今年4月に稲村ケ崎を訪れましたが、晴天でしたがもう富士山の見える季節ではなく、残念な思いをしました。
今度こそはと、冬の晴天の日を狙って稲村ケ崎へ。
結果、下のような状況でした。
想像以上に大きく見えるのには感動しましたが、イマイチくっきりとは見えませんでした。
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遠くに江の島が見える
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もう少し拡大すると・・・。
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陽光きらめく湘南の海。
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干潮時だったので、稲村ケ崎の先をそっと覗いてみました。
戦時であれば、強行突破できるカナ?
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・・・ということで、稲村ケ崎から富士山を眺めるという願望を半ば果たして、今度は江ノ電沿いに極楽寺~長谷と歩いて鎌倉駅まで戻ることにしました。
江ノ電稲村ケ崎駅。
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「田村隆一さんと極楽寺あたりを歩く」
「極楽寺 ・・・」
「成就院のあじさい」
などで、この辺りは何度か歩いていますので、ソチラも併せてご参照下さい。
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江ノ電極楽寺駅。
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駅近くの喫茶店。
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ここを下って行くと極楽寺坂切通し。
右に見える階段を上がると成就院。
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成就院から眺める由比ヶ浜。
由比ヶ浜越しに見えるのは、先日歩いた名越切通し辺り。
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成就院から「極楽寺坂切通し」の碑が見える。
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坂下にある舟守地蔵。
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坂下にある星月井
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力餅、ここから入った御霊神社も二回目です。
以前の「光則寺 御霊神社 力餅」はコチラ。
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御霊神社
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御霊神社前に江ノ電が走る。
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線路脇に小さな花が咲いていた。
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御霊神社脇を抜けて長谷方面に向う。
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稲村ケ崎から鎌倉駅へ(2)に続く
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「★鎌倉インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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2009年12月27日日曜日
2009年12月26日土曜日
平家の群像(1) 平家の侍 平盛久
平家の群像(1) 平家の侍 平盛久
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壇ノ浦の合戦は、殲滅戦でないためかなりの平家の軍兵が戦場から離脱・逃亡する。
豊後国の八代宮の神主である七郎兵衛尉こと重安と子の小太郎重茂(シゲトヨ)は、得意の水練で文字(門司)の浦から柳浦まで泳ぎ故郷に帰還。後に七郎兵衛尉は鎌倉に参向して自らの罪科を訴えるが、神主の故をもって罪科を免じられ、更に社領85町も安堵される。
平家の侍たちでは、主馬八郎左衛門こと平盛久、越中次郎兵衛こと平盛嗣、上総五郎兵衛こと藤原忠光、悪七兵衛で知られる藤原景清、飛騨守藤原景家の四男とされる飛騨四郎兵衛らが、夕闇に紛れ姿を晦ます。
*
平盛久:
伊勢守盛国の八男。前に主馬判官と呼ばれた盛国に因んで主馬八郎左衝門といわれる。
承安3年(1173)頃、東寺の灌頂堂を修理し、その成功によって承安4年正月、右兵衛尉に任じられる。その後、年代は不明ながら左衛門尉に任じられる。
盛久は若年より仏心が篤く、仁安2年(1167)、紀伊国牟婁郡の戸張保その他の未開墾地を高野山に寄進。
*
源平の合戦を通じて特別の武勲はなかったが、壇ノ浦の合戦後、都に潜入。
*
長門本「平家物語」によると、清水寺の阿闍梨・良観に帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立してこれを金堂の内陣の本尊の右脇に安置して貰い、年来の宿願としてこれに千日参りを始める。
*
文治2年(1186)、ある下女が盛久を鎌倉方に密告。長門本では、北條時政が鎌倉の代官として都に駐在していた時(文治元年11月25日~2年3月28日)とされているが、左馬頭藤原能保が文治2年3月27日、京都守護となり、鎌倉の代官を勤めた直後が正しいようだ。
密告により、盛久が毎夜、白い直垂を着て、跣で清水寺に詣でていることが判明し、捕縛される。
*
鎌倉に護送された盛久に対して、平景時が取調べに当るが、盛久は心中の所願については殆ど陳べなかった。
*
平家の重代相伝の家人として盛久は処刑されることになり、命を承けた御家人土屋三郎こと平宗達が、文治2年6月28日、盛久を由比浜に引据え、太刀を抜いて頚を刎ねようとしたところ、刀身が三つに折れてしまう。別の太刀で斬ろうとするが、今度は目釘から折れる。
奇異に感じた宗遠は、清水寺の観音の加護のためか、刀が折れ、盛久の頚が斬れなかった旨を頼朝に言上する。
ちょうどその時、政子は、清水寺辺りに住む墨染の衣を着た老僧が現れ、盛久の斬罪を宥すよう頼んだ夢を見る。
そこで頼朝は盛久を召し、親しく彼に問うこととする。
*
頼朝の問いに対して盛久は、清水寺に千手観音像を造立し、千日参りの宿願を立てて詣でていた旨を答える。頼朝の所領のことに関する質問に対し、紀伊国に荘園を所有していたが、平家没官領として頼朝の手に帰していると述べる。
頼朝は、盛久の旧領を彼に返付することを約し、所領安堵の下文を与え、都に帰るため鞍馬1匹を彼に贈る。更に、後白河法皇の法住寺殿を再建する料に充てていた越前国今立郡池田荘(現、池田町)を盛久に与え、その収益をもって法皇の御所を造営させるよう時政に命じる。
*
都に入った盛久は、まず清水寺に参って本尊を拝し、良観に事の次第を報告。
良観は、6月28日午の刻、盛久が安置した千手観音像が俄かに倒れ手が折れたので、寺では大変不思議に思っていたが、鎌倉の盛久を救済するためであることが分かったと語る。
都の貴賎はこの話を聞き、新造の千手観音の御利益は、古くからの仏に勝っていると、この新仏を尊んだという。
この観音利生譚は謡曲「盛久」の主題となる。
*
虚実が混ざり合っているが、何等かの事情で盛久が放免されたこと、彼が紀伊国に荘園を持ってたことなどは確実と思われる。
*
全て下記に依りました。
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平家後抄―落日後の平家〈上〉 (講談社学術文庫)
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壇ノ浦の合戦は、殲滅戦でないためかなりの平家の軍兵が戦場から離脱・逃亡する。
豊後国の八代宮の神主である七郎兵衛尉こと重安と子の小太郎重茂(シゲトヨ)は、得意の水練で文字(門司)の浦から柳浦まで泳ぎ故郷に帰還。後に七郎兵衛尉は鎌倉に参向して自らの罪科を訴えるが、神主の故をもって罪科を免じられ、更に社領85町も安堵される。
平家の侍たちでは、主馬八郎左衛門こと平盛久、越中次郎兵衛こと平盛嗣、上総五郎兵衛こと藤原忠光、悪七兵衛で知られる藤原景清、飛騨守藤原景家の四男とされる飛騨四郎兵衛らが、夕闇に紛れ姿を晦ます。
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平盛久:
伊勢守盛国の八男。前に主馬判官と呼ばれた盛国に因んで主馬八郎左衝門といわれる。
承安3年(1173)頃、東寺の灌頂堂を修理し、その成功によって承安4年正月、右兵衛尉に任じられる。その後、年代は不明ながら左衛門尉に任じられる。
盛久は若年より仏心が篤く、仁安2年(1167)、紀伊国牟婁郡の戸張保その他の未開墾地を高野山に寄進。
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源平の合戦を通じて特別の武勲はなかったが、壇ノ浦の合戦後、都に潜入。
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長門本「平家物語」によると、清水寺の阿闍梨・良観に帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立してこれを金堂の内陣の本尊の右脇に安置して貰い、年来の宿願としてこれに千日参りを始める。
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文治2年(1186)、ある下女が盛久を鎌倉方に密告。長門本では、北條時政が鎌倉の代官として都に駐在していた時(文治元年11月25日~2年3月28日)とされているが、左馬頭藤原能保が文治2年3月27日、京都守護となり、鎌倉の代官を勤めた直後が正しいようだ。
密告により、盛久が毎夜、白い直垂を着て、跣で清水寺に詣でていることが判明し、捕縛される。
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鎌倉に護送された盛久に対して、平景時が取調べに当るが、盛久は心中の所願については殆ど陳べなかった。
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平家の重代相伝の家人として盛久は処刑されることになり、命を承けた御家人土屋三郎こと平宗達が、文治2年6月28日、盛久を由比浜に引据え、太刀を抜いて頚を刎ねようとしたところ、刀身が三つに折れてしまう。別の太刀で斬ろうとするが、今度は目釘から折れる。
奇異に感じた宗遠は、清水寺の観音の加護のためか、刀が折れ、盛久の頚が斬れなかった旨を頼朝に言上する。
ちょうどその時、政子は、清水寺辺りに住む墨染の衣を着た老僧が現れ、盛久の斬罪を宥すよう頼んだ夢を見る。
そこで頼朝は盛久を召し、親しく彼に問うこととする。
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頼朝の問いに対して盛久は、清水寺に千手観音像を造立し、千日参りの宿願を立てて詣でていた旨を答える。頼朝の所領のことに関する質問に対し、紀伊国に荘園を所有していたが、平家没官領として頼朝の手に帰していると述べる。
頼朝は、盛久の旧領を彼に返付することを約し、所領安堵の下文を与え、都に帰るため鞍馬1匹を彼に贈る。更に、後白河法皇の法住寺殿を再建する料に充てていた越前国今立郡池田荘(現、池田町)を盛久に与え、その収益をもって法皇の御所を造営させるよう時政に命じる。
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都に入った盛久は、まず清水寺に参って本尊を拝し、良観に事の次第を報告。
良観は、6月28日午の刻、盛久が安置した千手観音像が俄かに倒れ手が折れたので、寺では大変不思議に思っていたが、鎌倉の盛久を救済するためであることが分かったと語る。
都の貴賎はこの話を聞き、新造の千手観音の御利益は、古くからの仏に勝っていると、この新仏を尊んだという。
この観音利生譚は謡曲「盛久」の主題となる。
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虚実が混ざり合っているが、何等かの事情で盛久が放免されたこと、彼が紀伊国に荘園を持ってたことなどは確実と思われる。
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全て下記に依りました。
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平家後抄―落日後の平家〈上〉 (講談社学術文庫)
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鎌倉散歩 稲村ヶ崎から鎌倉駅へ(2) 鎌倉文学館(旧前田家別邸、昭和11年) 長楽寺跡碑 主馬盛久之頸座 レトロな建物たち
稲村ヶ崎から鎌倉駅まで散歩した。
今回は後半の長谷~鎌倉駅まで。
*
長谷から歩くと、まず霜月騒動で得宗専制勢力に敗れた安達泰盛邸跡である甘縄神社近くを通るが、ここは以前に訪問(未掲載ですが)しており今回はパス。
*
次に前から行きたかった鎌倉文学館を訪問する。
角に、古くはなさそうだがレトロっぽく造った牛乳屋さん。
店名を右から読ませる。
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*
文学館前に「長楽寺跡」の碑。
1225年3月、北条政子が頼朝供養のために建てたというが、1333年5月の鎌倉幕府滅亡の際、戦火で焼け落ちる。現在でも長楽寺という地名が残っている。
*
「嘉禄元年三月 二位の禅尼政子 頼朝追福の為 笹目が谷辺に於て方八町の地を卜し 七堂伽藍を営みて長楽寺と号す 元弘三年五月北条執権滅亡の際 兵火に罹りて焼失せりと 此の地即ち其の遺址にして 今に小字を長楽寺と呼べり」
*
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さて、鎌倉文学館へ。
旧前田家別邸、昭和11年竣工。
門を入るとトンネルが。
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館内は写真撮影禁止。
館内からですが、外の景色を一枚パチリと。
ベランダくらい解放したら如何でしょうか?
外はこんなに素晴らしい景色なのに。
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文学館を出て進むと、平盛久の碑が。「主馬盛久之頸座」という。
主馬は、馬や馬具の管理をする役職で、盛久は、平家に仕えた主馬盛国の子。平家滅亡後、盛久は京都に隠れ、清水寺で願を掛けていたのを、時政に捕えられ鎌倉に送られる。
1186年6月、ここで処刑される際、刀が折れたため許され、頼朝から領地までも与えられたという。
*
「盛久は主馬入道盛国の子にして 平家累代の家人なり 然るに平家滅亡の後 京都に潜み 年来の宿願とて清水寺に参詣の帰途 北条時政 人をして召捕へしめ 鎌倉に護送し 文治二年六月 此地に於て斬罪に処せられんとせしに奇瑞あり 宥免せられ 剰へ頼朝其の所帯安堵の下文を給ひしと言う」
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「平家の群像(1) 平家の侍 平盛久」はコチラ
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営業はされていない様子だが、看板が素晴らしい。
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鎌倉彫のお店。
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これは、もとは「何とか銀行」なんだろうか?
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六地蔵
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この手前を右折すると「和田塚」があるが訪問済みのため今回はパス。
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若宮大路にある鎌倉中央食品市場。
テレビにもよく紹介されている。
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「★鎌倉インデックス」 「★歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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今回は後半の長谷~鎌倉駅まで。
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長谷から歩くと、まず霜月騒動で得宗専制勢力に敗れた安達泰盛邸跡である甘縄神社近くを通るが、ここは以前に訪問(未掲載ですが)しており今回はパス。
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次に前から行きたかった鎌倉文学館を訪問する。
角に、古くはなさそうだがレトロっぽく造った牛乳屋さん。
店名を右から読ませる。
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文学館前に「長楽寺跡」の碑。
1225年3月、北条政子が頼朝供養のために建てたというが、1333年5月の鎌倉幕府滅亡の際、戦火で焼け落ちる。現在でも長楽寺という地名が残っている。
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「嘉禄元年三月 二位の禅尼政子 頼朝追福の為 笹目が谷辺に於て方八町の地を卜し 七堂伽藍を営みて長楽寺と号す 元弘三年五月北条執権滅亡の際 兵火に罹りて焼失せりと 此の地即ち其の遺址にして 今に小字を長楽寺と呼べり」
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さて、鎌倉文学館へ。
旧前田家別邸、昭和11年竣工。
門を入るとトンネルが。
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館内は写真撮影禁止。
館内からですが、外の景色を一枚パチリと。
ベランダくらい解放したら如何でしょうか?
外はこんなに素晴らしい景色なのに。
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文学館を出て進むと、平盛久の碑が。「主馬盛久之頸座」という。
主馬は、馬や馬具の管理をする役職で、盛久は、平家に仕えた主馬盛国の子。平家滅亡後、盛久は京都に隠れ、清水寺で願を掛けていたのを、時政に捕えられ鎌倉に送られる。
1186年6月、ここで処刑される際、刀が折れたため許され、頼朝から領地までも与えられたという。
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「盛久は主馬入道盛国の子にして 平家累代の家人なり 然るに平家滅亡の後 京都に潜み 年来の宿願とて清水寺に参詣の帰途 北条時政 人をして召捕へしめ 鎌倉に護送し 文治二年六月 此地に於て斬罪に処せられんとせしに奇瑞あり 宥免せられ 剰へ頼朝其の所帯安堵の下文を給ひしと言う」
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「平家の群像(1) 平家の侍 平盛久」はコチラ
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営業はされていない様子だが、看板が素晴らしい。
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鎌倉彫のお店。
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これは、もとは「何とか銀行」なんだろうか?
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六地蔵
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この手前を右折すると「和田塚」があるが訪問済みのため今回はパス。
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若宮大路にある鎌倉中央食品市場。
テレビにもよく紹介されている。
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「★鎌倉インデックス」 「★歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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2009年12月24日木曜日
湯島・根津・本郷・千駄木(5) 団子坂 高村光太郎旧居跡 宮本百合子ゆかりの地 鷗外の観潮楼
団子坂
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坂周辺には、かつて鷗外、漱石が住み、また高村光太郎、宮本百合子のゆかりの地もある。
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また、「青鞜」発足の地でもあるが、これに関する碑もしくは説明板は、今回見付けることができなかった。多分、工事中であったようだ。
*
団子坂の由来は2説あるという。大石学「坂の町・江戸東京を歩く」(PHP新書)
①人々がよく転ぶ坂であったことから名付けられたという説。
江戸時代の坂は、砂利などで固めたでこぼこ道で。人々はよく転倒し団子のように転がったという。これと同じ理由で「団子坂」と名付けられた坂は江戸時代に3~4ヶ所あったようで、いずれも急坂であった。
②「御府内備考」に「然る處坂際に団子屋多有之候に付、いつとなく団子坂と里俗に相唱候由御座候」と記述されているように、団子坂周辺に団子屋が多くあったからという説。
*
その昔、団子坂は菊人形が有名で、10月~11月には東京中から人が集まったそうだ。明治20年代が最盛期で常設小屋が10数軒あり、呼び込みの男たちが「お代は見てのお帰り」と賑やかだったという。
*
「一行は左の小屋へ這入った。曾我の討人がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫である。その次は雪が降っている。若い女が癪を起こしている。これも人形の心に、菊を一面に這わせて、花と葉が平に隙間なく衣裳の恰好となる様に作ったものである」
「坂の上から見ると、坂は曲っている。刀の切先の棟である。幅は無論狭い」(漱石「三四郎」)
*
「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵書附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める」(鴎外「青年」)
*
今回は、漱石旧宅跡「猫の家」から廻って来たので、坂上から下り、地下鉄「千駄木駅」方向に進む。
**
団子坂上を下る方向の左手に入って行くと、林町の高台に200坪はあったという高村光雲の旧邸宅がある。
子の光太郎は、そこから団子坂を下り、三崎坂を上って上野の美術学校に通っていた。
*
*
その道をほんのもう少し進むと、今度は宮本百合子のゆかりの地が。
同じく父親の旧宅跡で、百合子は幼少時代をここで過ごしたという。
*
*
今度は、坂上まで戻って、反対方向(坂下に向って右側)へ。
そこに鷗外の観潮楼跡が。
但し、この日は休館。
以前の訪問時に中に入ったことがあるので、まあいいか。
*
鷗外は、漱石が「猫の家」に住む10年前のその家の住人で、その後ここに移転。
短歌革新諸派の調停者として観潮楼歌会を主宰。
啄木はしばしばここで最高点をとる。
一葉の才能を見出したのも鷗外。
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そして、元の坂上に戻って、今度は坂を下る。
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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坂周辺には、かつて鷗外、漱石が住み、また高村光太郎、宮本百合子のゆかりの地もある。
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また、「青鞜」発足の地でもあるが、これに関する碑もしくは説明板は、今回見付けることができなかった。多分、工事中であったようだ。
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団子坂の由来は2説あるという。大石学「坂の町・江戸東京を歩く」(PHP新書)
①人々がよく転ぶ坂であったことから名付けられたという説。
江戸時代の坂は、砂利などで固めたでこぼこ道で。人々はよく転倒し団子のように転がったという。これと同じ理由で「団子坂」と名付けられた坂は江戸時代に3~4ヶ所あったようで、いずれも急坂であった。
②「御府内備考」に「然る處坂際に団子屋多有之候に付、いつとなく団子坂と里俗に相唱候由御座候」と記述されているように、団子坂周辺に団子屋が多くあったからという説。
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その昔、団子坂は菊人形が有名で、10月~11月には東京中から人が集まったそうだ。明治20年代が最盛期で常設小屋が10数軒あり、呼び込みの男たちが「お代は見てのお帰り」と賑やかだったという。
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「一行は左の小屋へ這入った。曾我の討人がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫である。その次は雪が降っている。若い女が癪を起こしている。これも人形の心に、菊を一面に這わせて、花と葉が平に隙間なく衣裳の恰好となる様に作ったものである」
「坂の上から見ると、坂は曲っている。刀の切先の棟である。幅は無論狭い」(漱石「三四郎」)
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「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵書附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める」(鴎外「青年」)
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今回は、漱石旧宅跡「猫の家」から廻って来たので、坂上から下り、地下鉄「千駄木駅」方向に進む。
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団子坂上を下る方向の左手に入って行くと、林町の高台に200坪はあったという高村光雲の旧邸宅がある。
子の光太郎は、そこから団子坂を下り、三崎坂を上って上野の美術学校に通っていた。
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その道をほんのもう少し進むと、今度は宮本百合子のゆかりの地が。
同じく父親の旧宅跡で、百合子は幼少時代をここで過ごしたという。
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今度は、坂上まで戻って、反対方向(坂下に向って右側)へ。
そこに鷗外の観潮楼跡が。
但し、この日は休館。
以前の訪問時に中に入ったことがあるので、まあいいか。
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鷗外は、漱石が「猫の家」に住む10年前のその家の住人で、その後ここに移転。
短歌革新諸派の調停者として観潮楼歌会を主宰。
啄木はしばしばここで最高点をとる。
一葉の才能を見出したのも鷗外。
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そして、元の坂上に戻って、今度は坂を下る。
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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