平家の群像(1) 平家の侍 平盛久
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壇ノ浦の合戦は、殲滅戦でないためかなりの平家の軍兵が戦場から離脱・逃亡する。
豊後国の八代宮の神主である七郎兵衛尉こと重安と子の小太郎重茂(シゲトヨ)は、得意の水練で文字(門司)の浦から柳浦まで泳ぎ故郷に帰還。後に七郎兵衛尉は鎌倉に参向して自らの罪科を訴えるが、神主の故をもって罪科を免じられ、更に社領85町も安堵される。
平家の侍たちでは、主馬八郎左衛門こと平盛久、越中次郎兵衛こと平盛嗣、上総五郎兵衛こと藤原忠光、悪七兵衛で知られる藤原景清、飛騨守藤原景家の四男とされる飛騨四郎兵衛らが、夕闇に紛れ姿を晦ます。
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平盛久:
伊勢守盛国の八男。前に主馬判官と呼ばれた盛国に因んで主馬八郎左衝門といわれる。
承安3年(1173)頃、東寺の灌頂堂を修理し、その成功によって承安4年正月、右兵衛尉に任じられる。その後、年代は不明ながら左衛門尉に任じられる。
盛久は若年より仏心が篤く、仁安2年(1167)、紀伊国牟婁郡の戸張保その他の未開墾地を高野山に寄進。
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源平の合戦を通じて特別の武勲はなかったが、壇ノ浦の合戦後、都に潜入。
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長門本「平家物語」によると、清水寺の阿闍梨・良観に帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立してこれを金堂の内陣の本尊の右脇に安置して貰い、年来の宿願としてこれに千日参りを始める。
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文治2年(1186)、ある下女が盛久を鎌倉方に密告。長門本では、北條時政が鎌倉の代官として都に駐在していた時(文治元年11月25日~2年3月28日)とされているが、左馬頭藤原能保が文治2年3月27日、京都守護となり、鎌倉の代官を勤めた直後が正しいようだ。
密告により、盛久が毎夜、白い直垂を着て、跣で清水寺に詣でていることが判明し、捕縛される。
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鎌倉に護送された盛久に対して、平景時が取調べに当るが、盛久は心中の所願については殆ど陳べなかった。
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平家の重代相伝の家人として盛久は処刑されることになり、命を承けた御家人土屋三郎こと平宗達が、文治2年6月28日、盛久を由比浜に引据え、太刀を抜いて頚を刎ねようとしたところ、刀身が三つに折れてしまう。別の太刀で斬ろうとするが、今度は目釘から折れる。
奇異に感じた宗遠は、清水寺の観音の加護のためか、刀が折れ、盛久の頚が斬れなかった旨を頼朝に言上する。
ちょうどその時、政子は、清水寺辺りに住む墨染の衣を着た老僧が現れ、盛久の斬罪を宥すよう頼んだ夢を見る。
そこで頼朝は盛久を召し、親しく彼に問うこととする。
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頼朝の問いに対して盛久は、清水寺に千手観音像を造立し、千日参りの宿願を立てて詣でていた旨を答える。頼朝の所領のことに関する質問に対し、紀伊国に荘園を所有していたが、平家没官領として頼朝の手に帰していると述べる。
頼朝は、盛久の旧領を彼に返付することを約し、所領安堵の下文を与え、都に帰るため鞍馬1匹を彼に贈る。更に、後白河法皇の法住寺殿を再建する料に充てていた越前国今立郡池田荘(現、池田町)を盛久に与え、その収益をもって法皇の御所を造営させるよう時政に命じる。
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都に入った盛久は、まず清水寺に参って本尊を拝し、良観に事の次第を報告。
良観は、6月28日午の刻、盛久が安置した千手観音像が俄かに倒れ手が折れたので、寺では大変不思議に思っていたが、鎌倉の盛久を救済するためであることが分かったと語る。
都の貴賎はこの話を聞き、新造の千手観音の御利益は、古くからの仏に勝っていると、この新仏を尊んだという。
この観音利生譚は謡曲「盛久」の主題となる。
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虚実が混ざり合っているが、何等かの事情で盛久が放免されたこと、彼が紀伊国に荘園を持ってたことなどは確実と思われる。
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全て下記に依りました。
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平家後抄―落日後の平家〈上〉 (講談社学術文庫)
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