2022年8月25日木曜日

〈藤原定家の時代098〉治承4(1180)10月2日~5日 隅田川渡河後、豊島清元・葛西清重・足立遠元帰順 寒河尼が末子(のちの結城朝光)を連れて参陣 畠山重忠・梶原景時・江戸重長・川越重頼らが参陣

 


〈藤原定家の時代097〉治承4(1180)9月29日~10月1日 頼朝追討軍、ようやく京都進発 頼朝、異母弟全成と対面 葛西清重の説得により江戸重長・畠山重忠・河越重頼ら秩父党有力当主たちが頼朝に参向 より続く

治承4(1180)

10月2日

・源頼朝、大井川(現江戸川)左岸の下総国府を出発し、隅田川の長井の渡(東京都墨田区浅草)を渡り武蔵国に入る。隅田川渡河を葛西清重が助ける。豊島清元(豊島権守)・葛西清重(三郎)・足立遠元(右馬允)、帰順。同日、頼朝の乳母寒河尼(さむかわのあま、八田権守宗綱娘、小山下野大掾政光妻)が末子(14)を連れて参陣、頼朝は烏帽子親として元服式を行い「小山七郎宗朝(のちの結城朝光)」を名乗らせる。

「武衛、常胤・廣常等が舟楫に相乗り、大井・隅田の両河を渡る。精兵三万余騎に及び、武蔵の国に赴く。豊島権の守清元・葛西の三郎清重等最前に参上す。また足立右馬の允遠元、兼日命を受けるに依って、御迎えの為参向すと。今日、武衛の御乳母故八田武者宗綱息女(小山下野大掾政元妻、寒河尼と号す)、慈愛の末子を相具し、隅田の宿に参向す。則ち御前に召し、往事を談らしめ給う。彼の子息を以て、昵近の奉公を致せしむべきの由望み申す。仍ってこれを召し出し、自ら首服を加え給う。御烏帽子を取りこれを授け給う。小山の七郎宗朝(後朝光に改む)と号す。今年十四歳なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二日、辛巳。武衛は常胤・広常等の船に同乗し、大井川・隅田川を渡ったが、軍勢は三万余騎に及んだ。武蔵国に赴くと、豊島権守清元・葛西三郎清重たちが真っ先に参上してきた。また足立右馬允遠元は、前もって命令をうけていたので、そのお迎えにあがったという。今日、頼朝の乳母である故八田武者宗綱の息女〔小山下野大掾政光の妻で、寒河尼と号する〕が、特にかわいがっている末子を連れて隅田宿に参上した。すぐに御前に召し、昔の事についてお話になった。寒河尼は連れてきた子息を頼朝の側近として奉公させたい、と望んだ。そこで頼朝はこの子息を召して自ら元服をさせ、御自分の烏帽子を取ってお与えになった。この若者は小山七郎宗朝と名乗った〔後に朝光と改めた〕。今年十四歳であるという。」。

○遠元。

武蔵国足立郡を本拠とする古くからの源氏の家人。幕府の重臣として活躍。娘2人は畠山重忠と北条時房に嫁す。

○寒河尼(1138保延4~1228安貞2)。

頼朝の乳母の1人。小山政光に嫁す。のちに頼朝から下野国寒河郷と網戸郷を与えられる。

○結城朝光(1167仁安2~1254建長6):

父は小山政光、母は頼朝の乳母だった寒河尼。頼朝挙兵時、大番役で京都にいたため去就を決めかねるが、留守を預かる政光の妻(後の寒河尼)が子の七郎を引き連れ隅田宿に頼朝を訪ね、頼朝が烏帽子親となって七郎を元服させ、名を宗朝のちに朝光とする(「吾妻鏡」治承4年10月2日条)。朝光は頼朝にとっての乳母子であり、近侍する武士の中でも特に重用される。兄朝政ら小山一族が志田義広との戦いに派遣されるが、15歳の朝光は鶴岡八幡宮社頭で戦勝を祈願する頼朝に義広の敗退を予言、頼朝は「尤も神託と為すべし」と感じいったという(「同」養和元年閏2月27日条)。寿永2年(1183)、志太領から下総国結城郡を与えられ結城氏を称す。また、奥州征伐に際し、阿津賀志山の戦いに奮戦し藤原国衡を撃退、一族が北関東から東北に進出うる足場を築く。頼朝が東大寺再建供養に参列の際、警固の鎌倉方の武士と寺院の衆徒との間で騒動が起るが、朝光は頼朝の命を受けて、衆徒らに礼節にかなった態度でのぞみ騒動を見事に鎮める。衆徒らは朝光を「容貌美好、口弁分明」と讃えたという(「吾」建久6年3月12日条)。頼朝没後の正治元年(1199)、梶原景時の讒言を受けるが、逆に多数の御家人が景時を弾劾し、梶原氏は滅亡。承久の乱では東山道大将軍を勤め、嘉禎元年(1235)評定衆に列す。以後、建長6年(1254)に84歳の長寿を全うするまでの間、「関東遺老」(「同」宝治元12月29日条)として幕府に重きをなす存在。

10月3日

・千葉常胤、上総での伊北(イホク)庄司常仲(上総介広常の甥)の反乱鎮圧のため嫡男胤正らを派遣。常仲を討取る。

「千葉の介常胤厳命を含み、子息・郎従を上総の国に遣わす。伊北庄司常仲(伊南新介常景男)を追討し、伴類悉くこれを獲る。千葉の小太郎胤正専ら勲功を竭す。彼の常仲は長狭の六郎が外甥たるに依って、誅せらる所なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「三日、壬午。千葉介常胤は子息や郎従たちに厳命を加えて上総国に派遣し、伊北庄司常仲〔伊南新介常景の息子〕を追討させ、その伴類を悉く捕らえさせた。千葉太郎胤正が特に勲功をあげた。この常仲は長佐(長狭)六郎(常伴)の外甥であるために殺されたという。」。

○常仲(?~1180治承4)。

上総国伊北郡の武士。広常の一族。房総半島における反頼朝派の中心人物として討伐される。その遺領は和田義盛に与えられる。

○常伴(?~治承4)。

安房国長狭郡の武士。房総半島に落ち延びてきた頼朝を討とうとするが、三浦義澄らの先制攻撃によって敗死。

10月3日

・この日付け「玉葉」。

「伝聞、熊野の合戦謬説と。また伝聞、関東の事すでに大事に及ぶと。」(「玉葉」同日条)。

10月3日

・藤原俊成、家族と共に梅小路(藤原長方邸)から高辻京極(姉後白河院京極邸)に移る。

10月4日

・源頼朝軍に、平家方の畠山次郎重忠が参じ、更に梶原景時・江戸重長・川越重頼らが頼朝に下る(畠山・河越・江戸・豊島らの武士は、秩父平氏の流れを汲む武蔵国の有力武士で、前九年・後三年の役以来、河内源氏に従ってきた)。以降、畠山重忠が先陣、千葉常胤が後陣を努める。頼朝、南関東一帯の有力在地武士を殆ど組織。頼朝5万騎。

「畠山の次郎重忠、長井の渡に参会す。河越の太郎重頼・江戸の太郎重長また参上す。この輩三浦の介義明を討つ者なり。而るに義澄以下子息門葉、多く以て御共に候じ武功を励ます。重長等は、源家を射奉ると雖も、有勢の輩を抽賞せられざれば、縡成り難きか。忠直を存ぜば、更に憤りを貽すべからざるの旨、兼ねて以て三浦一党に仰せ含めらる。彼等異心無きの趣を申す。仍って各々相互に合眼し列座するものなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「四日、癸未。畠山次郎重忠が長井の渡で参会した。河越太郎重頼と江戸太郎重長も参上した。彼らは三浦介義明を討った者である。ところが義澄以下の子息や一族は多くが(頼朝の)御供に従い武功に励もうとしている。「重長らは、源家に弓を引いた者であるが、(この様な)勢力の有る者を取り立てなければ目的は成し遂げられないであろう。そこで、忠に励み直心を持つならば、決して憤懣を残してはならない。」と、あらかじめ三浦一党によくよく仰せられた。彼らは異心を抱かない事を申し上げたので、互いに目を合わせ納得して席に並んだ。」。

○重頼(?~1185文治元)。

葛貫能隆の子。河越圧の領主で武蔵国の代表的な武士。妻は頼朝の乳母である比企尼の娘。娘が源義経の正妻となるも、義経が謀反人とされるに及び、連坐して誅殺される。

10月5日

・頼朝、江戸重長に武蔵国内の諸雑事などについて在庁官人および諸郡司らを指揮して沙汰するよう命じ、武蔵国衙および在庁官人の掌握を進めた。重長は、秩父重綱の四男である江戸四郎重継(しげつぐ)の子で、江戸太郎と称した。武蔵国江戸郷(東京都千代田区)を名字の地とする武士である。この頃、武蔵国の有力者で平氏の家人であった畠山重能・小山田有重兄弟は大番役(内裏の警固)のため在京しており、頼朝は重長を武蔵国の棟梁と称している。

「武蔵の国諸雑事等、在廰官人並びに諸郡司等に仰せ、沙汰を致せしむべきの旨、江戸の太郎重長に仰せ付けらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「五日、甲申。(頼朝は)武蔵国の国衙の様々な実務について、在庁官人や郡司らに申しつけて処理するように、江戸太郎重長に仰せつけられた。」。


つづく




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