2024年4月27日土曜日

大杉栄とその時代年表(113) 1894(明治27)年7月14日~19日 『小日本』廃刊(子規、『日本』に戻る) 清国は避戦論が主流 日英通商航海条約調印 大本営御前会議。開戦やむなしと決定 一葉・桃水の交流再開 子規『文学漫言』 陸奥訓令「此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。、、、而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む」 大鳥公使、朝鮮政府に最後通牒   

 

1894日英通商航海條約

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令 より続く

1894(明治27)年

7月14日

桃水が明日来ると思うと夜更けまで眠れなかった。

「十四日 小石川稽古にゆく。榊原家よりゆかた地、中村君より帯止、はんけち到来。此夜更(ふく)るまでねぶり難し。あすの雷雨いかにや。」

7月14日

青木駐英公使、英キンバリー外相より、朝鮮における朝鮮政府雇教師・イギリス海軍コルドウェル少尉解雇要求、仁川における軍事電信線架設に関して抗議をうける。15日、陸奥外相は事実を問質すいとまもなく「事実無根」と青木公使に返電。

7月15日

徳富蘇峰のこの日付け「国民新聞」、「好機とはなんぞや。いうまでもなし、清国と開戦の好機なり。別言すれば、膨脹的日本が膨脹的活動をなすの好機なり」と述べ、開戦を決意しなければ清国の風下に立ち、朝鮮への威信を失う、と戦争を煽る。

7月15日

桃水が鶏卵の折を持って一葉を答礼に訪れる。桃水の外見を称賛する。


「十五日 はれ。早朝、芝の兄君来訪。少し物がたるほどに半井君参り給ふ。少し面やせたれども、その昔しよりは、いげんいよいよ備はりて、態度の美事なるに、一楽織(いちらくおり)のひとへに嘉平次のはかま、絽(ろ)にてはあるまじき羽織のいと美事なるをはふり給ふ。門に車をまたせ給へるは、長くあらせ給ふべきにあらじとて、しゐてはとゞめず。鶏卵の折到来。兄君は日ぐれまで遊び給ふ。夜に入りてより、西村の礼助来る。此夜の月、又なく清し。」


7月15日

『小日本』廃刊により、子規、『日本』に戻る。

7月中旬

子規、上野の山を散策。御成道から広小路を経て山内へ。彰義隊の墓を見、浅草を遠望、清水堂・摺鉢山・博物館・寛永寺(中略)東照宮・不忍池と一時間漫遊(「上野紀行」)。

7月16日

朝鮮政府、日本軍撤退・実施期限の撤回が内政改革の前提と回答。

7月16日

・李鴻章、総理衙門の要求に対して北洋陸軍3万のうち1万5千を動員する計画を示す。この日、軍機処と総理衙門の合同会議。皇帝派李鴻藻・翁同蘇は主戦論を唱えるが、多数は避戦論をとり、朝鮮に対する藩属体制が維持できるなら多少の譲歩やむなしとの結論となる。

7月16日

内村鑑三(33)、箱根での第6回基督教青年会主催の夏期学校で「後世への最大遺物」を講演。

7月16日

「●京城別信(七月八日発) 内外通信社員報」(『日本』7月16日)。

黄海・平安の両道で人々が集まり,何かを協議していることがわかる報道で,同時に「東徒は閔族の跋扈を根本より駆除し地方の施政上に一大改革を見さる間は仮令一時潜伏して平定の観あるも到底再勃の憂を免れさるべし。」とある。東学農民運動に対して反閔族の改革派としての役割を期待。記者は、清国との戦争の前の段階で,東学農民運動も改革派として動けば日本に有利になると判断している。

7月16日

ロンドン、日英通商航海条約調印。青木公使の弁解が効を奏す。条約改正成功。日本は国際社会構成国候補者の地位をえて対清開戦準備は完了

領事裁判権は撤廃、一部の輸入関税が引上げられる。重要品についての関税自主権は回復されず、完全に対等な条約とは言えないが、明治維新以来の悲願が実現した意義は大きい。新条約は5年後の明治32年から実施される。イギリスが改正に応じたのは、トルコ、アフガニスタンなどで英国と対立するロシアがシベリア鉄道建設を進め北東アジア進出を狙っており、ロシアを牽制する為にも日本を抱き込む必要がある。

イギリスは、清国に日本の要求を受入れさせる為の連合干渉を列強に提議、列強は同調せず。イギリスの東アジア政策の支点が清国から日本に移りつつある事を示す。孤立したイギリスは、日本が親英政策をとることを確認し、条約に調印。青木公使は、日本が「一躍シテFellowship of nationsノ仲間入相整フタル」を祝し、キンバリー外相も条約調印は日本の国際的地位に、「清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ、遥カニスグレタ結果ヲ与エタ」と指摘。

7月17日

最初の大本営御前会議。開戦はもはややむなしと決定。清国に24日、朝鮮に22日を期限とする最後通牒を送る。同日、海軍中将樺山資紀が特旨で現役復帰し軍令部長に就任。この日、大鳥公使より朝鮮王宮占領許可を求める請訓が到着。

7月17日

一葉の日記より


「十七日 平田君より書状来る。避暑として奥羽の旅にのぼりしよし。雑誌(「文学界」への寄稿)のこと申来る。」


「十九日 小説「やみ夜」の続稿いまだまとまらず。編輯の期近づきぬれば、心あわたゞし。此夜、馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、「明日の編輯を明後日までにのはし給はらずや」と頼む。」

(「やみ夜」は「文学界」第19,20,21号に掲載される。第1回分として一葉が送った「その一・二」では短いので、つづくを依頼されていた(7月17日)が、20日の締め切りには間に合わず、21日まで待って貰うよう頼む)

(7月20日頃)一葉より桃水への手紙

この頃、桃水は病気療養の為、三崎町の店を従妹の河村千賀子に譲り、丸山福山町に近い西片町の旧宅に戻っている。一葉が越して来てからは、桃水はよく立ち寄るようになる。15日にも来訪している。この月あたりから桃水との交流が密になる

そして7月15日。たまたま次兄の虎之助が来ている時、桃水が立ち寄った、卵一折りを持参して。なぜか人力車でやって来て、外に待たせてあるとのことで、長くはいられない様子。無理に引き留められなかった。一葉は内心、拍子抜けしたのではないだろうか。この手紙は、桃水のおちつかない訪問の後に書かれたもののようである。

暑さはげしく候所いかゞいらせられ侯や御様子伺度朝鮮もやうやうけしきだつ様に承り侯間もしおぼし召立もや御ちかくながらつねに拝姿も得がたければ人のうわさのさまざまに驚かされて胸とゞろかれ申候 よは虫と笑はせ給ふな一筋に兄上様と頼み参らする身の心ぼそさ故に御坐候

もしその後の御立寄もやと待わたりまゐらせ候日数も今日はいくかに成候はん 御めにかゝらばしみじみお話も申上御をしへにもあづかりたしとはかねての願に御坐候を此ほどのやうに他人行儀の御義理合ひに御出下され候ては何事を申上らるべき

さりとは御恨みにも存じ候 御心もしらず御詞(おことば)一つをたのみに我れ一人妹気取のおろかさよしや世間のうくもつらくもお前様おはしませばと心丈夫にさだめて大海を小ぶねにて渡る様な境界み捨給はゞ波の下草にこそ候はめ

はるかに成し月日をかぞへ候へば私はお前様の御怒にふるゝ様なる事斗かさね申居候 罪は心浅き我れにあれば今更に人はうらまねど後悔のおもひにかきくらさるゝ朝夕をせめてはおもふほどのこと御聞にいれて御詫のかなはゞうれしかるぺくそれむつかしくはよそながら我心のうちにだけ兄上様とたのみ参らするを御ゆるしいたゞき度さりとて夢さらあやしき心ありてにはあらずかねての御気質をしれば何としてその様なこと申上らるべき唯々隔てなき兄弟の中ともならばとこれのみ終生の願ひに御坐侯をけふ此ごろのおぼしめし量がたさにおもひ侘申候

夕風すゞしからんほど御そゞろあるきのお序と申様な折に御はこびは願はれまじくや しゐては申がたけれどこれは欲の上の欲に御坐候

                                    かしこ

                                    夏子

師之君

    御前

*「朝鮮もやうやうけしきだつ様に」

対馬藩の藩医であった桃水の父は、版籍奉還(1869)後、釜山に渡り、倭館の医師をつとめた。倭館というのは(徳川時代、幕府から朝鮮外交を委任された対馬藩が釜山に設けていた施設。朝鮮外交を行うと同時に、藩営貿易によって収益を上げる、外交館兼商館という性質を持つもの)(上垣外憲一『ある明治人の朝鮮観 - 半井桃水と日朝関係』筑摩書房)。桃水は12歳の時、対馬から父のもとへ行き、そこで暮らし、朝鮮語を身につけた。後に東京で英学を学び、明治14年(1881)から大阪朝日新聞社の通信員として釜山に駐在。翌15年には『春香伝』を翻訳して『大阪朝日新聞』に連載した。また、この年、壬午事変(軍乱)が起こったので、同新聞に現地からの通信を連日送り評判になった。その後情勢の変化により、朝鮮問題について思うように記事が書けなくなった。しかし、明治21年(1888)から東京朝日新聞社の小説記者として『胡砂吹く風』を善くなど、つねに桃水が朝鮮の現実と動向に深い関心を抱いていたことを一葉はよく知っていた。

そこでまず、朝鮮のことを前文としたのであろう。

先日(15日)のせわしない(他人行儀)な訪問に対して残る恨めしさ、そして(その後の御立寄)を心待ちしていましたのに、と少し甘えるように、またしても(兄上様)(妹気取)〈兄弟の中)ということばを用いつつ、回想と反省をこめて、ふたたびの交際を、と迫っている。

これによって想像されるのは、3月末の復交以来一葉は屡々桃水を訪ねていることである。しかし、明治27年の「日記」は3月の後半〔3・29以降〕を欠き、4月以降は大半の記載がなく7月23日に筆をとめて、以後翌年に至る約5ヶ月間の記録を失っている。偶然の散佚か故意の破棄か、著作の多忙にまぎれたためか。

7月18日

子規『文学漫言』(『日本』連載~28日)。


「・・・・・俳句で、どのような文学表現が可能になるのか。「文学」としての「俳句」がどのようにあるべきなのかを、それまでの二項対立的認識を組み替えながら・・・・・論理化しようとした・・・・・


曰く先づ改良の第一着として和歌俳句の調和を謀らざるべからず。其調和を謀るには先づ和歌の言語に俳句の意匠を用ゐるを以て第一とす。和歌の言語とは単に雅言を用ゐ古文法を用うるの謂(い)に非ず。俳句の意匠とは固より俗情を穿(うが)つの謂に非ず。一言にして之れを云はゞ三十一文字の高尚なる俳句を作り出たさんとするに在るなり。


先に子規が主張していた「短篇」文学としての「和歌俳句」を「国粋」とし、その「調和を謀る」こと。その方法は「和歌の言語」に「俳句の意匠」を用いることだと子規は『文学漫言』 の結論として主張している。

この「和歌俳句」こそ「国粋」であるという主張の前提には、二項対立的布置によって「文学の種類」を論じた「内国と外国」における、地政学的な短詩型文学論の論理的前提がある。

子規は、まず「西洋」と「東洋」を対比し、「東洋」と言っても一元的ではないとして、「支那文学」と「本邦文学」を対比的に論じていく。「本邦文学」は、常に「外国の刺撃を受け外国文学の幾分を輸入し」たことによって大きく「変動」しており、「一概に」「本邦文学」と規定するわけにもいかないとしながらも、「支那文学」と「本邦文学」における四つの違いを抽出している。


第一彼は簡潔を尚(たつと)び我は紆余(うよ)を尚ぶ。第二彼は雄渾壮大に長じ我は優美繊柔に長ず。第三彼には言語多く我には言語少し。第四彼には長篇多く我には短篇多し。


第一の違いは、表意文字としての漢字を使用する「支那語」と、芭蕉論において子規が意識化していた「響き長くして意味少き」「国語」との違い。この二項対立的枠組で考えるなら、中岡文学は短くなり、日本文学が長くなるはずなのだが、子規は「第四」の違いとして中国文学には「長篇」が「多く」、日本文学には「短篇」が「多」いとしている。それはなぜなのか。その理由は、「第二」「第三」の違いによって説明されている。

「第三の理由」はわかりやすい。「言語」の数において「支那語」は「殆んど窮(きわま)りなし」だが、「固有の邦語」は「指を屈して」「数」えるほどしかない。

単純ではないのが、「第二」の理由だ。ここに子規の文学的地政学があらわれている。中国文学が「雄渾壮大」なのは、「言語」だけではなく「天然の国土風光」の在り方に規定されていると子規は主張する。すなわち、「支那」の国土のはばと広さは「数千里に度る」「大国」であり、「大河あり大山あり大廈(たいか)あり大都あり」と、全て「壮大」である。

それに対し日本の場合は「山水秀媚」で、「数百里の小国」であり、「山美なり海美なり家美なり街美なり」という「国土風光」だからこそ、文学も「優美繊柔」になる、と子規は強調する。「美」によって貫かれた「国土風光」を持つ「小国」にふさわしいのは、「短篇」の「韻文」としての「和歌」と「俳句」であり、この二つのジャンルの「調和」をはかりながら改革していくことこそが、「国粋を発揮」していくことになる、と子規は言う。この「小国」の文学論が、『文学漫言』の結論を導いていく。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


7月18日

李鴻章から平壌移駐を命ぜられた葉提督、海路移動は危険な状況で、むしろ現地を固守すれば、し日本軍の京城・釜山連絡船を遮断できるので増援部隊を要請。

19日、李鴻章、天津付近の部隊2,300に出動命じる。

7月19日

大鳥公使より、朝鮮政府が日本軍の撤退を要求し内政改革の日本案を拒絶した。清韓宗属関係破棄などを実行するまで王宮諸門を占領する「乙案」実行準備着手を伝える。天皇は、外相の考えを確認するよう徳大寺侍従長に命じる。陸奥は、大鳥公使に「このときに当り、閣下は自ら正当と認むる手段を執らるべし」と訓令。但し、「我兵を持以て王宮及漢城を囲むるは得策に非ずとおもわれば、之を決行せざる事を望む」と付け加える。

「7月19日午後6時発

                    東京 陸奥大臣

 京城 大鳥公使

朝鮮国政府改革案の拒絶に対し適宜の処置をとるべき旨訓令の件、朝鮮政府は遂に我が改革案を拒絶したる件に関する貴電接受せり。此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。併し本大臣の51号電訓の通り他外国と紛紜(ふんうん)を生ぜざる様充分注意せらるべし。而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む


19日、大鳥は旅団長大島に面会し開戦への協議を行う。

同日、大鳥公使は朝鮮政府に2つの要求を提出。

(1)京釜電線代設工事強行通告

(2)日本軍警備兵宿舎設置要求


回答の期限は7月22日、3日後である。「最後通牒」(Ultimatum)である。

7月19日

大本営、連合艦隊編成(司令長官伊東祐亨(すけゆき)海軍中将。朝鮮西岸を制圧し清国増援隊阻止派遣阻止命ずる。京城の混成旅団長(大島義昌少将)には、清軍の増加ある場合は「主力を以て眼前の敵を撃滅すべし」と命じる。この日、陸奥外相は西郷海相に対し、対清覚書の回答期限(24日)であり、25日以降の行動の自由を保障。



つづく


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