長徳2年(996)
1月16日
・夜、伊周と弟隆家が謀り、花山法皇を射る(長徳の変、伊周の自滅)。
伊周は故太政大臣藤原為光の娘三の君に通っていたが、四の君には女性好きの花山法皇が通っていた。三の君に通っていると勘違いした伊周は、矢を射かけるふりをして花山法皇を脅すつもりだったのが、法皇の袖を射抜いてしまった(『栄花物語』)。
さらに『小右記』に伝える「右府(道長)消息」では、法皇と伊周・隆家とが故為光邸ではち合わせし、闘乱となり、院の御童子2人が殺害され首を持ち去られたとある。
法皇は朝廷に知らせて犯人を捕えようかと思ったが、事の起こりが女に通った話に始まり体裁が悪いので黙って伏せておいた。
しかし、こういうことはたちまち世間に広まるもので、誰もが知ってしまった。
事件は法皇の軽挙と伊周の誤解によるものとはいえ、太上天皇に矢を射かけることは、どうにも弁解のつかない失策である。
本来ならば急速な処分が行なわれ、道長がこの機に乗じて一挙に伊周を追放するところであるが、道長は非常に慎重であった。法皇からの訴えがないままに、彼はじっくりと構えて調査を進め、万全の体制を整えた。
噂が広まった以上、伊周も隆家も参内する面目はない。
正月25日の大がかりな除目の会議では内大臣伊周の座席は撤去されていた。
*
正月28日
・この日の除目で、藤原為時(紫式部の父)が、大国、越前国の守に任ぜられた。
実は、この正月25日の除目で、はじめ、源国盛が大国、越前国の守に任ぜられた。
同じ除目で、藤原為時は淡路守と発表された。淡路国は四等級(大上中下)ある国の等級の中で、最下級の下国である。為時は失望して、詩を作り、後宮の女房に頼んで一条天皇に届けた。「苦学の寒夜、紅涙襟(えり)を霑(うる)ほす。除目の後朝、蒼天眼(まなこ)に在り」の秀句があり、天皇は、彼が悲痛の思いを込めた詩に心を打たれたが、既に決定済みのものを変更もできず、気の毒に思うあまりに、食欲もなく引き籠って涙を流した。
天皇の様子を知った右大臣藤原道長(公卿筆頭の地位にある)は、事情を知ると直ちに国盛を召し出して、強引に越前守の辞表を書かせてしまった。
そして28日、国盛の代わりに為時を越前守に任ずると改めて公表された。
為時が待望の越前守を得たのはその詩才の徳であった。一方の国盛は、一家挙げての歓喜は僅か2日で悲嘆に変わった。彼はそのまま病みついて、秋に播磨守に任ずるとの命を受けたが病歿してしまう。
尚、紫式部も父の越前国への下国に従う。
藤原為時:
紫式部の父、中納言為輔(堤中納言、著名な歌人)の孫、天暦初め頃の生まれ、文章生出身。文章博士菅原文時門下の逸材で、花山天皇には東宮時代から近く、即位とともに蔵人式部丞(六位)となり、一条朝にかけて漢文学の中心だった後中書王具平(のちのちゆうしよおうともひら)親王の周辺で文人として名声を高めた。
一条朝を通じて、文人として内裏の宴や作文で詩を賦し、詮子四十賀には屏風和歌を献(たてまつ)っている。
その後寛弘6年(1009)に左少弁、8年に越後守に任じられている。
才能はありながら、累代の儒家でなかったため、出世にはめぐまれなかった。
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2月5日
・道長は検非違使に命じて、伊周の家来の家に精兵が隠れているとの噂があるとして捜索させ、7~8人は逃げたが残る8人を捕える。
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2月11日
・公卿たちが陣に集まっていたところ、蔵人頭が現われ道長に、内大臣伊周・中納言隆家の「罪名を勘(かんが)へよ」との勅命を伝え、「満座傾嗟(けいさ)」した(一座の公卿は、ああ、とうとう来たか、と嘆声を上げた)。
そして量刑は法律の専門家である明法博士に調べさせることになって、暗くなってから一同退出。
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◆◇ #光る君へ ギャラリー◇◆
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) May 12, 2024
【第十九回】放たれた矢
本日5月12日(日)
[総合] 夜8時00分
[BS・BSP4K] 午後6時00分
[BSP4K] 午後0時15分
▼あらすじhttps://t.co/8eiq1cYGDH
▼相関図https://t.co/MffNRbrzPh#本郷奏多 #花山院 pic.twitter.com/NTRbilyqz0
長徳の変が起きた頃(996年)の登場人物の年齢(満年齢)
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) May 12, 2024
紫式部(まひろ) 26歳前後
藤原道長 30歳
清少納言(ききょう) 30歳前後
一条天皇 15歳
定子 19歳
藤原実資 39歳
藤原為時 47歳前後
藤原公任 30歳
藤原行成 24歳
藤原斉信 29歳
藤原隆家 17歳
藤原伊周 22歳
花山法皇 27歳#光る君へ pic.twitter.com/s9AEMtscTy
詳細な時期は不明だが、藤原為時は従五位下に叙せられ、諸大夫(中級貴族)の仲間入りをした。諸国の国司である国守・権守となるのもこの階層の貴族たちであり、「受領」とも称せられた。また、宮中の清涼殿への昇殿を許された「殿中人」となる有資格者でもあった。#光る君へ pic.twitter.com/h2f2Xl0V9K
— 令和の土星人。'24@ワクチン4度接種&インフル接種完了 (@4568Ts) May 12, 2024
なるほど!
— Minoru.Noguchi (@rokuhara12212) May 18, 2024
淡路守藤原為時は、なぜ越前守に遷任されることになったのか。
※『京都民報』3114号、2024.02.04 pic.twitter.com/VJPVVsDchc
道長が越前守に為時(紫式部パパ)を推挙した話は今昔物語集にもある。紫式部はまだ彰子に仕えておらず、関わりないはずなのになぜ道長は申文の内容を知っていたのか、なぜ天皇にわざわざ奏上したのか研究者にも不思議がられていたけれど、娘とソウルメイトなら仕方がないという…#光る君へ pic.twitter.com/XsYSgSwTej
— Horikoshi Hidemi (@fmfm_nknk) May 12, 2024
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