2024年4月30日火曜日

大杉栄とその時代年表(116) 1894(明治27)年7月25日~31日 大島混成旅団、龍山から牙山に向けて南進 漱石、小屋保治に宛てて伊香保に来ないかと誘う 朝鮮政府の甲午改革 成歓の戦い(陸戦の緒戦) 日本軍、牙山占領 対清国交断絶     

 

「大日本帝國萬々歳 成歡襲撃和軍大捷之図」水野年万画

大杉栄とその時代年表(115) 1894(明治27)年7月20日~25日 日本軍、王宮(景福宮)に侵入 第3次大院君執政(傀儡政権)樹立 大院君、大鳥公使に対し牙山の清国軍の撤退を依頼(日本は清国軍攻撃の口実を得る) 新聞論調は開戦一色 豊島沖海戦(布告なしの日清開戦) より続く

1894(明治27)年

7月25日

朝鮮、龍山駐留大島混成旅団3,100(大島義昌少将)、牙山の清軍に対して南進開始。糧食・軍需品輸送の手段を持たず、各人は携帯した1日分の食糧のみで出発。古志正綱少佐率いる大隊は人馬徴発に失敗し予定の出発できず、古志大隊長は引責自殺。

26日、水原着。27日、振威着。28日午前4時、振威発。8時30分、素沙場着。28日夜半12時、左翼隊・本隊が素沙場発。29日午前2時右翼隊(武田中佐指揮)が素沙場発。

7月25日

朝鮮政府、清国・朝鮮宗属関係の破棄を宣言(「清朝商民水陸貿易章程」「奉天貿易章程」「吉林貿易章程」廃棄)、牙山の清国軍撤退を大鳥圭介公使に依頼。

7月25日

漱石は伊香保温泉に行き、松葉屋旅館に宿泊。

夜、小屋保治に手紙を書き、伊香保に来ないかと誘う。


「七月二十五日(水)、午前七時二十五分発前橋行で、上野停車場から伊香保に向う。(前橋着は十一時十分)午後六時頃到着する。小暮旅館(小暮武太夫)に行ったが、満員なので、小暮旅館から紹介された萩原旅館(松薬屋 萩原重作(朔))に泊る。夜、小屋(大塚)保治(群馬県南勢多郡木瀬村大字笠井)宛に、北向き六畳で部屋から見る風光はよい、但し浴室は汚い、遊びに来ないかと誘いの手紙を出す。(小屋(大塚)保治が来訪したかどうかは分らぬ)」(荒正人、前掲書)


(略)室は北向の六畳にて兼て御話しの山光嵐色は戸外に出でなくとも坐して掬すべき有様に少しは満足致候然し浴室抔の汚なき事は余程古風過ぎて余り感心仕りがたく候然し汚なき事は伊香保の特色ならんかとあきらめ居候(未だ市街は散歩せざれども)家屋は総体こけらぶきにて眼界の三分一は此不都合な茶褐色の屋根板の為めに俗了被致候かゝる処に長居は随分迷惑に御座候へども大兄御出被下候はば聊か不平を慰すべきかと存じ夫のみ待上候願くは至急御出立当地へ向け御出発被下度願上候也余は後便に譲る

七月二十五日夜 夏目金之助

小屋様


小屋保治が伊香保に行っかどうかは不明だが、実直な小屋は伊香保に向かった可能性は高く、そこで二人の間で楠緒子養子問題が語られ、決着が図られたかもしれない。


「保治が楠緒子に対する愛を『心』のKのように打ち明けたか、漱石が『それから』の代助のように譲ることになったのか。とにかく何かが起ったのである(小坂晋『漱石の愛と文学』)


7月29日付け、斎藤阿具の日記


(明治二十七年)七月二十九日、夏目氏伊香保ヨリ書面ヲ送ラレタルヲ以テ、本日返書ヲ出ス

7月26日

天皇、27日の大本営御前会議(週2回開催)より伊藤首相の出席を求める。政戦両略不一致解消のため。

7月27日

朝鮮、甲午改革

軍国機務処(臨時の政府代行機関)設立。領議政金弘集兼任。金允植・趙義淵・金嘉鎮・安駉羽ら開化派。内政改革に着手。12月9日廃止迄の4ヶ月間に208件の新法令議決・公布。31日開国紀元使用決定。8月10日租税金納制、銀行設立決定。11日社会改革案23項目・財政経済改革案6項目公布。銀本位制実施・度量衡統一。

7月27日

この日より、伊藤首相、財政・外交政略上から大本営列席の特例参加が認められる。政戦両略一致を追及。

初め天皇が戦費処理の為に、伊藤首相の大本営列席を求める。伊藤は、首相の「職掌上の関係は独り経費而己に無之、外交政略上に於ても、軍事の動作詳悉不被成ては、外国政府との交渉に差支可申」と、財政・外交政略の両面で大本営列席が必要とし、特例参加。

7月27日

この日付け「東京朝日」。

「開戦の機すでに迫る。我より進みて働きかけの処置に及ぶこと論を俟たず。しからば我はいかなる方向に向かって発動せんか。取りあえず始末をつけざるべからざるは牙山の清兵なり。京城より水原を経て牙山に進み、一挙にして彼を塵にすること、巌石をもって卵子を圧するに斉しきのみ、・・・我が兵ひとたび動くにおいてはまず向う所は牙山なるべしといえり」。

この日付け「時事新報」。清兵が集結する朝鮮牙山への進撃を希望。

「今日に到りては押し問答は無益なり。一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦いを開くにしかざるなり・・・直ちに開戦を布告して、もって懲罰の旨を明らかにすると同時に、彼支那人をして自ら新たにするの機を得せしむるは、世界文明の局面において大利益なるべし」

7月28日

大井憲太郎(51)、横浜・港座での日清事件政談演説会で演説。

7月29日

成歓の戦い(陸戦の緒戦)

清国軍は、牙山に葉志超提督率いる部隊が駐屯し、牙山から漢城寄りに位置する成歓にも全州から移動してきた聶士成提督の部隊が陣を構えていた。

牙山に向けて進軍する日本軍が成歓に到達し、成歓駅付近で日清間で最初の陸戦が起きまる。

27日、「愛仁」「飛鯨」の清軍第1次増援隊、牙山着(同時に第2次増援隊の海没の報)。清軍は南下する日本軍との決戦を避け、主力の総兵聶士成率いる2千で成歓を防衛、提督葉志超1,500は公州に収容陣地を設営。

29日深夜、大島混成旅団3千は、左右に分かれ、成歓の清軍を夜襲。右翼支隊は清国軍主力を牽制し、本隊が主陣地を攻撃。2時間で月峰山陣地を突破。3,400を壊走させる。聶総兵は公州へ撤退。清軍損害200余・日本軍82。清国軍は敗走しながら反撃し、安城の陸戦(安城の渡しの戦い)で歩兵21連隊のラッパ手木口小平二等兵戦死。

旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた。

葉提督は敗兵を纏め、1ヶ月かけて平壌に辿り着き平壌守備軍総統に命ぜられるが、敗北経験が以降の作戦指導に影響。

7月29日

福沢諭吉「日清戦争は文明と野蛮の戦争なり」、

勝利のためには「内に如何なる不平不条理あるも、これを論ずるにいとまあらず」

(「時事新報」)。

7月29日

仏、凶悪犯法制定。政府による弾圧・予防措置。

7月30日

朝鮮、日本軍、牙山占領

成歓陥落後、日本軍はさらに牙山に向かって進むが、葉志超提督の部隊は、この地が山間部であり守りが困難な地形であることからここでの戦闘を避け、既に移動した後であった。

31日午前4時、牙山発。8月3日午前6時、水原着。

5日午前8時半、漢江渡河。漢城入城、凱旋式。

7月30日

清国総理衙門、駐清各国公使に日本が国際法をおかして開戦、開戦責任は日本にあると説明。

31日、小村臨時代理公使に国交断絶通告

7月30日

29日、豊島沖海戦の報が大本営に入り、この日、大本営は野津道貫第5師団長に作戦大方針を示し、師団残留部隊の朝鮮輸送を開始。

7月30日

11月30日。一葉、『文学界』第19号、21号、23号の隔月に「やみ夜」を発表。


荒れ果てた広大な屋敷の女主人、松川蘭は25歳の美人。年老いた下男夫婦に守られての1人住まい。ある夜門前で伴にひかれて運びこまれた若者は、行き倒れ同然の浮浪者、高木直次郎。お蘭と老夫婦の温情に助けられ、窮迫と孤独を癒すうち、女菩薩とも思うお蘭の父が、投機の失敗の詰腹を切らされ、屋敷内の古池に入水自殺したことを知る。お蘭はその父の援助で衆議院の年少議員となった許婚者の波崎にも背かれ、女夜叉の心になっている。

直次郎をひき逃げした俥は、松川の屋敷前の素通りに急きたてられた波崎のもの。お蘭への愛にも、その将来にも希望のない直次郎がそれを知って屋敷を去ろうとすると、お蘭は、自分を妾にしようと企てている波崎への復讐を示唆。直次郎は刺客となって波崎を襲うが、果たせず、行方不明となり、松川の屋敷も人手に渡り、お蘭の行方もわからぬまま。

お蘭の不幸は、出世や儲けのために他人を犠牲にしてはばからない権力者や政商によるものであり、直次郎の不幸は、早くに親を失い世間に捨てられたことによる。一葉が龍泉寺町で書いた「琴の音」の、美人と浮浪者という組み合わせを、ここではより社会的な存在として位置づけ、それぞれの生い立ちや心情に、物語性とリアリティーを加えていることに注目される。

「やみ夜」は、屈折した恋心をからませてはいるが、堕落した政治に対する抗議を盛りこんだ社会小説ともいうべき内容でもあった。しかし「文学界」の青年作家たちは、「やみ夜」から、むしろ女性としての一葉を読んだ。それまで器用な作家とのみ考えていた一葉を、あらためて女性として見直したことでもあり、たとえば、馬場孤蝶は、手紙に一葉という宛名のかわりに、優婉な女主人公の名の「お蘭さま」としたためてよこしたりもした。"

7月30日

イギリス、対日不干渉決定。


つづく


「視察」と問題視せず 外務省 オランダ兵訓練場使用(琉球新報) / オランダ軍が県内で訓練 北部訓練場で米軍の日程に参加 識者「日米安保条約違反が常態化している」(沖縄タイムス); 半田滋さん「不法な段取りで訓練参加した疑いがある。だとすれば日本政府はオランダ政府に厳重に抗議しなければならない」 / 「本紙が沖縄防衛局にオランダ軍の訓練参加の事実を確認したところ、防衛局は「承知していない」と回答」 / 沖縄が日本から分離され米軍統治下に置かれた「屈辱の日」 きょう28日で72年 今も米軍基地の7割が集中(沖縄タイムス)     

2024年4月29日月曜日

舞岡公園散歩 舞岡川の鯉のぼり 舞岡公園の鯉のぼり シャリンバイ オダマキ イチハツ キショウブ ヤグルマギク キンラン 2024-04-29

 4月29日(月)はれ

GW中なので鎌倉散歩はムリだろうという判断で、久しぶりに舞岡公園へ。

自宅から下永谷市民の森を越えて、舞岡川を経由して舞岡公園へ。帰りは、舞岡公園から戸塚へ出て、ここまでは全て歩きで、戸塚から自宅まではバスを利用した。

▼舞岡川の鯉のぼり

年ごとに賑やかになってくる。小ぶりのものが主流だが、数では相当なものだ。





▼舞岡公園までの散歩道


▼舞岡公園の鯉のぼり
こちらの鯉のぼりは大ぶりだが、今日は風が弱かったので、泳ぐ鯉のようにはならなかった。

▼シャリンバイ 舞岡川近くの公園にたくさん植えられている

▼オダマキ

▼イチハツ

▼キショウブ


▼ヤグルマギク


▼キンラン 舞岡公園内の山中で見つけた
近くでギンランも見つけたが、まどほんの小さい蕾で、写真ボケボケなので割愛









小池百合子、「自分ファースト」の面目躍如 ⇒ 自民と組まず敗れた乙武氏 小池百合子氏と挑んだ「ファントム」払拭(朝日);「乙武を頼むわよ」と旧知の議員らに電話で頼み続けたという小池都知事。しかし、乙武氏の落選が確実となった場には、その姿はありませんでした。   

大杉栄とその時代年表(115) 1894(明治27)年7月20日~25日 日本軍、王宮(景福宮)に侵入 第3次大院君執政(傀儡政権)樹立 大院君、大鳥公使に対し牙山の清国軍の撤退を依頼(日本は清国軍攻撃の口実を得る) 新聞論調は開戦一色 豊島沖海戦(布告なしの日清開戦)  

 

左;日本軍が朝鮮王宮(景福宮)に突入している様子   右;牙山での戦闘の様子

大杉栄とその時代年表(114) 1894(明治27)年7月20日~27日 一葉の隣家の銘酒屋「浦島」にいた小林愛(あい)が逃亡、一葉に保護を求める。一葉は救済に奔走する。 「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也(一葉の日記) より続く

1894(明治27)年

7月20日

朝鮮、老人亭での日韓会談不調を知り、袁世凱、漢城脱出。帰国。日清の対決が避けられないとの判断から「天津に帰って最大の実力者・李鴻章と善後策を講ずる」と言い残して帰国した。朝鮮政府首脳は、清国を頼りにしてきただけに困惑した。

7月20日

朝鮮政府に対して実質的最後通牒。

大鳥公使、朝鮮政府に「わが戦を決すべき最後の公文」を手交。清国軍撤兵要請指図、清国との全条約破棄指図など4項目を要求。48時間以内(22日迄)の回答迫る。22日の期限が延引したときは「自ら決意するところこれあり」と付け加える。

大鳥公使、大島旅団長に対して、前日の協議を一部変更し「王城の包囲、制圧作戦を優先する。従って牙山への進軍はしばらく見合すよう」申し入れる。

7月20日

清軍派兵。李鴻章、派兵の勅令受けて、諸軍に出発命令。平壌へ集中させる。

7月20日

大本営、京城の混成旅団長(大島義昌少将)に、清軍の増加ある場合は「主力を以て眼前の敵を撃滅すべし」と命じる。

7月21日

清国軍第1次牙山増援軍1,300、英国籍貨客船「愛仁」「飛鯨」に乗船し氷定河大沽港発。23日牙山着。忠清道清軍3,500余となる

7月21日

イギリス代理公使ページェット、外務省を訪問。日本の対清最終覚書に抗議。陸奥外相は拒絶。

7月22日

清国徳宗皇帝、日本の開戦意図を知り、27日に宣戦を決意。しかし、尚も李鴻章はイギリスの調停に期待、日本に密使を派遣して局面打開を熱望。総理衙門も李鴻章と同意見。天津の滝川駐在武官・荒川総領事はこの内情を逐一日本に報告。大本営は清国の避戦論を知悉

7月22日

19日に編制された連合艦隊、22日から23日にかけて佐世保港から朝鮮半島西岸海域に向けて出撃。

7月23日

朝鮮、甲午政変。

午前0時半、大鳥公使は大島旅団長に「計画開始」の電文を発す。午前3時、日本軍(漢城郊外竜山駐屯の歩兵第1連隊など)、城内進入し城門を固め、歩兵第21連隊(武田秀山連隊長)第2大隊中心の「核心部隊」(正規軍5中隊)が迎秋門(西門)を破り王宮(景福宮)に侵入、国王を捕え、王宮内の武器を押収、制圧・占領。王宮守備隊との交戦で戦死10余。大鳥公使も夜明けには王宮入り。警視庁警部萩原秀次郎・大陸浪人岡本柳之助、大院君連出す。

国王高宗、大院君に対し、国政と改革のすべてを委任することを告げ、これらについてはすべて大鳥公使と協議を行うことを要請(第3次大院君執政)。傀儡政権樹立。閔氏一族処分:閔泳駿・閔応植・閔致憲など「虐民負国」の罪名で遠隔地に入る。閔妃は処分できず(混乱を嫌う大鳥・杉村の庇護)。

午前6時半、大鳥公使は外務大臣陸奥に電報を打つ。

「朝鮮政府の回答不満足につき王宮包囲の処置をとるにいたる。23日の早朝、此の手段を施し朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し双方互に砲撃せり」

午前8時、漢城の混成第9旅団長大島義昌少将、王宮占領第一報を参謀総長に送る。

午後、日本軍は親軍統衛営を攻撃、抵抗する朝鮮軍に死傷をあたえたうえ武装解除。クルップ野砲・機関砲20門、小銃3千挺を押収。

大院君は日本側の説得には応じなかった。杉村書記官は大院君に直接面会を求めた。大院君は「日本政府は朝鮮の領土を奪わないと約束できるか」と問うと、杉村は「決して朝鮮の領土を割くようなことは致しません」と書いて署名。大院君は日本側の要求をのむことになった。

大院君は大鳥公使を引見し、「これから国政を総裁せよ、との勅命を国王から受けた」と告げ内政改革は大鳥と相談して進めると約束した。その後、国政総裁の大院君は大鳥公使に対し、清国・朝鮮宗属関係の破棄を宣言し、牙山の清国軍の撤退を依頼した。日本軍は清国軍攻撃の「口実」ができたことになる。

列強の疑惑と国民の反感を恐れる傀儡政府は撤兵を求めるが、日本軍は王宮占拠を継続、日本公使館発行の門標携帯者以外は王宮出入を許可せず。また、ソウル市街全域から朝鮮国軍を一掃し「一人ノ韓兵モナキ姿」とする。大鳥公使は「朝鮮国兵権並ニ警察権ノ消滅」と「秩序」破壊を報告、以後当分の間、朝鮮を「我保護ノ下ニ置キ万事扶持スル」決意を上申。陸奥外相も、日本の行動は「事実上、一国ノ独立ヲ侵犯」していると認める。

これは出先軍隊が本国の意息に反して暴走という事件ではなく、軍隊出動は、陸奥外相から「自ラ正当卜認ムル手段ヲ執ラルべシ」との訓令をうけた大鳥公使が指導し、回答期限をきり、期限に遅れた時は「本公使自力ヲ決意スル所可有之」と、最後通牒の形式をふんだ要求をつきつけ、期限を過ぎて王宮を占拠。政府は大鳥公使の政策を追認し、王宮占拠の日本軍撤兵を交換条件に、朝鮮の植民地化を促進する各種利権要求を折り込んだ暫定合同条款締結を強要。

杉村濬書記官は、「我ニ反対ナル閔党政府ヲ仆シテ大院君ニ政権ヲ掌握セシメ、同政府ヲ我身方ニ引キ付ケ、思フ儘ニ我ガ見込ノ改革ヲ行ハシメントノ希望」から王宮占拠を行ったと証言。

7月23日

清国軍第2次牙山増援軍1,400、英国籍貨客船「高陞」に搭乗し大沽発。清国砲艦「操江」が護衛。

7月23日

午前11時、日本連合艦隊第1次遊撃艦隊(坪井航三少将)「吉野」「秋津洲」「浪速」、佐世保発し群山沖に向う。続いて第2遊撃隊(相浦紀道少将)「葛城」「天竜」「高雄」「大和」、本隊(伊東祐亨中将)「松島」「千代田」「高千穂」「橋立」「厳島」も出航。

7月23日

イギリス代理公使ページェット、日清開戦の場合の上海中立を提議。伊藤首相・陸奥外相、日清密約なしを確認し安堵。

7月23日

「国民新聞」、「好機失い易くして得がたし、今や我国は清国と開戦するの最高機に際す」と指摘。

24日、「時事新報」も、「今日に至りて押問答は無益なり、一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦を開くにしかざるなり」、朝鮮政府の「無礼」を中止させるため「弾丸硝薬に勝るものあるべからずと朝鮮の武力制圧を主張。新聞論調は開戦一色となる。

7月23日

この日、東学農民軍討伐隊となる後備第19大隊の兵士が召集令状を受け取る。

7月23日

『日本』7月23日、「東学再興」を報じる。「●京城特信(十五日発) (山に晃) 南子報」

「東学党再興は,これまで噂されてきたが,「昨日始めて全羅道淳昌の郡守より東学党再興の警報を韓廷に伝へ来りたる由」と地方官から政府への報告だから確実だと断定した。

7月24日

清の増援部隊1,300人が牙山に上陸、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人となった。

7月24日

第1遊撃隊「吉野」「浪速」「秋津洲」、牙山湾偵察

7月25日

日清戦争開始。豊島沖海戦。

清国第2次増援隊「高陞」「操江」を出迎えに出動した軍艦「済遠」「広乙」、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三海軍少将)「吉野」「秋津洲」「浪速(東郷平八郎大佐48)」と遭遇戦。午前7時52分、まず「済遠」が発砲し「吉野」の前方に落下。日本艦の砲撃優勢。清艦「広乙」座礁し自爆。

午前10時過ぎ、「浪速」(艦長東郷)は「高陞」に停船命じる。一旦、イギリス人船長が応じるが、清国将兵が船長を拘留し拿捕を拒否。数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、拿捕を断念してこれを撃沈(高陞号事件)、溺死1千余(午後1時46分)。艦長東郷はイギリス人船員のみ救助させる。

「操江」は拿捕。「済遠」逃亡。イギリス籍艦船撃沈に、イギリス政府の抗議とイギリス世論沸騰。陸奥外相は、イギリス政府の出方によってはイギリスへの軍艦発注が減る、また、日本がロシアの南下を防止しているという論法でイギリス政府を説得。イギリス政府は、オックスフォード大学の国際法の権威に「浪速」の行為は戦時国際法に触れずとの論文をロンドンタイムズに掲載し、世論沈静化を図る。

陸奥外交:

28日「高陞」を撃沈を聞いた陸奥は、イギリスの抗議を予想して日本軍の増派中止を提案。陸奥外交の基本は、英露対立の構図の中でイギリスの庇護のもとで朝鮮政策を進めることを基本としている。今回は、伊藤首相が陸奥の提案を押さえた。

開戦にあたり、大本営は3つの作戦方針をたてる。①海戦に勝利し制海権を掌握した場合、陸軍は北京に突入。②海戦の勝敗未決の場合、朝鮮を維持。③大敗して制海権を失った場合、大陸から引揚げる。

伊藤首相が予測する当面する最大の問題は、清国との戦闘よりもとうからず発生する列強の合同武力干渉への対応である。その為に必要なことは、①「速ニ清国ニ向テ一大捷利ヲ博シ、何時ニテモ敵国ニ対シテ我要求ヲ提出スルノ地位ヲ占メ」ること、②「単ニ軍事一片ノミヲ是レ事トセズ、機ヲ見テ進止シ、以テ国家ヲ危地二陥ルルガ如キコト之ナキ様、終始外交関係ヲ慎重ニスルコト」、である。速やかな艦隊決戦による早期の戦果獲得と、政戦両略の一致を求めるが、豊島沖海戦の後、清国は艦隊保全主義をとり、艦隊決戦はなく早期の戦果確保はできない。


つづく

一時1ドル=160円台突破も一転154円台に…為替介入か 神田財務官「ノーコメント」(日テレ) / 円相場(外国為替市場) 一時1ドル=160円台に 対ユーロは最安値(NHK) / ずっと「高い緊張感を持って注視していく」としか言わない担当大臣 / 円安加速、34年ぶり158円台 米「3高」に歯止め利かず(日経) / 「もはや、ベトナム通貨のドンより日本円は弱くなっていて、この一年で対ドンで日本円は40%ほど目減りした。今後はベトナムから日本に働きに来てくれる人がいなくなるのではないか」  / 植田日銀総裁(4/26)「無視しえない影響が発生するのであれば、、、」 / 日銀 金融政策の現状維持を決定 円相場は1ドル=156円台後半 加速する円安に…植田総裁“物価上昇に大きな影響を与えていない”との認識を示す / 止まらない円安 実は「円弱」 日本は“後進国”に転落か 国力低下の現実とは【報道1930】 / 加谷珪一氏 「政府は『アメリカの景気が悪くなってくれるだろう』と楽観的な見通しで、なんとかなると踏んでたんですが、予想外に米国の景気がいいので、円安傾向は当分続く」 / 榊原英資氏は「理由のある円安なので特に介入する必要はないという判断を当局はしている」と予想。政府・日銀は、為替介入には動かないとみている / (多事奏論)異次元緩和の末 超円安、「新興国化」する日本 原真人(朝日 有料記事);〈昨今の超円安は日本を「新興国化」させた。それが腑に落ちる風景がそこかしこに…高級ホテルや人気レストランは、高額料金を割安と感じる外国人観光客に席巻されている。日本人は相対的に貧しくなった。これこそ 紙幣を刷りまくり バラまいてきた財政金融政策の末路である〉 / TSMCバブルに沸く熊本“台湾タウン”に潜入 「台湾人管理職の年収は2350万円」「残業しない日本人のシワ寄せが台湾人に」(マネーポストWEB) / 寺島実郎さん ⇒日本は、IMF予測でGDPがインドに来年抜かれると報道が。アベノミクスの10年の間に円の価値が半分に。日本が一気に途上国化してきている認識が重要。国民窮乏化政策に近い。          



 

 

*



 

2024年4月28日日曜日

【すべてゼロ打ち】 衆院3補選いずれも立民候補が当選確実 ◎島根1区 立民の元議員・亀井亜紀子氏が当選確実 ◎東京15区 立民の新人・酒井菜摘氏が当選確実 ◎長崎3区 立民の前議員山田勝彦氏が当選確実 (20:00)     

 

=====================

 

 

=======================================

 

大杉栄とその時代年表(114) 1894(明治27)年7月20日~27日 一葉の隣家の銘酒屋「浦島」にいた小林愛(あい)が逃亡、一葉に保護を求める。一葉は救済に奔走する。 「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也(一葉の日記) 

 

鏑木清方〈にごりえ〉

大杉栄とその時代年表(113) 1894(明治27)年7月14日~19日 『小日本』廃刊(子規、『日本』に戻る) 清国は避戦論が主流 日英通商航海条約調印 大本営御前会議。開戦やむなしと決定 一葉・桃水の交流再開 子規『文学漫言』 陸奥訓令「此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。、、、而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む」 大鳥公使、朝鮮政府に最後通牒 より続く

1894(明治27)年

7月20日

漱石、夜、狩野亨吉を訪ねる。

7月20日

一葉の隣家の銘酒屋「浦島」にいた小林愛(あい)が逃亡、一葉に保護を求める。一葉は救済に奔走する。


「隣家に此ほどよりかゝり居る女子あり。生れは神戸の刀剣商にて、然るべき筋の娘なれど、十六の歳より身の行(おこなひ)よからで、契りしは何某(なにがし)の職工成ける。父なる人の怒にふれて、侘しき暮しを二、三年がほどなしつる。かゝりしほどに、男子一人まうけて、二人が仲にはあくこゝろもなかりしを、男の親の心あしく、此女(このむすめ)いかにしてもかくてあられぬ時は来りぬ。「今はせんなし」とて、別れて家にかへる時、子は我が方につれもどして、その身はそれより大坂中の島の洗心館に仲居といふ物に成りて、ことし五年がほど過ぬ。さるほどに、此女生つき闊達の気象、衆客の心にかなひて、引手あまたの全盛こゝにならぷ物なく、「洗心館のお愛」と呼ばれては紅葉館のお愛と東西に嬌名(けうめい)たかく、「我ぞ手折(たをり)て我宿の」と引かるゝ袖の、さりとはうるさや。「一つ心を、ぬし様に」と思ひこみぬるは、かの地に名高きぼう易商、こゝにも人ぞしる森村市蔵が一家に、広瀬武雄とてとしは二十六、当世様(たうせいやう)の若大将。粋(すい)は身をくふ合(あひ)ぼれの仲おもしろく、互にのぼる二階三階、せきはとゞめぬ帳場の為にも、「大尽客」とて下にものひゞきに成りて、岡(をか)やき半分なぶらるゝ。座敷の数は昔しのまゝとても、我が手にのらぬそれ鷹(たか)のねらひたがへは、互がひの上にもみゆるぞかし。まけじ気性は今更の恋に火の手つのりて、「御免候へ。我にも可愛き人一人。のろけはならひぞ。うら山しくは真似ても見給へ。花を見捨る裏住居(うらずまひ)も、ぬし様故なら大事なき身」と、おもて晴たる取なしに、「長くはあられぬ此家(このうち)をはなれて、共に」と計(ばかり)、息子も折ふし使ひ過しの詮議むづかしく、こゝの支店に左せんの身となれば、とるや手に手を「鳥が鳴(なく)」とはふるし、「東(あづま)に行てしばしの辛抱を」と、「落人」ならねど人前つゝましき二人づれの汽車の中、出むかひの手前は、「さる大家の姫様、学問修業にこれへとあるを、我れに托されて同道」とくるむれど、誰が目に見てもそれ者(しや)あがりのなりふり。さりとはむづかしの乳母(うば)のもとに、しばしの宿をととゞめける。「我れも家(か)とくは四、五年の後なり。部屋住(へやずみ)の身の思ふにまかせぬほどは、そなたも修業ぞや。つらくとも堅気の家に奉公ずみして、やがて花咲く春にもあはゞ、仮親(かりおや)もうけて『奥様』とはいはすべし。頼む」とありけるぬしが詞(ことば)勿体なく、骨身にきざんで「さらは」と出立(いでた)てば、全盛うつたる身に、一人女子のはしり使ひ、何としてたへらるべき。我れこらゆれども、お主様(しゆうさま)御気(おき)に人らねば甲斐なや。出もどりの数を尽して、「乳母の手前はづかしや」と、こしらへ言の底情なくわれて、「京の大家(たいけ)の姫様と聞ましたるは偽り、九尾(きうび)の狐の、我が若旦那様手の中にまろめて、手だてあぶなや。大切は若旦那様が上」とて、乳母が怒りに取つく島ふつとはなれて、我とはとかぬとも綱に、行衛は波のわた中を、流れ小舟の身の上助くる人なくて、乳母が前への謝罪(わび)はこれと、をしや、三日月の眉ごそりとそりぬ。

「すくひ給へ」とすがられしも縁(えん)也。「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也」

*「隣家」:「浦島」または「浦島や」と呼ぶ銘酒屋。

*「洗心館」;大阪市北区中之島にあった一流の貸席。仲居は客に応接し、その用を行なう女中。

*「紅葉館」;芝公園地にあった料亭。政財界人の出入りが多かった。

*惣はつぴ:料亭で働く男衆に、一種の祝儀として与えるもの。

*紙花:祝儀

*我が・・・・:鷹匠の放った贋が主人の手にとまらないでほかの所に降りてしまうこと。

*三日月の眉ごそりとそりぬ。:娼婦に身を売った。


小林あいは、神戸の刀剣商の娘で、16歳である職工と懇ろとなり男の子をもうけるが、その後別れることになる。子供は実家に連れ戻し、自分は大阪中の島で仲居として住み込む。ここで貿易商の息子と知り合い結婚。しかし夫は浪費の為に東京支店に左遷される。東京に来ると、夫は、自分が家督を継ぐのは4、5年先なので、それまでは堅気の家に奉公して時節を待てと言われる。彼女はそれに従うものの、堅気の勤めには耐えられず、何回かの出戻りの後、夫の乳母に愛想をつかされ「浦島」に追放される。

縋られた一葉は、「東女がどんなものか、狭けれど此の袖のかげにかくれ給え」と引受ける。

「文学界」への原稿(「暗夜」)が出来上らなくて悩んでいる最中である、あいの救済に乗り出す。翌日、田中みの子に匿ってくれるよう頼むが断られ、次いで中島歌子にも頼むが、「我も君も前途に一大障碍を来すべし」と引受けてくれない。

万策尽き、結局あいを夫もとにを行かせることにして、隣家からこの夫の行き先を聞き出したところで、日記が中断している(7月20日~11月8日の日記はない)。

その後、お愛は神戸の実家に引取られ、広瀬武雄が家督を相続するのを待つことになる。

1年後の明治28年11月3日の日記に、

「神戸の小林あい子より松たけ一籠おくりおこしたるを、いひにたきて集(あつま)りてたうべぬ。」

とあり、うまく決着したと推測できる。


(「隣の家にこの間から身を寄せている小林愛という女がいる。生まれは神戸の刀剣商で立派な家の娘だが、十六歳から品行が良くなく、同棲したのは何とかいう会社の職工でした。父親の怒りにふれて人目をはばかる生活を二、三年ほどしていた。その間に男の子が一人出来て、二人の仲は飽くこともなく暮らしていたが、男の親は心の悪い男で、この女もどうしてもこのままではいられなくなった。今は仕方がないと別れる時に、子供は自分の方に引き取り、自分は大阪中の島の洗心館という料亭の仲居になって、今年で五年ほどになる。さてこの女は生まれつき朗らかでさっぱりした気性なので、客受けもよく、引っ張り凧の全盛ぶりは他に並ぶ者もなく、「洗心館のお愛」と呼ばれ、東京の紅菜館のお愛」とともに東西の美人との評判が高く、自分の愛人にという客が、うるさいほどに袖を引くのでした。その中でこの女が思い込んだ相手は、有名な貿易商で世間に名の知れた森村市蔵の部下の広瀬武雄という二十六歳の現代風の若大将でした。道楽は身を食うほどの相思相愛の楽しい仲となり、二人はますます燃え上がり、その大散財に店では下にも置かぬもてなしでした。女も、ぬし様の顔を立てようと見栄を張り、店の者にも揃いの法被を着せたり、女中たちにもお金をばら撒いたりしたため、可真相にもお金につまり、両手の指にはめきれないほどの金の指輪を、一つ目は内緒に、二つめはそっと、さらに三つ四つとすべて売り尽くしてしまったので、他の客たちからはねたみ半分にひやかされるのでした。お座敷の数は昔通りに多かったが、男も女もどうにもならない状態になってしまった。負けず嫌いのこの女の恋はますます燃えつのり、

「お許し下さい。私にも愛する人が一人いるのです。のろけを言うのはこの世界では普通のこと、羨ましかったら皆さんも私を真似てなさればよい。花にそむいたみすぼらしい裏町住まいでも、あの方のためなら何とも思いません」

と言って、表だってのお世話で、どうせ長くはおれないこの家を出て、この男と一緒に暮らすことになったのでした。男の方も使い込みの取り調べがうるさくなり、東京の支店に左遷されることになった。手に手を取り合い、鶏が鳴く東の国の東京に行って、しばらく辛抱しょうと、都を落ち行く武士ではないが、汽車の中では人前もはばかられるつつましい様子で東京へ出て来たのでした。男は出迎えの者に、

「ある大家のお嬢さんが学問修業に上京されるのを、私が頼まれてお連れした」

と、うまく言い包んでも、誰の目にも芸者か玄人あがりの女に見えたのでした。そしてうるさい乳母の家にしばらく身を置くことになったのでした。

「私もあと四、五年もすれば家督を継ぐことになる。それまでの部屋住みの身で思うにまかせない間は、お前も修業と思ってくれ。そしてつらくても堅気の家に住み込み奉公をしてくれ。そのうち好い時期が来ら仮親を立てて正式に妻として迎えようと思うから、是非そうしてくれ、頼む」

という男の言葉が勿体ないほど骨身にしみて、女は奉公に出たのでした。しかし花柳界で全盛をうたわれた女のこととて、どうして一人で女の走り使いの什事が出来ましょうか。自分は辛抱をしても使い主が気に人らねは仕方のないこと。勤めに出ては戻り、出ては戻りと何度も繰り返すのでした。乳母の手前は恥ずかしく、何とかこしらえ言でごまかしても、それもばれてしまい、

「京の大家のお妓様というのは真赤な嘘。人をだます九尾の狐め。私の大事な若旦那様を手の中に丸め込もうとする、その手練手管の何と恐ろしいこと。かくなる上は、大切なのは若旦那様のこと」

と怒り狂う乳母にはとりつくしまも全くなく、自分では切らなくても、とも網を切られた小舟のように波のまにまに流れて行く身を助けてくれる人とてもなく、

「乳母様をだましたことの謝罪は、これでどうぞお許しを」

といって美しい三日月のような眉をきっぱりと剃り落としたのでした。

「どうぞ助けて下さい」

と、この私がすがられたのも何かのご縁があったからでしょう。私には身分不相応の重荷ではあったのですが、

「引き受けた以上は、お前様はこの家の娘も同然のもの、私の言うことを聞いて貰わねばなりません。この私という東女の心意気がどんなものか見せてあげよう。狭いけれどもこの袖の陰に隠れて、しばらくの間、時期が来るのをお待ちなさい」

と引き受けたのが、実は今日のことでした。)


「二十一日 早朝、孤蝶君よりはがき来る。「続稿は二十二日中にてよし」とのこと、嬉しき人也。今日午後より田中君のもとを訪ひて、お愛がしばしの宿にたのまんとす。日ぐれ少し前よりゆく。留守成しかど、しばしまつ。かにかくと断(ことわり)がましく言を左右に托せど、「見かけて頼みし我れに対し、『厭(いや)』とあらは、お前様(まえさま)女子(おなご)にはあるまじ。横に車かしらず、長くとにはあらず、二月か三月、それもむづかしくは一月にてもよし」とて、をしつかへしつのはてに、「さらは試(こころみ)に二日がほどをよこし給へ」といふ。雷雨はげしく、かへりは車にて送らる。」

(二十一日。早朝、馬場孤蝶氏からはがきが来る。続稿の〆切は二十二日中でよいとのこと。有難い人です。今日は午後から田中みの子さんを訪ねて、お愛のしばらくの宿を頼もうと思う。夕暮れ少し前から行く。留守だったので、しばらく待つ。あの人も色々と言葉を濁して断りたげに言う。

「あなたと見込んで頼んだ私に対して、いやとおっしゃるならば、あなたは一人前の女とは言えませんよ。横車を押すことになるか知りませんが、長くとは言いません。二月か三月、それも無理なら一月でもいいのです。」

と言って、お互いに言い合った揚句、

「そんなに言うのなら、試しに二日間はどよこしなさい」

と言う。雷雨が烈しく、帰りは車で送ってもらう。)

(二十二日。晴。今朝「やみ夜」の続稿を孤蝶に郵送する。

朝鮮での開戦が近づいてきた。青山胤道は次第に快方に向かい、北里柴三郎は香港出立とのこと。北航端艇の郡司大尉が帰京するが、昨年の出発時に比べればあまりに寂しい出迎え。

(日清政争に関しては、これ以降、一葉の日記上は関心の跡は見られない))

「二十三日 早朝、田中君より断(ことわり)の手紙来る。「まことはうしろぐらき処ある人の、我れにはひたすらつゝまんとする物から、我よりつかはしたる女子に家内の様子しれなば、つひには身の為よからじ、との心なるべし。あな狭の人ごゝろや」などをかし。さるにても、お愛のなげき一方(ひとかた)ならず。「いかでかく非運薄福の身」と打なくさま、哀れにいぢらしければ、「さらば今一度、我が師のもとを訪ひて頼みてみん」と、家を出づ。師には事情(わけ)残りなくうちあけて頼み聞えたるに、師は、「その人となりの表面上よろしからざるに、これを引うけてかくまふといはゞ、我も君もこれよりの前途に一大障碍となりて、遂に救ひがたき大難を生ずべし」とて、聞入れ給はず。今はかひなし。帰宅後、猶よくおあいと相談す。「さらば一直線に武雄ぬしのもとを訪ひて、諸事談合の上に、いか様とも策のほどこし方はあるべし。木挽丁は物の表にして、これにはつくろひもあるべし、はゞかりもあらん。武雄ぬしとの仲は紙一枚の隔てなく、かくしだての入るべきならず。又、よしや世人(よびと)は何ともいへ、君にしていのちと頼むは此人なるべし。箱根にいますと定まりたらは、宮の下か芦之湯か、いづくまれ、尋ねてしれぬ事はあらじ。

いざ給へ。行て逢見て後(のち)の事」とうながすに、「さらば」と思ひ起して直に支度す。

隣家の妻がとゞむる(ことば)詞のうるさかりしかど、さまざまに頼み聞えて出づ。出がけに、「木挽町より帯取寄る為」とて、文したゝむ。隣の妻が名前にて、「ぬしのありかしれ居らば、此文のはしにしるし給へ」とかく。

送りし車夫(くるまや)の帰りしは、午後三時過る頃成し。首尾よく策の当りて、宿処(やど)を教へたるよし、まづはうれしかりしに、「隣家の主(あるじ)帰宅の後、直(すぐ)に木挽丁に実事(まこと)打あけん」といふ。「そはよろしかるまじ」とてとゞむるに、猶くどくどとのゝしりて、乳母のかたへの義理を思ふ。哀れなるは小人(せうじん)、とるべき道をあやまりたるの人なり。」

(二十三日。早朝、田中みの子さんから断りの手紙が来る。本当の理由は、みの子さん自身もうしろ暗い所がある人なので、それを私には隠そうとしているのですが、こちらからやった女の子に家の事情が知れたら、つまりは自分のためにもよくないと思ったからの事でしょう。何と心の狭い人よと、可笑しくなる。

(田中みの子は玄人上がりという噂があり、一葉もそれを信じていた))

それにしてもお愛の悲しみようは一通りではなく、

「どうして私はこんなに運が悪く、幸福から縁遠いのだろう」

と欺き悲しむ様子が気の毒でいじらしいので、

「それではもう一度、私の先生をお訪ねして頼んでみょう」

と家を出る。先生には事の事情をすっかり打ち明けてお頼みしたのに、先生は

「その人のこれまでの経歴が世間的に見てよくないのが第一、さらにその上にこの人を引き受けてかくまうとなると、私にもあなたにも今後の大きな障碍となって、遂にはどうにもならないような難儀な車が起こるかもしれないのですよ」

と言って、承知なさらない。

(田中みの子には本当のことを話さずに頼んだが、中島歌子には愛が駆け落ちであることを話した)

今はもうどうにも仕方がない。帰宅。そのあとお愛とよく相談する。

「それでは一直線にずばりといとしいと思う広瀬武雄さんの所を訪ねて行きなさい。そして万事を相談すれば、どうにでも解決の方策がきっと出てくるでしょう。木挽町の乳母の方はいわば表面のことですから、これには辻褄もあわせねばなるまいし遠慮もあるでしょうが、武雄さんとの間は何の隔てもなく、隠し立てなどいらないのです。また世間の人が何と言おうと、あなたにとって命と頼むのはこの人でしょう。箱根におられるという所まで分かっているのなら、それからは宮の下であれ芦の湯であれ、どこまでも探して行けば、尋ねて分からないということはないでしょう。さあ、出かけて行きなさい。行って、逢って、それからの事ですよ」

とせきたてると、お愛も気をとり直して、すぐに支度にかかる。

お愛が身を寄せている隣の家の妻君がうるさく引き留めるが、色々に話して頼み、行かせることにする。出かけるときに、木挽町の乳母のところから帯や衣類を取り寄せるためにといって手紙を書く。隣の妻君の名前で、

「武雄さんの住所がわかっていたら、この手紙の端に記して下さい」

と書く。

送って行った車夫が帰ってきたのは午後三時過ぎごろでした。うまくこちらの計略があたって、住所を教えたとのこと。これでよかった、先ずは一安心と思っていると、隣の家の主人が帰って来て、

「すぐに木挽町の方に、事の事実を打ち明けて知らせてやろう」

と言う。

「それはよくないでしょう」

と、引きとめても、なおくどくどと私のやり方をののしって、乳母の方の義理ばかりを思って言うのでした。この人も何と可哀相な小人物よ。とるべき道を誤った小人物というべきでしょう。)

7月25日

「しからみ草紙」第18号に田中みな子の「鎌倉紀行」が掲載される。

7月27日

一葉の兄虎之助より、約束の金子の工面が難しいと連絡がくる


つづく


この人の総理としての資質を疑う ⇒ 岸田首相「30年ぶりに経済の明るい兆し」投稿にツッコミ続々 「むしろ地獄」「お先真っ暗」と怒りの声(スポニチ) ← 実質賃金低下23ヶ月継続中です / 首相、元米大統領のスピーチライター活用 録音で練習(日経) ← 側近の立場ないね / 岸田文雄“禁断のオフメモ”「俺と金正恩で決める」「安倍演説と違うだろ」(週刊文春) / 岸田内閣、外遊ラッシュ 大型連休、14人海外へ(時事) ← 能登に行きなさい     

輝く都庁の下、食求め700人 困窮者増える一方、華やかイベントに違和感(毎日);〈じっと見上げていた女性は「デザインも今一つ。7億かけてやるほどじゃないわね。みんな電気代を節約しているのに……」とつぶやいた。〉 〈もやいの大西さんは言う。「これだけ困窮している人たちがいるのに皮肉なことです。行政は足元で何が起きているのか見てほしい」〉   

 

2024年4月27日土曜日

「とうふ屋うかい鷺沼店」でランチ 2024-04-26

 4月26日(金)はれ

田園都市線「鷺沼」駅近くの「とうふ屋うかい鷺沼店」でランチ。

丁寧に作られた料理、こう見えて量もたっぷりで、満足レベルだった。また、それ以上に、店の調度品、飾り付け、うまく手入れされた庭など、細かいところまで行き届いたお店だった。勿論、鷺沼は初めて下車した町。横須賀線~横浜地下鉄~田園都市線と乗り継いで。










「何イチャイチャしてるの?」鈴木宗男氏を父に持つ自民女性議員(38)緊迫の委員会中に男性議員と仲良く談笑…緊張感なき姿に批判続出(女性自身) ← 鈴木貴子と宮路拓馬

消滅可能性自治体公表 丸山知事「日本全体の問題を市町村の問題にすり替えている」「東京の出生率は最低だ」人口偏在放置を批判(山陰中央新報デジタル);「日本全体の問題を自治体の問題であるかのようにすり替えている。アプローチの仕方が根本的に間違っている」

大杉栄とその時代年表(113) 1894(明治27)年7月14日~19日 『小日本』廃刊(子規、『日本』に戻る) 清国は避戦論が主流 日英通商航海条約調印 大本営御前会議。開戦やむなしと決定 一葉・桃水の交流再開 子規『文学漫言』 陸奥訓令「此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。、、、而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む」 大鳥公使、朝鮮政府に最後通牒   

 

1894日英通商航海條約

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令 より続く

1894(明治27)年

7月14日

桃水が明日来ると思うと夜更けまで眠れなかった。

「十四日 小石川稽古にゆく。榊原家よりゆかた地、中村君より帯止、はんけち到来。此夜更(ふく)るまでねぶり難し。あすの雷雨いかにや。」

7月14日

青木駐英公使、英キンバリー外相より、朝鮮における朝鮮政府雇教師・イギリス海軍コルドウェル少尉解雇要求、仁川における軍事電信線架設に関して抗議をうける。15日、陸奥外相は事実を問質すいとまもなく「事実無根」と青木公使に返電。

7月15日

徳富蘇峰のこの日付け「国民新聞」、「好機とはなんぞや。いうまでもなし、清国と開戦の好機なり。別言すれば、膨脹的日本が膨脹的活動をなすの好機なり」と述べ、開戦を決意しなければ清国の風下に立ち、朝鮮への威信を失う、と戦争を煽る。

7月15日

桃水が鶏卵の折を持って一葉を答礼に訪れる。桃水の外見を称賛する。


「十五日 はれ。早朝、芝の兄君来訪。少し物がたるほどに半井君参り給ふ。少し面やせたれども、その昔しよりは、いげんいよいよ備はりて、態度の美事なるに、一楽織(いちらくおり)のひとへに嘉平次のはかま、絽(ろ)にてはあるまじき羽織のいと美事なるをはふり給ふ。門に車をまたせ給へるは、長くあらせ給ふべきにあらじとて、しゐてはとゞめず。鶏卵の折到来。兄君は日ぐれまで遊び給ふ。夜に入りてより、西村の礼助来る。此夜の月、又なく清し。」


7月15日

『小日本』廃刊により、子規、『日本』に戻る。

7月中旬

子規、上野の山を散策。御成道から広小路を経て山内へ。彰義隊の墓を見、浅草を遠望、清水堂・摺鉢山・博物館・寛永寺(中略)東照宮・不忍池と一時間漫遊(「上野紀行」)。

7月16日

朝鮮政府、日本軍撤退・実施期限の撤回が内政改革の前提と回答。

7月16日

・李鴻章、総理衙門の要求に対して北洋陸軍3万のうち1万5千を動員する計画を示す。この日、軍機処と総理衙門の合同会議。皇帝派李鴻藻・翁同蘇は主戦論を唱えるが、多数は避戦論をとり、朝鮮に対する藩属体制が維持できるなら多少の譲歩やむなしとの結論となる。

7月16日

内村鑑三(33)、箱根での第6回基督教青年会主催の夏期学校で「後世への最大遺物」を講演。

7月16日

「●京城別信(七月八日発) 内外通信社員報」(『日本』7月16日)。

黄海・平安の両道で人々が集まり,何かを協議していることがわかる報道で,同時に「東徒は閔族の跋扈を根本より駆除し地方の施政上に一大改革を見さる間は仮令一時潜伏して平定の観あるも到底再勃の憂を免れさるべし。」とある。東学農民運動に対して反閔族の改革派としての役割を期待。記者は、清国との戦争の前の段階で,東学農民運動も改革派として動けば日本に有利になると判断している。

7月16日

ロンドン、日英通商航海条約調印。青木公使の弁解が効を奏す。条約改正成功。日本は国際社会構成国候補者の地位をえて対清開戦準備は完了

領事裁判権は撤廃、一部の輸入関税が引上げられる。重要品についての関税自主権は回復されず、完全に対等な条約とは言えないが、明治維新以来の悲願が実現した意義は大きい。新条約は5年後の明治32年から実施される。イギリスが改正に応じたのは、トルコ、アフガニスタンなどで英国と対立するロシアがシベリア鉄道建設を進め北東アジア進出を狙っており、ロシアを牽制する為にも日本を抱き込む必要がある。

イギリスは、清国に日本の要求を受入れさせる為の連合干渉を列強に提議、列強は同調せず。イギリスの東アジア政策の支点が清国から日本に移りつつある事を示す。孤立したイギリスは、日本が親英政策をとることを確認し、条約に調印。青木公使は、日本が「一躍シテFellowship of nationsノ仲間入相整フタル」を祝し、キンバリー外相も条約調印は日本の国際的地位に、「清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ、遥カニスグレタ結果ヲ与エタ」と指摘。

7月17日

最初の大本営御前会議。開戦はもはややむなしと決定。清国に24日、朝鮮に22日を期限とする最後通牒を送る。同日、海軍中将樺山資紀が特旨で現役復帰し軍令部長に就任。この日、大鳥公使より朝鮮王宮占領許可を求める請訓が到着。

7月17日

一葉の日記より


「十七日 平田君より書状来る。避暑として奥羽の旅にのぼりしよし。雑誌(「文学界」への寄稿)のこと申来る。」


「十九日 小説「やみ夜」の続稿いまだまとまらず。編輯の期近づきぬれば、心あわたゞし。此夜、馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、「明日の編輯を明後日までにのはし給はらずや」と頼む。」

(「やみ夜」は「文学界」第19,20,21号に掲載される。第1回分として一葉が送った「その一・二」では短いので、つづくを依頼されていた(7月17日)が、20日の締め切りには間に合わず、21日まで待って貰うよう頼む)

(7月20日頃)一葉より桃水への手紙

この頃、桃水は病気療養の為、三崎町の店を従妹の河村千賀子に譲り、丸山福山町に近い西片町の旧宅に戻っている。一葉が越して来てからは、桃水はよく立ち寄るようになる。15日にも来訪している。この月あたりから桃水との交流が密になる

そして7月15日。たまたま次兄の虎之助が来ている時、桃水が立ち寄った、卵一折りを持参して。なぜか人力車でやって来て、外に待たせてあるとのことで、長くはいられない様子。無理に引き留められなかった。一葉は内心、拍子抜けしたのではないだろうか。この手紙は、桃水のおちつかない訪問の後に書かれたもののようである。

暑さはげしく候所いかゞいらせられ侯や御様子伺度朝鮮もやうやうけしきだつ様に承り侯間もしおぼし召立もや御ちかくながらつねに拝姿も得がたければ人のうわさのさまざまに驚かされて胸とゞろかれ申候 よは虫と笑はせ給ふな一筋に兄上様と頼み参らする身の心ぼそさ故に御坐候

もしその後の御立寄もやと待わたりまゐらせ候日数も今日はいくかに成候はん 御めにかゝらばしみじみお話も申上御をしへにもあづかりたしとはかねての願に御坐候を此ほどのやうに他人行儀の御義理合ひに御出下され候ては何事を申上らるべき

さりとは御恨みにも存じ候 御心もしらず御詞(おことば)一つをたのみに我れ一人妹気取のおろかさよしや世間のうくもつらくもお前様おはしませばと心丈夫にさだめて大海を小ぶねにて渡る様な境界み捨給はゞ波の下草にこそ候はめ

はるかに成し月日をかぞへ候へば私はお前様の御怒にふるゝ様なる事斗かさね申居候 罪は心浅き我れにあれば今更に人はうらまねど後悔のおもひにかきくらさるゝ朝夕をせめてはおもふほどのこと御聞にいれて御詫のかなはゞうれしかるぺくそれむつかしくはよそながら我心のうちにだけ兄上様とたのみ参らするを御ゆるしいたゞき度さりとて夢さらあやしき心ありてにはあらずかねての御気質をしれば何としてその様なこと申上らるべき唯々隔てなき兄弟の中ともならばとこれのみ終生の願ひに御坐侯をけふ此ごろのおぼしめし量がたさにおもひ侘申候

夕風すゞしからんほど御そゞろあるきのお序と申様な折に御はこびは願はれまじくや しゐては申がたけれどこれは欲の上の欲に御坐候

                                    かしこ

                                    夏子

師之君

    御前

*「朝鮮もやうやうけしきだつ様に」

対馬藩の藩医であった桃水の父は、版籍奉還(1869)後、釜山に渡り、倭館の医師をつとめた。倭館というのは(徳川時代、幕府から朝鮮外交を委任された対馬藩が釜山に設けていた施設。朝鮮外交を行うと同時に、藩営貿易によって収益を上げる、外交館兼商館という性質を持つもの)(上垣外憲一『ある明治人の朝鮮観 - 半井桃水と日朝関係』筑摩書房)。桃水は12歳の時、対馬から父のもとへ行き、そこで暮らし、朝鮮語を身につけた。後に東京で英学を学び、明治14年(1881)から大阪朝日新聞社の通信員として釜山に駐在。翌15年には『春香伝』を翻訳して『大阪朝日新聞』に連載した。また、この年、壬午事変(軍乱)が起こったので、同新聞に現地からの通信を連日送り評判になった。その後情勢の変化により、朝鮮問題について思うように記事が書けなくなった。しかし、明治21年(1888)から東京朝日新聞社の小説記者として『胡砂吹く風』を善くなど、つねに桃水が朝鮮の現実と動向に深い関心を抱いていたことを一葉はよく知っていた。

そこでまず、朝鮮のことを前文としたのであろう。

先日(15日)のせわしない(他人行儀)な訪問に対して残る恨めしさ、そして(その後の御立寄)を心待ちしていましたのに、と少し甘えるように、またしても(兄上様)(妹気取)〈兄弟の中)ということばを用いつつ、回想と反省をこめて、ふたたびの交際を、と迫っている。

これによって想像されるのは、3月末の復交以来一葉は屡々桃水を訪ねていることである。しかし、明治27年の「日記」は3月の後半〔3・29以降〕を欠き、4月以降は大半の記載がなく7月23日に筆をとめて、以後翌年に至る約5ヶ月間の記録を失っている。偶然の散佚か故意の破棄か、著作の多忙にまぎれたためか。

7月18日

子規『文学漫言』(『日本』連載~28日)。


「・・・・・俳句で、どのような文学表現が可能になるのか。「文学」としての「俳句」がどのようにあるべきなのかを、それまでの二項対立的認識を組み替えながら・・・・・論理化しようとした・・・・・


曰く先づ改良の第一着として和歌俳句の調和を謀らざるべからず。其調和を謀るには先づ和歌の言語に俳句の意匠を用ゐるを以て第一とす。和歌の言語とは単に雅言を用ゐ古文法を用うるの謂(い)に非ず。俳句の意匠とは固より俗情を穿(うが)つの謂に非ず。一言にして之れを云はゞ三十一文字の高尚なる俳句を作り出たさんとするに在るなり。


先に子規が主張していた「短篇」文学としての「和歌俳句」を「国粋」とし、その「調和を謀る」こと。その方法は「和歌の言語」に「俳句の意匠」を用いることだと子規は『文学漫言』 の結論として主張している。

この「和歌俳句」こそ「国粋」であるという主張の前提には、二項対立的布置によって「文学の種類」を論じた「内国と外国」における、地政学的な短詩型文学論の論理的前提がある。

子規は、まず「西洋」と「東洋」を対比し、「東洋」と言っても一元的ではないとして、「支那文学」と「本邦文学」を対比的に論じていく。「本邦文学」は、常に「外国の刺撃を受け外国文学の幾分を輸入し」たことによって大きく「変動」しており、「一概に」「本邦文学」と規定するわけにもいかないとしながらも、「支那文学」と「本邦文学」における四つの違いを抽出している。


第一彼は簡潔を尚(たつと)び我は紆余(うよ)を尚ぶ。第二彼は雄渾壮大に長じ我は優美繊柔に長ず。第三彼には言語多く我には言語少し。第四彼には長篇多く我には短篇多し。


第一の違いは、表意文字としての漢字を使用する「支那語」と、芭蕉論において子規が意識化していた「響き長くして意味少き」「国語」との違い。この二項対立的枠組で考えるなら、中岡文学は短くなり、日本文学が長くなるはずなのだが、子規は「第四」の違いとして中国文学には「長篇」が「多く」、日本文学には「短篇」が「多」いとしている。それはなぜなのか。その理由は、「第二」「第三」の違いによって説明されている。

「第三の理由」はわかりやすい。「言語」の数において「支那語」は「殆んど窮(きわま)りなし」だが、「固有の邦語」は「指を屈して」「数」えるほどしかない。

単純ではないのが、「第二」の理由だ。ここに子規の文学的地政学があらわれている。中国文学が「雄渾壮大」なのは、「言語」だけではなく「天然の国土風光」の在り方に規定されていると子規は主張する。すなわち、「支那」の国土のはばと広さは「数千里に度る」「大国」であり、「大河あり大山あり大廈(たいか)あり大都あり」と、全て「壮大」である。

それに対し日本の場合は「山水秀媚」で、「数百里の小国」であり、「山美なり海美なり家美なり街美なり」という「国土風光」だからこそ、文学も「優美繊柔」になる、と子規は強調する。「美」によって貫かれた「国土風光」を持つ「小国」にふさわしいのは、「短篇」の「韻文」としての「和歌」と「俳句」であり、この二つのジャンルの「調和」をはかりながら改革していくことこそが、「国粋を発揮」していくことになる、と子規は言う。この「小国」の文学論が、『文学漫言』の結論を導いていく。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


7月18日

李鴻章から平壌移駐を命ぜられた葉提督、海路移動は危険な状況で、むしろ現地を固守すれば、し日本軍の京城・釜山連絡船を遮断できるので増援部隊を要請。

19日、李鴻章、天津付近の部隊2,300に出動命じる。

7月19日

大鳥公使より、朝鮮政府が日本軍の撤退を要求し内政改革の日本案を拒絶した。清韓宗属関係破棄などを実行するまで王宮諸門を占領する「乙案」実行準備着手を伝える。天皇は、外相の考えを確認するよう徳大寺侍従長に命じる。陸奥は、大鳥公使に「このときに当り、閣下は自ら正当と認むる手段を執らるべし」と訓令。但し、「我兵を持以て王宮及漢城を囲むるは得策に非ずとおもわれば、之を決行せざる事を望む」と付け加える。

「7月19日午後6時発

                    東京 陸奥大臣

 京城 大鳥公使

朝鮮国政府改革案の拒絶に対し適宜の処置をとるべき旨訓令の件、朝鮮政府は遂に我が改革案を拒絶したる件に関する貴電接受せり。此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。併し本大臣の51号電訓の通り他外国と紛紜(ふんうん)を生ぜざる様充分注意せらるべし。而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む


19日、大鳥は旅団長大島に面会し開戦への協議を行う。

同日、大鳥公使は朝鮮政府に2つの要求を提出。

(1)京釜電線代設工事強行通告

(2)日本軍警備兵宿舎設置要求


回答の期限は7月22日、3日後である。「最後通牒」(Ultimatum)である。

7月19日

大本営、連合艦隊編成(司令長官伊東祐亨(すけゆき)海軍中将。朝鮮西岸を制圧し清国増援隊阻止派遣阻止命ずる。京城の混成旅団長(大島義昌少将)には、清軍の増加ある場合は「主力を以て眼前の敵を撃滅すべし」と命じる。この日、陸奥外相は西郷海相に対し、対清覚書の回答期限(24日)であり、25日以降の行動の自由を保障。



つづく


泉房穂氏 「私実は先月中旬、森元総理に電話する機会があって、そのとき森元総理は『いま岸田君と飯食ってるんだよ』と言ってたので、、、、多分二人は相当擦り合わせをしてるんじゃないかと私は思ってます、(岸田総理の森元総理への電話調査は)作った情報だと思いますけどね」 / 森元首相「私を陥れる作り話」 月刊誌で反論、還流関与を否定 (共同) / 「私から電話があったことをおっしゃらないでください」森喜朗元首相が、岸田首相「事情聴取」の全容を明かした!(文春オンライン) / 岸田首相が「私の責任で聞き取り調査を行いました。記録はございません」と答弁すると、委員会室から「うわー」という声があがった。(朝日4/22) / 裏金問題 森元首相に「国会で説明求めるべきだ」84% 世論調査 | 毎日新聞 / 下村博文「森会長の時にそういうスキームを作って」「もし国会で『その通りでしょう』みたいなことを言ったら…大騒ぎになる」 / こどものおつかい以下! 〈電話で事情聴取なんてありえない 森氏は「ご機嫌伺いのような話だった」と言ってる〉 → 岸田総理 森元総理への聴取は「やりとり明らかにしない前提」で実施 裏金事件への関与は確認できずと改めて強調(TBS) / 「内容を明らかにしない事情聴取というのは事情聴取ではない」 / 岸田首相の森喜朗「電話聴取」の一問一答がヤバすぎ《茶番劇「ご指導をお願いしたい」の一部始終》          

 

=========================

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 



 

2024年4月26日金曜日

「基本貫く」と広島市長 平和式典のイスラエル招待(共同);「ダブルスタンダードに見えるとの質問に「あなたの解釈です」と声を荒らげる場面もあった。」 / 平和を訴える立場であるなら、「式典にロシアを招待しない一方、イスラエルを招待するのはダブスタにならないか?」と真っ当な質問をした女性記者に恫喝するような答え方、、、