2024年4月28日日曜日

大杉栄とその時代年表(114) 1894(明治27)年7月20日~27日 一葉の隣家の銘酒屋「浦島」にいた小林愛(あい)が逃亡、一葉に保護を求める。一葉は救済に奔走する。 「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也(一葉の日記) 

 

鏑木清方〈にごりえ〉

大杉栄とその時代年表(113) 1894(明治27)年7月14日~19日 『小日本』廃刊(子規、『日本』に戻る) 清国は避戦論が主流 日英通商航海条約調印 大本営御前会議。開戦やむなしと決定 一葉・桃水の交流再開 子規『文学漫言』 陸奥訓令「此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。、、、而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む」 大鳥公使、朝鮮政府に最後通牒 より続く

1894(明治27)年

7月20日

漱石、夜、狩野亨吉を訪ねる。

7月20日

一葉の隣家の銘酒屋「浦島」にいた小林愛(あい)が逃亡、一葉に保護を求める。一葉は救済に奔走する。


「隣家に此ほどよりかゝり居る女子あり。生れは神戸の刀剣商にて、然るべき筋の娘なれど、十六の歳より身の行(おこなひ)よからで、契りしは何某(なにがし)の職工成ける。父なる人の怒にふれて、侘しき暮しを二、三年がほどなしつる。かゝりしほどに、男子一人まうけて、二人が仲にはあくこゝろもなかりしを、男の親の心あしく、此女(このむすめ)いかにしてもかくてあられぬ時は来りぬ。「今はせんなし」とて、別れて家にかへる時、子は我が方につれもどして、その身はそれより大坂中の島の洗心館に仲居といふ物に成りて、ことし五年がほど過ぬ。さるほどに、此女生つき闊達の気象、衆客の心にかなひて、引手あまたの全盛こゝにならぷ物なく、「洗心館のお愛」と呼ばれては紅葉館のお愛と東西に嬌名(けうめい)たかく、「我ぞ手折(たをり)て我宿の」と引かるゝ袖の、さりとはうるさや。「一つ心を、ぬし様に」と思ひこみぬるは、かの地に名高きぼう易商、こゝにも人ぞしる森村市蔵が一家に、広瀬武雄とてとしは二十六、当世様(たうせいやう)の若大将。粋(すい)は身をくふ合(あひ)ぼれの仲おもしろく、互にのぼる二階三階、せきはとゞめぬ帳場の為にも、「大尽客」とて下にものひゞきに成りて、岡(をか)やき半分なぶらるゝ。座敷の数は昔しのまゝとても、我が手にのらぬそれ鷹(たか)のねらひたがへは、互がひの上にもみゆるぞかし。まけじ気性は今更の恋に火の手つのりて、「御免候へ。我にも可愛き人一人。のろけはならひぞ。うら山しくは真似ても見給へ。花を見捨る裏住居(うらずまひ)も、ぬし様故なら大事なき身」と、おもて晴たる取なしに、「長くはあられぬ此家(このうち)をはなれて、共に」と計(ばかり)、息子も折ふし使ひ過しの詮議むづかしく、こゝの支店に左せんの身となれば、とるや手に手を「鳥が鳴(なく)」とはふるし、「東(あづま)に行てしばしの辛抱を」と、「落人」ならねど人前つゝましき二人づれの汽車の中、出むかひの手前は、「さる大家の姫様、学問修業にこれへとあるを、我れに托されて同道」とくるむれど、誰が目に見てもそれ者(しや)あがりのなりふり。さりとはむづかしの乳母(うば)のもとに、しばしの宿をととゞめける。「我れも家(か)とくは四、五年の後なり。部屋住(へやずみ)の身の思ふにまかせぬほどは、そなたも修業ぞや。つらくとも堅気の家に奉公ずみして、やがて花咲く春にもあはゞ、仮親(かりおや)もうけて『奥様』とはいはすべし。頼む」とありけるぬしが詞(ことば)勿体なく、骨身にきざんで「さらは」と出立(いでた)てば、全盛うつたる身に、一人女子のはしり使ひ、何としてたへらるべき。我れこらゆれども、お主様(しゆうさま)御気(おき)に人らねば甲斐なや。出もどりの数を尽して、「乳母の手前はづかしや」と、こしらへ言の底情なくわれて、「京の大家(たいけ)の姫様と聞ましたるは偽り、九尾(きうび)の狐の、我が若旦那様手の中にまろめて、手だてあぶなや。大切は若旦那様が上」とて、乳母が怒りに取つく島ふつとはなれて、我とはとかぬとも綱に、行衛は波のわた中を、流れ小舟の身の上助くる人なくて、乳母が前への謝罪(わび)はこれと、をしや、三日月の眉ごそりとそりぬ。

「すくひ給へ」とすがられしも縁(えん)也。「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也」

*「隣家」:「浦島」または「浦島や」と呼ぶ銘酒屋。

*「洗心館」;大阪市北区中之島にあった一流の貸席。仲居は客に応接し、その用を行なう女中。

*「紅葉館」;芝公園地にあった料亭。政財界人の出入りが多かった。

*惣はつぴ:料亭で働く男衆に、一種の祝儀として与えるもの。

*紙花:祝儀

*我が・・・・:鷹匠の放った贋が主人の手にとまらないでほかの所に降りてしまうこと。

*三日月の眉ごそりとそりぬ。:娼婦に身を売った。


小林あいは、神戸の刀剣商の娘で、16歳である職工と懇ろとなり男の子をもうけるが、その後別れることになる。子供は実家に連れ戻し、自分は大阪中の島で仲居として住み込む。ここで貿易商の息子と知り合い結婚。しかし夫は浪費の為に東京支店に左遷される。東京に来ると、夫は、自分が家督を継ぐのは4、5年先なので、それまでは堅気の家に奉公して時節を待てと言われる。彼女はそれに従うものの、堅気の勤めには耐えられず、何回かの出戻りの後、夫の乳母に愛想をつかされ「浦島」に追放される。

縋られた一葉は、「東女がどんなものか、狭けれど此の袖のかげにかくれ給え」と引受ける。

「文学界」への原稿(「暗夜」)が出来上らなくて悩んでいる最中である、あいの救済に乗り出す。翌日、田中みの子に匿ってくれるよう頼むが断られ、次いで中島歌子にも頼むが、「我も君も前途に一大障碍を来すべし」と引受けてくれない。

万策尽き、結局あいを夫もとにを行かせることにして、隣家からこの夫の行き先を聞き出したところで、日記が中断している(7月20日~11月8日の日記はない)。

その後、お愛は神戸の実家に引取られ、広瀬武雄が家督を相続するのを待つことになる。

1年後の明治28年11月3日の日記に、

「神戸の小林あい子より松たけ一籠おくりおこしたるを、いひにたきて集(あつま)りてたうべぬ。」

とあり、うまく決着したと推測できる。


(「隣の家にこの間から身を寄せている小林愛という女がいる。生まれは神戸の刀剣商で立派な家の娘だが、十六歳から品行が良くなく、同棲したのは何とかいう会社の職工でした。父親の怒りにふれて人目をはばかる生活を二、三年ほどしていた。その間に男の子が一人出来て、二人の仲は飽くこともなく暮らしていたが、男の親は心の悪い男で、この女もどうしてもこのままではいられなくなった。今は仕方がないと別れる時に、子供は自分の方に引き取り、自分は大阪中の島の洗心館という料亭の仲居になって、今年で五年ほどになる。さてこの女は生まれつき朗らかでさっぱりした気性なので、客受けもよく、引っ張り凧の全盛ぶりは他に並ぶ者もなく、「洗心館のお愛」と呼ばれ、東京の紅菜館のお愛」とともに東西の美人との評判が高く、自分の愛人にという客が、うるさいほどに袖を引くのでした。その中でこの女が思い込んだ相手は、有名な貿易商で世間に名の知れた森村市蔵の部下の広瀬武雄という二十六歳の現代風の若大将でした。道楽は身を食うほどの相思相愛の楽しい仲となり、二人はますます燃え上がり、その大散財に店では下にも置かぬもてなしでした。女も、ぬし様の顔を立てようと見栄を張り、店の者にも揃いの法被を着せたり、女中たちにもお金をばら撒いたりしたため、可真相にもお金につまり、両手の指にはめきれないほどの金の指輪を、一つ目は内緒に、二つめはそっと、さらに三つ四つとすべて売り尽くしてしまったので、他の客たちからはねたみ半分にひやかされるのでした。お座敷の数は昔通りに多かったが、男も女もどうにもならない状態になってしまった。負けず嫌いのこの女の恋はますます燃えつのり、

「お許し下さい。私にも愛する人が一人いるのです。のろけを言うのはこの世界では普通のこと、羨ましかったら皆さんも私を真似てなさればよい。花にそむいたみすぼらしい裏町住まいでも、あの方のためなら何とも思いません」

と言って、表だってのお世話で、どうせ長くはおれないこの家を出て、この男と一緒に暮らすことになったのでした。男の方も使い込みの取り調べがうるさくなり、東京の支店に左遷されることになった。手に手を取り合い、鶏が鳴く東の国の東京に行って、しばらく辛抱しょうと、都を落ち行く武士ではないが、汽車の中では人前もはばかられるつつましい様子で東京へ出て来たのでした。男は出迎えの者に、

「ある大家のお嬢さんが学問修業に上京されるのを、私が頼まれてお連れした」

と、うまく言い包んでも、誰の目にも芸者か玄人あがりの女に見えたのでした。そしてうるさい乳母の家にしばらく身を置くことになったのでした。

「私もあと四、五年もすれば家督を継ぐことになる。それまでの部屋住みの身で思うにまかせない間は、お前も修業と思ってくれ。そしてつらくても堅気の家に住み込み奉公をしてくれ。そのうち好い時期が来ら仮親を立てて正式に妻として迎えようと思うから、是非そうしてくれ、頼む」

という男の言葉が勿体ないほど骨身にしみて、女は奉公に出たのでした。しかし花柳界で全盛をうたわれた女のこととて、どうして一人で女の走り使いの什事が出来ましょうか。自分は辛抱をしても使い主が気に人らねは仕方のないこと。勤めに出ては戻り、出ては戻りと何度も繰り返すのでした。乳母の手前は恥ずかしく、何とかこしらえ言でごまかしても、それもばれてしまい、

「京の大家のお妓様というのは真赤な嘘。人をだます九尾の狐め。私の大事な若旦那様を手の中に丸め込もうとする、その手練手管の何と恐ろしいこと。かくなる上は、大切なのは若旦那様のこと」

と怒り狂う乳母にはとりつくしまも全くなく、自分では切らなくても、とも網を切られた小舟のように波のまにまに流れて行く身を助けてくれる人とてもなく、

「乳母様をだましたことの謝罪は、これでどうぞお許しを」

といって美しい三日月のような眉をきっぱりと剃り落としたのでした。

「どうぞ助けて下さい」

と、この私がすがられたのも何かのご縁があったからでしょう。私には身分不相応の重荷ではあったのですが、

「引き受けた以上は、お前様はこの家の娘も同然のもの、私の言うことを聞いて貰わねばなりません。この私という東女の心意気がどんなものか見せてあげよう。狭いけれどもこの袖の陰に隠れて、しばらくの間、時期が来るのをお待ちなさい」

と引き受けたのが、実は今日のことでした。)


「二十一日 早朝、孤蝶君よりはがき来る。「続稿は二十二日中にてよし」とのこと、嬉しき人也。今日午後より田中君のもとを訪ひて、お愛がしばしの宿にたのまんとす。日ぐれ少し前よりゆく。留守成しかど、しばしまつ。かにかくと断(ことわり)がましく言を左右に托せど、「見かけて頼みし我れに対し、『厭(いや)』とあらは、お前様(まえさま)女子(おなご)にはあるまじ。横に車かしらず、長くとにはあらず、二月か三月、それもむづかしくは一月にてもよし」とて、をしつかへしつのはてに、「さらは試(こころみ)に二日がほどをよこし給へ」といふ。雷雨はげしく、かへりは車にて送らる。」

(二十一日。早朝、馬場孤蝶氏からはがきが来る。続稿の〆切は二十二日中でよいとのこと。有難い人です。今日は午後から田中みの子さんを訪ねて、お愛のしばらくの宿を頼もうと思う。夕暮れ少し前から行く。留守だったので、しばらく待つ。あの人も色々と言葉を濁して断りたげに言う。

「あなたと見込んで頼んだ私に対して、いやとおっしゃるならば、あなたは一人前の女とは言えませんよ。横車を押すことになるか知りませんが、長くとは言いません。二月か三月、それも無理なら一月でもいいのです。」

と言って、お互いに言い合った揚句、

「そんなに言うのなら、試しに二日間はどよこしなさい」

と言う。雷雨が烈しく、帰りは車で送ってもらう。)

(二十二日。晴。今朝「やみ夜」の続稿を孤蝶に郵送する。

朝鮮での開戦が近づいてきた。青山胤道は次第に快方に向かい、北里柴三郎は香港出立とのこと。北航端艇の郡司大尉が帰京するが、昨年の出発時に比べればあまりに寂しい出迎え。

(日清政争に関しては、これ以降、一葉の日記上は関心の跡は見られない))

「二十三日 早朝、田中君より断(ことわり)の手紙来る。「まことはうしろぐらき処ある人の、我れにはひたすらつゝまんとする物から、我よりつかはしたる女子に家内の様子しれなば、つひには身の為よからじ、との心なるべし。あな狭の人ごゝろや」などをかし。さるにても、お愛のなげき一方(ひとかた)ならず。「いかでかく非運薄福の身」と打なくさま、哀れにいぢらしければ、「さらば今一度、我が師のもとを訪ひて頼みてみん」と、家を出づ。師には事情(わけ)残りなくうちあけて頼み聞えたるに、師は、「その人となりの表面上よろしからざるに、これを引うけてかくまふといはゞ、我も君もこれよりの前途に一大障碍となりて、遂に救ひがたき大難を生ずべし」とて、聞入れ給はず。今はかひなし。帰宅後、猶よくおあいと相談す。「さらば一直線に武雄ぬしのもとを訪ひて、諸事談合の上に、いか様とも策のほどこし方はあるべし。木挽丁は物の表にして、これにはつくろひもあるべし、はゞかりもあらん。武雄ぬしとの仲は紙一枚の隔てなく、かくしだての入るべきならず。又、よしや世人(よびと)は何ともいへ、君にしていのちと頼むは此人なるべし。箱根にいますと定まりたらは、宮の下か芦之湯か、いづくまれ、尋ねてしれぬ事はあらじ。

いざ給へ。行て逢見て後(のち)の事」とうながすに、「さらば」と思ひ起して直に支度す。

隣家の妻がとゞむる(ことば)詞のうるさかりしかど、さまざまに頼み聞えて出づ。出がけに、「木挽町より帯取寄る為」とて、文したゝむ。隣の妻が名前にて、「ぬしのありかしれ居らば、此文のはしにしるし給へ」とかく。

送りし車夫(くるまや)の帰りしは、午後三時過る頃成し。首尾よく策の当りて、宿処(やど)を教へたるよし、まづはうれしかりしに、「隣家の主(あるじ)帰宅の後、直(すぐ)に木挽丁に実事(まこと)打あけん」といふ。「そはよろしかるまじ」とてとゞむるに、猶くどくどとのゝしりて、乳母のかたへの義理を思ふ。哀れなるは小人(せうじん)、とるべき道をあやまりたるの人なり。」

(二十三日。早朝、田中みの子さんから断りの手紙が来る。本当の理由は、みの子さん自身もうしろ暗い所がある人なので、それを私には隠そうとしているのですが、こちらからやった女の子に家の事情が知れたら、つまりは自分のためにもよくないと思ったからの事でしょう。何と心の狭い人よと、可笑しくなる。

(田中みの子は玄人上がりという噂があり、一葉もそれを信じていた))

それにしてもお愛の悲しみようは一通りではなく、

「どうして私はこんなに運が悪く、幸福から縁遠いのだろう」

と欺き悲しむ様子が気の毒でいじらしいので、

「それではもう一度、私の先生をお訪ねして頼んでみょう」

と家を出る。先生には事の事情をすっかり打ち明けてお頼みしたのに、先生は

「その人のこれまでの経歴が世間的に見てよくないのが第一、さらにその上にこの人を引き受けてかくまうとなると、私にもあなたにも今後の大きな障碍となって、遂にはどうにもならないような難儀な車が起こるかもしれないのですよ」

と言って、承知なさらない。

(田中みの子には本当のことを話さずに頼んだが、中島歌子には愛が駆け落ちであることを話した)

今はもうどうにも仕方がない。帰宅。そのあとお愛とよく相談する。

「それでは一直線にずばりといとしいと思う広瀬武雄さんの所を訪ねて行きなさい。そして万事を相談すれば、どうにでも解決の方策がきっと出てくるでしょう。木挽町の乳母の方はいわば表面のことですから、これには辻褄もあわせねばなるまいし遠慮もあるでしょうが、武雄さんとの間は何の隔てもなく、隠し立てなどいらないのです。また世間の人が何と言おうと、あなたにとって命と頼むのはこの人でしょう。箱根におられるという所まで分かっているのなら、それからは宮の下であれ芦の湯であれ、どこまでも探して行けば、尋ねて分からないということはないでしょう。さあ、出かけて行きなさい。行って、逢って、それからの事ですよ」

とせきたてると、お愛も気をとり直して、すぐに支度にかかる。

お愛が身を寄せている隣の家の妻君がうるさく引き留めるが、色々に話して頼み、行かせることにする。出かけるときに、木挽町の乳母のところから帯や衣類を取り寄せるためにといって手紙を書く。隣の妻君の名前で、

「武雄さんの住所がわかっていたら、この手紙の端に記して下さい」

と書く。

送って行った車夫が帰ってきたのは午後三時過ぎごろでした。うまくこちらの計略があたって、住所を教えたとのこと。これでよかった、先ずは一安心と思っていると、隣の家の主人が帰って来て、

「すぐに木挽町の方に、事の事実を打ち明けて知らせてやろう」

と言う。

「それはよくないでしょう」

と、引きとめても、なおくどくどと私のやり方をののしって、乳母の方の義理ばかりを思って言うのでした。この人も何と可哀相な小人物よ。とるべき道を誤った小人物というべきでしょう。)

7月25日

「しからみ草紙」第18号に田中みな子の「鎌倉紀行」が掲載される。

7月27日

一葉の兄虎之助より、約束の金子の工面が難しいと連絡がくる


つづく


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