1894(明治27)年
7月9日
天津駐在海軍武官滝川大尉(変名使い諜報活動)、華北一帯で豪雨が続き、鉄道・電線が破壊・普通、道路も泥濘で移動困難と伝える。
7月9日
井上内相、「全国同志新聞記者聨合事務所処分の件」を閣議に付すよう伊藤首相に請議。園田警視総監の意見を採用したもの。13日閣議、同盟を政社と認め、政社法で処分することを決定。法制局意見や決議付帯条件について再検討され、19日閣議で改めて決定。20日、志賀重昂・大岡育造が呼ばれ、24日解散に到る。
7月9日
一葉日記より
九日 早朝、くらを送て上野に行。上野丁の小松星といへる旅店に、知人の待合せ居りて、共に帰県をなすよしに付、同家までゆく。上野よりにはあらで、新宿の汽車にて行よしなれば、我れはこゝより帰宅。朝飯をしまひて、無沙汰み舞に伊東、田中の両家を訪ふ。日ぐれまで遊ぶ。田中ぬしのもとにありける『艶道通鑑』とて、五冊ものゝ随筆めける、小出ぬしの蔵書のよしなるをかりる。
7月10日
朝鮮、大鳥圭介公使、内政改革調査委員と会見。南山麓の老人亭。実行期限(3日以内に議決、10日以内に実行)を付した内政改革方案綱目5条27項をに提出。第3回の会談で日本の提案拒否。朝鮮政府内では内政干渉との反対論沸騰。
7月10日
一葉日記より
十日 禿木子より状(ふみ)あり。「森君のもとにて、田中ぬしの紀行よろしきよしに付、本名、宿処、報道あり度し」となり。返事つかはす。奥田君来訪。
十一日 師君のもとへ行く。田中ぬしも盆礼として来訪。雑誌の事を語るに、喜色あふるゝやう也。師君いかなるにか、衣類その他を質入して金子をとゝのへ給へるよしにて、加藤の妻より、我れは金子をうけとる。師君ははやく出稽古に趣給ひぬ。此日、日ぐれ前より雷雨、中々に晴がたし。夜に入りてより帰宅。佐藤、盆礼に来たりしよし。
(先生はどういうわけか、衣数などを質入れなさってお金を準備なさったとのことで、私はそのお金を加藤の未亡人から受け取る。)
7月12日
清国、文廷式の上疎。北洋海軍の無能を攻撃。ロシア一辺倒の李鴻章の外交政策批判(ロシアの南下阻止こそ重要)。即時、清国軍の韓国派遣要求。
7月12日
閣議、イギリスの調停を清国が拒否したことを理由に、清国に対し今後不測の変があっても日本はその責に任ずることはできない旨の声明発する決定。小村代理公使に電訓(「第2次絶交書」)。陸奥外相は、大鳥公使に対して「訣別類似の電訓」(世界の非難が最小になるような口実を選び積極的行動を始める)を送る。
同日、陸奥、青木駐英公使に清国との紛争が重大化した為、イギリスとの条約調印を急ぐよう指示。青木公使はイギリス政府に、14日迄に調印しうるならば帽子・砂糖の関税については譲歩すると告げ、イギリス政府はこれを承諾。
「清国トノ葛藤愈々切迫セリ、可成条約調印ヲ急ガレタシ」と打電し、調印に必要な一切の条件を譲歩せよと命じる。
同日、大鳥公使の特命を帯びて帰国した外務省参事官本野一郎、福島中佐、清国軍を朝鮮から駆逐しないと内政改革の見込みなしと外相・参謀本部に上申。
翌日、両名は京城に帰任。陸奥外相は「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令を託す。
「国民新聞」、「朝鮮に対する発言権は我が邦の独占に帰したるものなり」。
7月12日
一葉、桃水を訪問。変わらぬ桃水への思慕と「潔白清浄」に生きて貞節を守ると願う。
「十二日 到来物のありしかば、半井君を訪ふ。めづらしくこゝろよげにて、にこやかに物がたらる。されども、来客のありければ、長くもかたらで帰るに、「いづれちかくに御音(おおと)づれ申べし。十五、六の両日のうちに、雷雨なくはかたらず」といふ。たけくをゝ敷此人のロより、かみなりの恐ろしきよしを聞こそをかしけれ。」
(「いずれ近いうちにお訪ねするつもりです。十五日か十六日のうち、雷や雨がなかったら必ずお訪ねしますよ」とおっしゃる。強そうで如何にも男らしいこの方の口から、雷が恐ろしいなどと聞くのは、可笑しい気持ちでした。)
「静かにかぞふれは、誠や、此人とうとく成そめぬるは、をとゝしのけふよりなり。隔たりゆく月日のほどに、幾度こゝろのあらたまりけん。一度は、これをしをりにして悟道(ごどう)に入らはやとおもひつる事もあり。一度は、「ふたゝびと此人の上をば思はじ。おもへばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。諸事はみな夢、この人こひしとおもふもいつまでの現(うつつ)かは。我れにはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし」と、あきらめたる事もありき。そもそも思ひたえんとおもふが我がまよひなれば、殊更(ことさら)にすつべきかは。冥々の中に宿縁ありて、つひにはなれがたき仲ならばかひなし。見ては迷ひ、聞てはこがれ、馴ゆくまゝにしたふが如き我れならば、遂に何事をかなしとげらるべき。かく計(ばかり)したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如(ごと)かるべし。悟道を共々(ともども)にして、兄の如く妹のごとく、世人(よびと)の見もしらざる潔白清浄なる行ひして、一生を送らばやとおもふ。」
(心静かに数えてみると、本当にこの人との間が疎遠になり初めたのは一昨年の今月からでした。その後、月日がたつにつれて私の心は何度変わって行ったでしょうか。或る時はこれを栞として悟りの道に入ろうと思ったこともあり、また或る時は、もう二度とこの人のことは思うまい、思うからこそ色々の悩みが湧いてくるし、人生はみな夢のように消えるのだから、この人を思う現実の心も何時まで続くとも思われず、こんな迷いの中に沈んで行くことの何とはかない事よとあきらめた時もあったのでした。しかし、あきらめようと思うこと自体が迷いなのだから、わざわざあきらめる必要もないように思われる。お互いに知らなくても、それぞれに前世からの因綾というものがあって、離れられないものならば、それも仕方のないことと思う。お逢いしては恋しく思い、お声を聞いてはますます焦がれて行くような私ならば、結局はこの一生を何もしないで終わるのでしょうか。こんなにも慕わしく懐かしいこの人に対して、思う事も言わず、愚痴も言わずに、ひたすら気持ちを抑えてばかりいると、恋の心はかえって大きくなり、大河の流れを塞いでかえって水を溢れさせるようなものでしょう。そこでお互いに悟りの道に志して、兄のように、また妹のように、世間の人がまだ誰も知らないような潔白清浄な関係でこの一生を送りたいと思うのです。)
7月13日
朝鮮政府、議政府に校正局をおき、総裁官・堂上を任命。
7月13日
ロシア公使、陸奥外相に対して、日本政府が出した撤兵勧告の拒否回答を了承する旨の書簡を渡す。
7月13日
対韓同志会(志賀重昂・徳富蘇峰ら)、緊急会議。開戦促す。この頃、「国民新聞」など新聞論調も強硬論。
〈陸奥「蹇々録」が語るこの頃の動き〉
「明治二十七年七月十三日付を以て、青木公使は余に電稟して日く、『本使は明日を以て新条約に調印することを得べし』と。而して余が電信に接したるは抑々如何なる日ぞ。鶏林八道の危機方に旦夕に迫り、余が大鳥公使に向ひ、『今は断然たる処置を施すの必要あり、何等の口実を使用するも差支なし、実際の運動を始むべし』と訣別類似の電訓を発したる後僅かに二日を隔つるのみ。余が此間の苦心惨澹・経営太忙なりしは実に名状すべからず。然れども今此喜ぶべき佳報に接するや頓に余をして積日の労苦を忘れしめたり」(「蹇々録」)。
つづく
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