2024年5月12日日曜日

長徳元年(995)8月29日 藤原行成、蔵人頭に任ぜられる。 三蹟 寛弘の四納言 一条天皇の宮廷に輩出した人材

東京 北の丸公園
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長徳元年(995)
8月29日
藤原行成、源俊賢の推挙により俊賢の後任の蔵人頭に任ぜられる

藤原行成:
師輔の長子、一条摂政伊尹(これただ)の孫。
父義孝は天延2年(974)、兄の学資とともに近衛少将で疱瘡のため急逝。この時行成は3歳で、その後は母方の祖父である源保光の庇護のもとで育ったようだが、伊尹一門は一条朝に入ると活躍することもなく零落の一途であった。
長徳元年(995)には母、ついで祖父中納言保光も没し、行成は出家しようとしたとも伝えられる(『古事談』巻2)。

この年8月28日、蔵人頭権左中弁の源俊賢が参議に任ぜられ、翌日後任の蔵人頭に行成が補せられた。
破格の抜擢人事であった。
行成は当時、位は従四位下、官は前左兵衛権佐、目下は非役という侘しい地位で、先の見込みもないままに出家しようと思ったところ蔵人頭源俊賢がこれに忠告し、慰め励まして思い止まらせた。
そしてその頃、殿上でのある事件で行成は一条天皇の目にとまった。

たまたま殿上の間で、行成と、歌人として有名な藤原実方とが口論となり、昂奮した実方はいきなり行成の冠をつかみ、庭に投げ棄てて行ってしまった。当時の人は人前では冠り物を取らなかったから、これは非常な侮辱であるが、行成は騒がずに召使いを呼んで冠を拾わせ、砂を払って冠り、
「やれやれ、無茶な人だなあ」
と言っただけで、落ち着いたものであった。
ところが、一条天皇が、事の始終を殿上の間と御座所の仕切りの壁にある小窓から覗いてそれを見ていた。
天皇は、実方の乱暴を歌人にあるまじき行為として怒るとともに、行成の態度に注目してこれは見所があると認めた。
そして長徳元年正月の除目で、実方は「歌枕見て参れ」とのことばとともに陸奥守に追い払われ、行成のほうは前任者俊賢の推薦もあって、その年8月、思いがけず蔵人頭に抜擢された。

翌長徳2年(996)には権左中弁に任ぜられ、頭弁となった。
その後長保3年(1001)に参議に昇るまで蔵人頭を6年(通常は2、3年である)も務める。
彼は、生来の実直さを発揮してよく蔵人頭の職責を果たし、以後は順調に昇進した。

彼は、かつて出家しようとした自分を激励し、蔵人頭の後任として推挙してくれた源俊賢の恩に深く感謝し、それから15年後、権中納言として2年間近く俊賢の上位になった期間にも、決して俊賢の上の席にはつかなかったという。

■三蹟
行成は儀式にも通じ、詩文和歌にも優れ、当時第一級の教養人であったが、何といっても彼の本領は書道の達人という点にある。漢字もかなも、柔らかい、のびやかに整った美しい手跡で、小野道風・藤原佐理とともに三蹟と謳われた。天皇をはじめ公卿たちから書を頼まれることは始終記録に見えるし、内裏や諸寺の額を書いたことも数多く知られている。

■寛弘の四納言
鎌倉時代の説話集『十訓抄』(第一)には、
「中にも四納言と聞えしは、斉信(ただのぶ)・公任・俊賢・行成なり。漢の四皓(しこう、隠遁した四賢人)の世に仕へたらむも、此の人々にはいかが優らむとぞ見えける。」
とあり、後代の呼称ではあるが、寛弘の四納言として、藤原斉信・公任・行成それに源俊賢をあげる。

この四納言は、いずれも一条天皇の蔵人頭を務めている。
一条朝初頭、藤原実資が2年ほど蔵人頭を務め、その後任が藤原公任、その後任が源俊賢、俊賢の後任としてこの年に補されたのが藤原行成。そして行成が補任された時の先任のもう一人の頭が藤原斉信であった。

蔵人所は、嵯峨天皇の時におかれた令外官(りようげのかん)で天皇の秘書局のようなもの。検非違使も同じで、正式の官とは異なる、宣旨で補される職(しき)というもので、必ず別に本官を持っている。従って、出世コースの官歴をいう時は蔵人頭は出ないで、本官の中将が出てくるが、蔵人頭は劇職で参議に昇進する前段階の一つであり、中将を兼ねれば頭中将となる。蔵人は天皇の代替りとともに辞すのが例であり、新天皇は新たに蔵人を選ぶ。
天皇の家政機構という面から、個人的信任のある者が選ばれ、天皇が東宮時代の春宮坊官人や東宮蔵人などが蔵人となることが多い。藤原実資は三代の頭を務めたのは異例であるが、それだけ各天皇の信頼が厚かった。

■一条天皇の宮廷には多数の人材が輩出。
大江匡房『続本朝往生伝』には、一条天皇朝の人材輩出の姿を特記して、「時の人を得たるや、ここに盛んなりと為す」と評し、以下20の分野にわたって総計86人の名を掲げ、「皆これ天下の一物なり」と結んでいる。

①親王:具平(ともひら)親王
②上宰(大臣):藤原道長、同伊周
③九卿(公卿):藤原実資、同斉信、同公任、源俊賢、藤原行成ほか三人
④雲客(うんかく、殿上人):源頼定、同相方(すけかた)ほか二人
⑤管絃:源道方、同済政(なりまさ)ほか四人
⑥文士(漢詩文):大江匡衡、同以言(よしとき)ほか八人
⑦和歌:藤原実方、和泉式部、赤染衛門、曾禰好忠ほか三人
⑧画工:巨勢弘高
⑨舞人:大伴兼時、多政方(おおのまさかた)ほか二人
⑩異能(相撲):私宗平(きさいちのむねひら)、越智経世ほか七人
⑪近衛:下野公時、尾張兼時ほか四人
⑫陰陽(おんみよう):賀茂光栄(かものみつよし)、安倍晴明
⑬有験(うげん)の僧(祈祷僧):観修(かんしゆ)ほか二人
⑭真言(密教):寛朝(かんじよう)、慶円
⑮能説の師(説法僧):清範、院源ほか二人
⑯学徳(学僧):源信、覚運ほか四人
⑰医方(医術):丹波重雅、和気正世
⑱明法(法律):惟宗允亮(ただすけ)、同允正
⑲明経(儒学):清原善澄、同広澄
⑳武士:源満仲、平維衡、源頼光ほか二人

⑨~⑪は、近衛府の下級幹部の勤めるもの。左右の近衛・兵衛・衛門という六衛府のなかで、左右の近衛府は最も格が高く、宮城でも最も内側の警衛を勤め、天皇近侍の役所として尊重された。従ってその長官である大将は殆ど摂関家の大臣・大納言で占められることが多く、次官の中・少将も、判官(じよう)の将監(しようげん)、主典(さかん)の将曹(しようそう)、すべて精選の職であった。
近衛府は宮廷の儀式においても常に重要な役割を持っており、舞楽の際の舞人も、殿上人が勤めることも多かったが、それはアマチェアの世界で、彼らに舞を教授し、自分も儀式に舞人を務めるプロ連中は、近衛府を中心とする諸衛府の、せいぜい将監どまりの下級幹部だった。

異能(相撲)は、重要な儀式であった年1回の相撲節に、番付の上位に相撲を取る連中で、これも又全て近衛府の中級・下級の者である。
近衛は、摂関大臣などの高級公卿や、近衛府の上級幹部に授けられる護衛兵、すなわち随身であるが、これも威儀を整え、権威を示すうえに欠くことのできない儀杖兵であった。
関白頼通の随身が盗賊を捕えたとき、頼通は随身が直接手を下すに及ばないこととしてこれを賞しなかったといい、いかに容儀が第一に重んぜられたかがわかる。
これらの随身は技量もあって、馬や弓の上手を選んで任命したが、何よりもそれらの腕ききが厳粛に護衛するというその形が尊ばれた。要するに、戦闘とは縁のない、ショウを本職とする儀伎隊だった。事あるときに警備や戦闘のプロとして出て来るのは、直接衛府の組織に入っていない武士の連中であった。
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