2024年5月12日日曜日

長徳2年(996)1月16日夜、伊周と弟隆家、花山法皇を射る(長徳の変、伊周の自滅)  藤原為時(紫式部の父)が、大国、越前国の守に 紫式部も父の越前国への下国に従う 

東京 北の丸公園 
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長徳2年(996)
1月16日
・夜、伊周と弟隆家が謀り、花山法皇を射る(長徳の変、伊周の自滅)。

伊周は故太政大臣藤原為光の娘三の君に通っていたが、四の君には女性好きの花山法皇が通っていた。三の君に通っていると勘違いした伊周は、矢を射かけるふりをして花山法皇を脅すつもりだったのが、法皇の袖を射抜いてしまった(『栄花物語』)。

さらに『小右記』に伝える「右府(道長)消息」では、法皇と伊周・隆家とが故為光邸ではち合わせし、闘乱となり、院の御童子2人が殺害され首を持ち去られたとある。

法皇は朝廷に知らせて犯人を捕えようかと思ったが、事の起こりが女に通った話に始まり体裁が悪いので黙って伏せておいた。
しかし、こういうことはたちまち世間に広まるもので、誰もが知ってしまった。

事件は法皇の軽挙と伊周の誤解によるものとはいえ、太上天皇に矢を射かけることは、どうにも弁解のつかない失策である。
本来ならば急速な処分が行なわれ、道長がこの機に乗じて一挙に伊周を追放するところであるが、道長は非常に慎重であった。法皇からの訴えがないままに、彼はじっくりと構えて調査を進め、万全の体制を整えた。
噂が広まった以上、伊周も隆家も参内する面目はない。
正月25日の大がかりな除目の会議では内大臣伊周の座席は撤去されていた
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正月28日
・この日の除目で、藤原為時(紫式部の父)が、大国、越前国の守に任ぜられた。

実は、この正月25日の除目で、はじめ、源国盛が大国、越前国の守に任ぜられた。
同じ除目で、藤原為時は淡路守と発表された。淡路国は四等級(大上中下)ある国の等級の中で、最下級の下国である。為時は失望して、詩を作り、後宮の女房に頼んで一条天皇に届けた。「苦学の寒夜、紅涙襟(えり)を霑(うる)ほす。除目の後朝、蒼天眼(まなこ)に在り」の秀句があり、天皇は、彼が悲痛の思いを込めた詩に心を打たれたが、既に決定済みのものを変更もできず、気の毒に思うあまりに、食欲もなく引き籠って涙を流した。
天皇の様子を知った右大臣藤原道長(公卿筆頭の地位にある)は、事情を知ると直ちに国盛を召し出して、強引に越前守の辞表を書かせてしまった。

そして28日、国盛の代わりに為時を越前守に任ずると改めて公表された。
為時が待望の越前守を得たのはその詩才の徳であった。一方の国盛は、一家挙げての歓喜は僅か2日で悲嘆に変わった。彼はそのまま病みついて、秋に播磨守に任ずるとの命を受けたが病歿してしまう。

尚、紫式部も父の越前国への下国に従う。

藤原為時:
紫式部の父、中納言為輔(堤中納言、著名な歌人)の孫、天暦初め頃の生まれ、文章生出身。文章博士菅原文時門下の逸材で、花山天皇には東宮時代から近く、即位とともに蔵人式部丞(六位)となり、一条朝にかけて漢文学の中心だった後中書王具平(のちのちゆうしよおうともひら)親王の周辺で文人として名声を高めた。
一条朝を通じて、文人として内裏の宴や作文で詩を賦し、詮子四十賀には屏風和歌を献(たてまつ)っている。
その後寛弘6年(1009)に左少弁、8年に越後守に任じられている。
才能はありながら、累代の儒家でなかったため、出世にはめぐまれなかった。
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2月5日
・道長は検非違使に命じて、伊周の家来の家に精兵が隠れているとの噂があるとして捜索させ、7~8人は逃げたが残る8人を捕える。
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2月11日
・公卿たちが陣に集まっていたところ、蔵人頭が現われ道長に、内大臣伊周・中納言隆家の「罪名を勘(かんが)へよ」との勅命を伝え、「満座傾嗟(けいさ)」した(一座の公卿は、ああ、とうとう来たか、と嘆声を上げた)。
そして量刑は法律の専門家である明法博士に調べさせることになって、暗くなってから一同退出。
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