治承4(1180)
9月29日
・頼朝追討軍、京都進発。5日に宣旨が出ているが、20日以上も経過してからようやく進発。23~29日、侍大将伊藤忠清の指示で逗留(表向きは暦がよくないという理由)。
本当の理由は到着の遅れている軍勢を待つというもの。しかし、京都に逗留した一週間の空費が、東国の形勢を決定的に悪くした。
軍勢の状況;
吉田経房は、富士川の敗戦から帰還した人々から、「兼ねてまた、支度のところ、敢えて付かず、或いは、その身参るといえども、伴類(ばんるい)・眷属(けんぞく)なお伴わず、或いは形勢に従い、逆徒等に従う」(『吉記』)という話を聞いている。朝廷の出陣要請を聞いた諸国の在庁・国侍・地方豪族は、自身は手勢を率いて合流するものの、一族縁者を伴っていなかったり、全く無視した者もいた。
延慶本『平家物語』は、「平家の討手の使、三万余騎の官軍を卒して、国々宿々に日を経て、宣旨を読懸けれども、兵衛佐の威勢に怖て、従付者なかりけり、駿河国清見関まで下りけれども、国々輩一人も従わず」とする。
9月5日付の官宣旨に対する東国の武者の反応は極めて冷淡だった。
□吾妻鏡(前半は頼朝軍のこと、後半は頼朝追討軍のこと)
「従い奉る所の軍兵、当参二万七千余騎なり。甲斐の国の源氏、並びに常陸・下野・上野等の国の輩これに参加せば、仮令五万騎に及ぶべしと。而るに江戸の太郎重長景親に與せしむに依って、今に不参の間、試みに昨日御書を遣わさると雖も、猶追討宜しかるべきの趣沙汰有り。中四郎惟重を葛西の三郎清重が許に遣わさる。大井要害を見るべきの由、偽って重長を誘引せしめ、討ち進らすべきの旨仰せらるる所なり。江戸・葛西、一族たりと雖も、清重貳を存ぜざるに依って此の如しと。・・・今日小松少将関東に進発す。薩摩の守忠度・参河の守知度等これに従うと。これ石橋合戦の事、景親が八月二十八日の飛脚、九月二日入洛するの間、日来沙汰有り。首途すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十九日、戊寅。味方に従う軍兵は、現在既に二万七千余騎である。甲斐国の源氏と常陸・下野・上野等国の者が参れば、おそらく五万騎に及ぶであろう。しかし、江戸太郎重長は、(大庭)景親に味方したということで今になっても来ないので、試みに昨日御書を遣わされた。やはり、追討するのがよかろうと評議があった。中四郎惟重を葛西三郎清重のところに遣わされ、大井の要害で会いたいと偽って重長を誘い出し、討ち取るよう命じられた。江戸と葛西は一族ではあるが、清垂は二心を抱いていないので、このように命じたという。
また、佐那田余一義忠の母のところに特別に使いを遣わされた。これは義忠が、石橋合戦の時、命を頼朝に捧げたことにとくに感じ入られたからである。義忠の幼い息子らは、亡き義忠の所領にいた。しかし、景親をはじめとする相模・伊豆両国の凶徒は、源家にあだをなすあまり、きっと彼らを殺害するであろうとお疑いになり、身の安全を図るため、すぐに今いる下総国に送り届けるよう命じられたという。
今日、小松少将(平維盛)が関東に出陣した。薩摩守(平)忠度・参河守(平)知度らがこれに従ったという。これは、石橋合戦の事を報じた景親の八月二十八日の飛脚が九月二日に入洛したので、このところ審議がなされ、出陣したという。」。
○忠度(1144天養元~84寿永3)。
平忠盛の男。母は鳥羽院の御所に仕えた女房という。武人として知られ、平知盛・重衡らとともに源頼政を宇治に敗死させた。後に薩摩守。
○知度。
平知盛の男。治承3年11月、三河守。
9月30日
・新田義重、頼朝に参向せず、上野寺尾城に籠もり軍兵を集める。藤姓足利俊綱、平氏家人として武蔵国府中の源氏を焼打ち。
「新田大炊の助源義重入道(法名上西)、東国未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥の守が嫡孫を以て、自立の志を挟むの間、武衛御書を遣わすと雖も、返報に能わず。上野の国寺尾城に引き籠もり軍兵を聚む。また足利の太郎俊綱平家の方人として、同国府中の民居を焼き払う。これ源家に属く輩居住せしむが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「三十日、己卯。新田大炊助源義重入道〔法名上西〕は、東国の武士が一揆して挙兵する以前に、故陸奥守(義家)の嫡孫であることから、自立の志があり、武衛が御書を送られたのに返事がなかった。上野国の寺尾城に立て寵もり、軍兵を集めた。また、足利太郎俊綱は、平家方として上野国の府中の民家を焼き払った。これは、源家に属するものが住んでいたためである。」。
○義重(1136保延2~1202建仁2)。
源義国の男。母は上野介藤原敦基の娘。新田太郎。上野国新田庄を知行し、新田氏の祖となる。
○俊綱(?~181養和元)。
足利家綱の男。藤姓足利氏。
10月1日
・頼朝、隅田川から一旦舟橋の東の鷺沼(習志野市鷺沼)宿に到着、多くの武士が駆けつける。異母弟の醍醐寺禪師全成(義経の実兄)と対面。秩父党の同族葛西清重の説得により、江戸重長はじめ畠山重忠・河越重頼ら秩父党有力当主たちが頼朝に従うことを決めたため、隅田川に戻る。石橋山以来分散した人々や付近の武士が頼朝軍に参向し3万騎となる。
「甲斐の国の源氏等、精兵を相具し競い来たるの由、駿河の国に風聞す。仍って当国目代橘の遠茂、遠江・駿河両国の軍士を催し、奥津の辺に儲くと。石橋合戦の時分散せしむの輩に於いては、今日多く以て武衛の鷺沼の御旅館に参向す。また醍醐の禅師全しむの輩に於いては、今日多く以て武衛の鷺沼の御旅館に参向す。また醍醐の禅師全成、同じく合儀有り。・・・武衛泣いてその志に感ぜしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「一日、庚辰。甲斐国の源氏たちが精兵を連れて競って急ぎ向かって来るという噂が、駿河国に伝わってきた。そこで駿河国の目代である橘遠茂は遠江と駿河の両国衙の軍士を集めて、興津の辺りに陣を構えたという。今日、石橋山の戦いで散り散りになった者たちの多くが、武衛の鷺沼の宿所に参向してきた。また醍醐禅師全成も同じくお越しになり、「以仁王の令旨が下されたということを京都で伝え聞き、密かに醍醐寺を出て、修行の身を装って下向してきました。」と申された。頼朝は涙ながらにその志に感謝されたという。」。
○遠茂。
平宗盛の知行国駿河国の目代。系譜等は不明。源氏との戦いに敗れ処刑されたと思われる。子息に為茂がある。
「伝聞、去る月晦の比、熊野の湛増の館にてその弟湛覺攻戦す。相互に死者多し。未だ落ちずと。また近江の国住人の中、召さるるの者有り。相禦の間度々合戦すと。凡そ近日在々所々、乖背せざると云うこと莫し。武を以て天下を治むの世、豈以て然るべきや。誠に乱代の至りなり。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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