2022年11月12日土曜日

〈藤原定家の時代177〉寿永3/元暦元(1184)年2月18日~20日 頼朝、諸国検断権を得る 義経を京都に置き、梶原景時・土肥実平・大内惟義・豊嶋有経・橘公業・大井実春を畿内近国・西国に置く 維盛の屋島出奔    

 


〈藤原定家の時代176〉寿永3/元暦元(1184)年2月8日~16日 義経・範頼、凱旋 平氏諸将の首の大路を引き渡し・獄門 捕虜となった重衡と神器との交換 望まれる頼朝の上洛 より続く

寿永3/元暦元(1184)年

2月18日

・頼朝、使者を京都に派遣し、京都警固以下のことを命じ、また、梶原景時土肥実平に専使を派遣させ、播磨・美作・備前・備中・備後の山陽道五ヵ国を守護させる(『吾妻鏡』2月18日条)。

頼朝が京都に派遣した使者は、義経への使者で、義経に京都警固以下のことを命じた(頼朝の在京代官)。それは義経の在京(京都駐屯)を意味した。景時と実平は義経を補佐する頼朝の代官であり、山陽の五ヵ国は、一ノ谷合戦で敗れるまでは平氏が占領していた諸国で、平氏の敗戦により朝廷が奪還し、頼朝の沙汰が及ぶことになった。

頼朝の権限が義経ら代官を通じて、畿内近国や西国にまで及ぶことになった。

この後、3月~5月、伊賀に大内惟義、紀伊に豊嶋有経(ありつね)、讃岐に橘公業(きみなり)、因幡に大井実春、時期不明ながら但馬に横山時広が配置される。

「武衛御使いを京都に発せらる。これ洛陽警固以下の事仰せらるる所なり。また播磨・美作・備前・備中・備後、已上五箇国、景時・實平等、専使を遣わし守護せしむべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。 

2月18日

・頼朝の申請に沿って宣旨下る。諸国の武士らが「自由の下文」を発し、荘園・公領で濫行を働いているので、頼朝にこれら行為の調査・処断を命じる。頼朝は、全国武士の違法の調査を処断する権利(諸国検断権)を得る。

「壽永三年二月十八日宣旨 近年以降、武士の輩皇憲を憚らず、恣に私威を輝かし、自由の下知を成す。諸国七道を廻り、或いは神社の神税を押し黷し、或いは仏寺の仏聖を奪い取る。況や院宮諸司及び人領をや。天の譴遂に露れ、民の憂い空しきこと無し。自今以後、永く停止に従い、敢えて更然すること莫れ。前事を存じ、後輩慎むべし。もし由緒有るに於いては、散位源朝臣頼朝子細を相訪ね、官に触れ言上せよ。行旨を道ぜず、猶違犯せしめば、専ら罪科に処し、曽って寛宥せず。 蔵人の頭左中弁兼皇后宮の亮藤原朝臣光雅(奉る)」(「吾妻鏡」3月9日条)。 

これに伴い頼朝は、鎌倉殿御使・惣追捕使・守護・地頭(軍政官として)の名目で各国荘園に御家人を派遣し、彼らに検断権を実行させる。守護制度の前身。義経には平氏追討と併せ、畿内近国での検断が託される。「守護人」豊島有経が紀伊へ派遣、義経の命をうけ兵糧米徴集。梶原景時は「惣追捕使」としてに播磨・美作に派遣、土肥実平は「惣追捕使」として備前・備中・備後に派遣。伊賀へは源氏の一族大内惟義が「守護」として派遣。比企朝宗は「鎌倉殿勧農使」として北陸道方面へ派遣。範頼、鎌倉へ戻る。土肥実平・土肥遠平、橘兼隆・光家と結託し備後大田荘の院御厨を押領。

2月19日

平維盛(28)30艘程を率い屋島より出奔、資盛(27)等は豊後で生け捕られたとの風聞(「玉葉」)。

平宗親(宗盛の養子)、維盛と共に紀伊~高野山入り。維盛退去後も高野山に留まり修行。残党狩りの手は及ばず。

「伝聞、・・・渡さる首の中、教経に於いては一定現存すと。また維盛卿三十艘ばかりを相卒い南海を指し去りをはんぬと。又聞く、資盛・貞能等、豊後の住人等の為生きながら取られをはんぬと。この説、日来風聞すと雖も、人信受せざるの処、事すでに実説と。」(「玉葉」同日条)。 

宗盛や時子が「此人は池の大納言のやうにふた心あり」と警戒して疎外したのが、維盛入水の一因だという(巻10「高野巻」)。『右京大夫集』では熊野の海岸で入水したと伝えている(216番歌)。中世以来、南方の海上にあるという観音の浄土、補陀落(ふだらく)世界へ往生しようとする信仰があり、その地と見なされた熊野那智では、舟に乗って那智の浜などから出帆する形のほか、維盛のような入水往生も多かったといわれる。

『源平盛衰記』が伝える「或る説」には、那智の山伏らが維盛を憐れんで、滝の奥の山中に隠し置いたので、生き延びたとある。この伝承は『太平記』にも引かれ(巻5「大塔宮熊野落事」)、江戸中期の浄瑠璃「義経千本桜」の吉野の鮓屋(すしや)弥助までつながってゆく。

別の「或る説」よると、維盛は熊野三山の参詣を無事にすませ、逃れ切ることはできないと考え、後白河に助命を嘆願。法皇が不憫に思って頼朝に伝えると、頼朝は人物を判断するため維盛をこちらに下すよう答え、その旨を法皇が伝えた。承った維盛はその後飲食を絶ったが、21日目、鎌倉に到着する以前に相模の湯ノ本の宿で餓死したという。以上の記事は権中納言藤原長方の日記『禅中記』に見えると書いている(第40「中将入道入水事」)。

『平家物語』巻10「横笛の事」には、小松三位中将維盛は、身柄は屋島にありながら、心は京都の妻子に通わし、あるに甲斐なきわが身かな、と寿永3年3月15日の暁に、与三兵篠重景と石童丸の2人を連れてひそかに屋島の屋形をまざれ出で、阿波国結城の浦より船に乗り鳴門の沖を過ぎて紀伊に赴いた、とある。『玉葉』では、30艘の船を引き連れて、とある。


維盛の足跡は『平家物語』による以外には分らない

それによれば京都へ戻ることを断念した維盛は紀伊の港から高野山に登り、そこで斎藤滝口入道時頼を尋ねて会い、彼について出家、従者の重景・石童丸も髪を剃る。

そして、維盛は従っていた舎人武里ともども山伏修験者の姿で高野山をたち、藤代の王子をはじめ諸所の王子社を拝しながら熊野の本宮・新宮を経て那智山に参り、郵智籠(ごも)りの僧たちと別れを惜しんだ後、浜の宮から一葉の船に乗る。そして沖合にある山成島(やまなりしま)にこぎ寄せ、その島に上り、大きな松の木を削って、それに名跡を書きつける。

祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海(じようかい)、親父(しんぶ)小松の内大臣の左大将重盛公法名浄蓮(じようれん)、三位の中将維盛法名浄円(じようえん)、年二十七歳。寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す。

そして再び船に乗って沖へこぎ出し、西方に向って手を合せ、念仏を唱える。しかし、妻子への断ち難き恩愛の情が念仏を止めさせてしまう。「あはれ、人の身に、妻子と云ふものをば、持つまじかりけるものかな。今生(こんじよう)にて物を思はするのみならず、後世(ごぜ)菩提の妨げとなりぬる事こそくらをしけれ。たゞ今も思ひ出でたるぞや」、と嘆き、弱くなる心を聖(滝口入道)に訴える。これに対して、聖は、早晩別れねはならぬ妻子への恩愛を断ち、往生極楽を信ずるようにと説きつつ、鐘を打鳴らし、念仏を勧めたので、維盛も妄念を翻し、西方に向って手を合せ、高声(こうじよう)に念仏百返ばかり唱えた末、「南無」と唱える声と共に、縦に飛び入った。ついで与三兵衛重景・石童丸も称名しつつ、入水したという。舎人武里もこれに続こうとしたが、これは聖に止められる。

2月19日

・重衡への尋問の中で、兼実が「天下を知るべきの由(よし)」を平氏が議定(ぎじよう)していた、という話が出てきた。この話を受けて、尋問者は重衝に「若しくは音信を通ずる事有るか」と問う。兼実は平氏と示し合わせていたのではないかと疑われている。重衝は、「そのようなことは一切ない。ただ(ほかに)人がおらず、兼実のみが適任者なのだ」と語り疑惑は打ち消された(「玉葉」2月19日条)。基通が寝返っていたので、京都奪還後の構想について兼実を頼りにしたということか。

2月20日

・重衡が屋島の宗盛に出した書状の返事が届く。ここには、7日の一の谷の合戦が、院宣によって誘き出された平氏が不意打ちされたものとの説明。

和平交渉があるので軍を進めぬようにとの通告あり、関東武士にも命じているとの院宣が到来し、その院宣を守り院使の到来を待っていたところ、突然、関東武士の攻撃があった、と述べる。

「去る六日修理権大夫書状を送りて云く、和平の儀有るべきに依って、来八日出京、御使として下向すべしと。勅答を奉り帰参せざるの以前、狼藉有るべからざるの由、関東の武士等に仰せられをはんぬ。またこの旨を以て、早く官軍等に仰せ含めしむべしてえり。この仰せを相守り、官軍等本より合戦の志無きの上、存じ知るに及ばず。院使の下向を相待つの処、同七日、関東の武士等叡船の汀に襲来す。院宣限り有るに依って、官軍等進出すること能わず。各々引退すと雖も、彼の武士等勝ちに乗り襲い懸かり、忽ち以て合戦す。多く上下の官軍を誅戮せしむか。この條何様に候事や。子細尤も不審。若しくは院宣を相待ち、左右有るべきの由、彼の武士等に仰せられざるか。将又院宣を下せらると雖も、武士承引せざるか。若しくは官軍の心を緩めんが為、忽ち以て奇謀を廻らさるか。倩々次第を思えば、迷惑恐歎す。未だ蒙霧を散ぜず候なり。自今以後の為、向後将来の為、尤も子細を承り存ずべく候なり。・・・

平家と云い源氏と云い、相互の意趣無し、平治信頼卿反逆の時、院宣に依って追討するの間、義朝朝臣その縁坐たるに依って、自然事有り。これ私の宿意に非ず。・・・然れば頼朝と平氏と合戦するの條、一切思い寄らざる事なり。・・・この五六年以来、洛中城外各々安穏ならず。五幾七道皆以て滅亡す。偏に弓箭甲冑の事を営み、併しながら農作乃貢の勤めを抛つ。茲に因って都鄙損亡し、上下飢饉す。一天四海、眼前煙滅・無双の愁勤めを抛つ。茲に因って都鄙損亡し、上下飢饉す。一天四海、眼前煙滅・無双の愁上下歓娯なり。就中合戦の間、両方相互に命を殞とすの者、幾千万を知らず。疵を被るの輩楚筆に記し難し。罪業の至り、喩えに取るに物無し。・・・今に於いては早く合戦の儀を停め、攘災の誠を守るべく候なり。和平と云い還御と云い、両條早く分明の院宣を蒙り、存じ知るべく候なり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。 


つづく

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