隆一さんは1998年に亡くなられました。
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極楽寺駅から成就院方向に行くと、こんな喫茶店がありました。
「街道をゆく」シリーズでお書きになったんでしょう。
大概は読んでいた積りだったんですが、この巻は読んでいないようです。
調べてみると、朝日文庫版の巻42に「三浦半島記」があり、その中に鎌倉編があります。
司馬遼太郎さんは1996年、田村隆一さんは1998年に亡くなられました。
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ここでふたたび田村さんに案内していただきます。
星月井
「さて、いまは秋。
切通しの岩肌は、しずくに濡れ、シダ類が頭を垂れている。秋の香のただよう冷気のなかを、ダラダラッと極楽寺坂をくだると、左手に安産の仏さま、手づくりのヨダレかけをした六体のお地蔵さまが岩かげに並んでいて、やがて、鎌倉十井の一つ、星の井、別名、星月夜の井がある。江戸時代までは、このあたりは木々におおわれ、昼なお暗かったので、地名を星月夜と云ったそうだが、そのまま井戸の名前になったという説もある。
この井戸をすぎたところから、「坂の下」という江戸時代からの漁村で、由比ケ浜から一・四キロの沖合を流れる黒潮のおかげで、イセエビ、イシダイ、シラスなどがあがり、その海の幸が、この小さな漁村をうるおしているのだ。」(「ぼくのピクニック」朝日文庫)。
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田村隆一さんと光明寺
田村隆一さんお気に入り萬屋酒店
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