2024年5月26日日曜日

長徳2年(996)4月 伊周・隆家に流罪の決定 検非違使が二条邸を包囲(長徳の変)

東京 北の丸公園
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長徳2年(996)
3月4日
・夜、妊娠中の中宮定子は宮中から退出して二条邸に入った。
中宮のお産退出には多くの公卿がお供するのが常例であるが、この日の退出に従ったのは、縁の深い3人だけ、他の公卿は差し支えがあるといって姿を見せなかった。
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3月27日
・東三条院詮子は病気の気味であったが、この日になって、俄かに重くなった。
そして、これは呪詛によるものだ、女院の寝殿の床下から、厭物(ようもつ、人形のようなもの、まじないの物)が掘り出されたなどという噂が立った。
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4月1日
・伏見の法琳寺から、伊周が私(わたくし)に大元帥法(だいげんのほう)を行なわせているとの密告があった。
大元帥法とは密教の修法で、最も重大な秘法であり、臣下がこれを行なうことは絶対に許されないものである。伊周の逃れる術はなくなった。
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4月24日
・暁、宮中の諸門は閉じられ、召集を受けた公卿が参内。
その間、道長は天皇の前で除目を行ない、伊周を大宰権帥に、隆家を出雲権守に左遷すると発表。
直ちに流罪の宣命(詔勅)が作られる。
高階信順(さねのぶ)・道順(みちのぶ)も伊豆と淡路の権守に流された

罪状は、
一、花山法皇を射たこと、
二、東三条院を呪詛したこと、
三、大元帥法をおこなったこと、
の三箇条である。

固関使派遣の手続きがとられ、検非違使に犯人の逮捕・護送の役が割り当てられた。

宮中には朝から馬寮の馬が用意をととのえ、平維叙(これのぶ)・源頼光(よりみつ)などの高名な武者たちも召されて詰めている。東三条院にも近衛府の兵が警備に派遣された。

検非違使は直ちに二条邸を包囲
二条邸には、伊周の妹の中宮定子、伊周、隆家、母の高階貴子、伯父の高階信順(さねのぶ)、道順(みちのぶ)が寝殿に篭っている。信順、道順も、それぞれ伊豆、淡路へ流されることに決している。
二条邸包囲の指揮官、当時第一の法律家、検非違使惟宗允亮は、邸内入って宣命を読み上げ、伊周に出て来るように促す。
中からは病気で動けないとの返事があり誰も出て来ない。
家の戸は全て厳重に閉ざされている。
相手は身分の高い貴人であり、ことに中宮がいるというので、検非違使も踏みこんで行けない。

允亮は使いを走らせて内裏にこの由を報告すると、折り返し、早く捕えよとの命令が来る。
その間、変を聞き、伊周護送の光景を見ようとするやじうまで、二条大路は黒山の人だかり。
処分決定から4日を経ても検非違使は動けなかった
中宮が伊周の手を取って離れないので、手がつけられない。
邸内には検非違使の手下はもとより、やじうままで入りこんで待ち構えていたが、屋内から泣き声が絶えず聞こえ、人々は涙を催した。
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