2022年11月11日金曜日

〈藤原定家の時代176〉寿永3/元暦元(1184)年2月8日~16日 義経・範頼、凱旋 平氏諸将の首の大路を引き渡し・獄門 捕虜となった重衡と神器との交換 望まれる頼朝の上洛    

 



寿永3/元暦元(1184)年

2月8日

・関東の両将、摂津より京都に、昨日一谷で合戦、大将9人梟首、その外の誅戮1千余と連絡(「吾妻鏡」同日条)。 

前日(合戦当日)の夜半に、まず梶原景時の飛脚により合戦の報、京に届いている。

8日、範頼・義経から合戦の報、京に届く。

〈2月7日付けの「吾妻鏡」〉

「寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。源氏の先陣たるの由、高声に名謁るの間、飛騨三郎左衛門の尉景綱・越中次郎兵衛の尉盛次・上総五郎兵衛の尉忠光・悪七兵衛の尉景清等、二十三騎を引き、木戸口を開きこれに相戦う。熊谷の小次郎直家疵を被る。季重郎従夭亡す。その後、蒲の冠者並びに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競い来たる。源平の軍士等互いに混乱す。・・・九郎主三浦の十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す。或いは馬に策ち一谷の館を出る。或いは船に棹さし四国の地に赴く。本三位中将重衡、明石浦に於いて、景時・家国等が為生虜らる。越前三位通盛湊河の辺に到り、源三俊綱が為誅戮せらる。その外、薩摩の守忠度朝臣・若狭の守経俊・武蔵の守知章・大夫敦盛・業盛・越中の前司盛俊、以上七人は、範頼・義経等の軍中に討ち取る所なり。但馬の前司経正・能登の守教経・備中の守師盛は、遠江の守義定これを獲ると。」(「吾妻鏡」7日条)。

2月9日

・義経・範頼、凱旋。

2月9日
・生け捕られた平重衡(29)入京、六条大路を引き廻され義経の六条室町第に監禁。
10日、重衡、剣璽奉還の仲介を申請(「玉葉」)。
15日、天皇と神器の還御を求める後白河の意向を屋島に伝える。重衡の提案を受けた院の使いは、21日に宗盛のもとに着き、返書は26日、27日頃に京都に届く。

〈重衡と神器との交換〉

『吾妻鏡』では14日、院の命で右衛門権佐藤原定長に尋問されることになったとあるが、事実はすでに10日に定長の尋問を受けている。定長は、重衝にとって以前は歯牙にもかけなかった人物であるが、まるで罪人が冥土で閤魔庁の役人に逢ったような気になったという。定長は五位であったから蘇芳(すおう)色の袍(ほう、束帯の上着)を着ており、赤系統の服色が閣魔庁の役人の着衣を連想させたからである。

『平家物語』語り本系諸本では、後白河が三種の神器の返還とひきかえに重衡の身柄の解放を提案し、重衡もこれに同意し、郎従の左衛門尉重国を屋島の宗盛のもとに派遣したとある。

しかし『玉葉』では2月10日、重衡が自分から、「書状に我が郎従を添えて屋島の宗盛のもとに送り、剣璽をもらい受け進上したい」と提案したとあり、定長は、成功しないだろうが申請にまかせ院のお目にかけよう、と兼実に語っている。

重衝が自らの解放を交換条件にしたかどうか、『玉葉』には記されていない。三種の神器を有してこそ平家や安徳天皇の正統性も主張できるのであり、それを自ら手放すなど大局を見誤った判断である。重衡もそれはわかっていただろうが、平家の軍事力が回復不能な打撃を受けたことを誰よりもよく知っていた彼は、和平の機会はいまが最後、と考えたのかもしれない。

『平家物語』が、重衡と神器の交換を院の意志としたのは、神器を返して重衡を助けよという時子の愁嘆を描き、それを宗盛が制することによって、なお平家に継戦の意志ありという筋書きにしたかったのではないか、といわれている。覚一本は、知盛が「たとえ三種の神器を都へ返しても、重衡が返されるのはむずかしかろう」という現実的な判断を述べ、それが宗盛の決断の支えになったと記す(巻10「講文」)。知盛のこの意見は読み本系には見えない。

2月11日

・範頼・義経、朝廷に平氏の首(通盛・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊ら)の大路渡を要請。摂関・大臣は、平氏は長く朝廷に仕えており、また、義経は私怨を晴らそうとするものでるとして反対。

13日、義経らの強硬な申し出に折れ、朝廷は大路引きまわしを許す。この日、平氏方の首、義経の六条室町邸に集められ、八条河原に迄引きまわされ、晒される。源氏軍(範頼らも)はいったん鎌倉に凱旋(義経は京都に残留)。

一ノ谷合戦で源氏が完全に勝利を得てからは、中央政界でも頼朝の評価は高まり、それまで源平の争覇の圏外に立つことを望んでいた法皇及び院政当局者たちも、いまや全面的に頼朝以下の源氏勢力と協調せざるを得なくなった。合戦で討ち取られた平氏の諸将の首を「大路を引き渡し、獄門にかける」ことを要求されたとき、法皇以下、公卿たちの多くは、平氏がかつて高位高官にあった人々であるという理由と、そのことによって、いまなお神器を擁している平氏側を刺戟するであろうことを恐れたため、これに反対した。しかし範頼・義経が再度これを強く要求したため、法皇も結局は、その要求を容れざるを得ず、平氏の首の獄門が実現した。

2月11日

・松殿基房、頼朝に使者を派遣し、自分を摂政に推挙するよう働きかけたという。但し、後白河は摂政は兼実が適任と考えていたらしい。このような状況下で基房は、兼実が摂政になったなら、以後、摂政はその子孫に伝えられ、自分の子孫には回ってこなくなる、と焦燥感に駆られていた(「玉葉」2月11日条)。

しかし、結局、ここでは兼実も基房も摂政になることはなかった。後ろ盾を失ったはずだった基通が留任した。平氏都落ち直前、基適が後白河と男色関係を結び、以後、後白河に深く寵愛されるようになっていた。

2月11日

・「また聞く。平氏の許に書札を遣わし、音信を通すの人、勝計うべからず。王侯卿相・被官・貴賤上下、大都洛人残る輩無し。就中、院の近臣甚だ多しと。」(「玉葉」同日条)。 

2月13日

・平重衡、八条堀河堂に移され土肥実平の監視下におかれ、院近臣右衛門権佐藤原定長の尋問をうける。

14日、郎党の左衛門尉平重国を使者として屋島の前内大臣宗盛に私信を出し、源氏との和親と神器返還を求める(「平家物語」)。

2月14日

・平通盛室の小宰相、入水(「平家物語」)。

2月15日

・鎌倉に義経・範頼からの戦勝報告が到着(「吾妻鏡」同日条)。

2月15日

・平重衡、帝と神器奉還の書を屋島(宗盛)へ送る(「吾妻鏡」2月20日)。

2月16日

・源雅頼が兼実のもとに来て、4月には頼朝も上洛するだろうと伝えた。それは頼朝の代官として在京していた中原親能を後白河の使者として東国に派遣したことからの予想であるが、親能に対して後白河は、もし頼朝の上洛が適わないならば、自らが東国に赴くことを伝えたという。兼実は、「この事ほとんど物狂い、おおよそ左右(とこう)能(あた)はず」とあきれる(『玉葉』2月16日条)。兼実にしても、義仲追討直後の後白河からの諮問に、早く頼朝に上洛するよう命じるべきだと回答していた(『玉葉』正月22日条)。


つづく

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