2025年2月10日月曜日

大杉栄とその時代年表(402) 1902(明治35)年6月16日~30日 「何事によらず革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であつて、従来世の中に立つて居つた所の老人が中途で説を飜したために革命または改良が行はれたといふ事は殆その例がない。」(子規『病牀六尺』)  

 

子規『果物帖』6月27日 青梅

大杉栄とその時代年表(401) 1902(明治35)年5月28日~6月15日 「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」(子規『病牀六尺』) より続く

1902(明治35)年

6月16日

上海で日清通商条約改正談判開始。

6月16日

田中正造の欠伸事件に有罪確定。この日~7月26日迄、巣鴨監獄に服役。4度目の入獄。

6月16日

アインシュタイン、スイス連邦評議会によりベルンの連邦特許局3級技術専門職試傭として任命。年報3500スイス・フラン。6月23日からそこでの仕事を始める。

6月17日

天津、「大公報」紙創刊。

6月17日

(露暦月日)エドゥアルト・トール、隊員3人と共にザリャ号を下船、犬橇・皮船で移動。

8月3日(露暦)ベンネト島エンマ岬で地質調査。

11月8日、迎えに来る筈のザリャー号が来ないため、ノヴァヤ・シビリ島に向う。ここで消息を絶つ。

ザリャー号は2度接岸に失敗し、氷に囲まれるのを恐れ、9月5日にレナ川デルタのチクシ湾に退く。

翌1903年8月17日、トールらを救出するため、ニキフォル・ベギチェフら、ベンネト島エンマ岬付近を調査。トールの手記を発見する。サンニコフ島は実在しなかった。

6月18日

万国郵便連合25周年記念絵葉書用紙6種が発行(最初の官製色刷り絵葉書)。

6月18日

この日掲載の子規『病牀六尺』.(三十七)


「○明治維新の改革を成就(じょうじゅ)したものは二十歳前後の田舎の青年であつて幕府の老人ではなかつた。日本の医界を刷新したものも後進の少年であつて漢方医はこれに与(あずか)らない。日本の漢詩界を振はしたのもやはり後進の青年であつて天保(てんぽう)臭気の老詩人ではない。俳句界の改良せられたのも同じく後進の青年の力であつて昔風の宗匠はむしろその進歩を妨げようとした事はあつたけれど少しもこれに力を与へた事はない。何事によらず革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であつて、従来世の中に立つて居つた所の老人が中途で説を飜(ひるがえ)したために革命または改良が行はれたといふ事は殆(ほとんど)その例がない。もし今日の和歌界を改良せんとならばそれは勿論青年歌人の成すべき事であつて老歌人の為し得らるる事ではない。もし今日の演劇界を改良せんとならば、それはむしろ壮士俳優の任務であつて決して老俳優の成し得らるる所ではない。しかるに文学者とも言はるるほどの学者が団十(だんじゅう)菊五(きく)ごなどを相手にして演劇の改良を説くに至つては愚と言はうか迂(う)と言はうか実にその眼孔の小なるに驚かざるを得ない。

(六月十八日)」

6月20日

啄木(16)、「ハノ字」の名で、書評「『ゴルキイ』を読みて」(『岩手日報』)。

6月20日

この日掲載の子規『病牀六尺』.(三十九)


「○病床に寝て、身動きの出来る間は、敢(あえ)て病気を辛しとも思はず、平気で寝転んで居つたが、この頃のやうに、身動きが出来なくなつては、精神の煩悶(はんもん)を起して、殆ど毎日気違のやうな苦しみをする。この苦しみを受けまいと思ふて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無理に動かして見る。いよいよ煩悶する。頭がムシヤムシヤとなる。もはやたまらんので、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなると駄目である。絶叫。号泣。益々絶叫する、益々号泣する。その苦(くるしみ)その痛(いたみ)何とも形容することは出来ない。むしろ真の狂人となつてしまへば楽であらうと思ふけれどそれも出来ぬ。若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入ってようよう減じ僅に眠気さした時には其日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思いやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。

(六月二十日)」


6月20日 子規、逆上して「仰臥漫録」に「麻痺剤服用日記」の連載を始める(~7月29日)。

「明治三十五年 麻痺剤服用日記

六月二十日(これより以前は記さず)

正午  午後九時」(『仰臥漫録』)

6月21日

『仙台毎日新聞』、『夕刊平民』と改題(自ら社会主義を標榜するという)

6月22日

大杉栄(17)の母豊、卵巣腫瘍で新潟病院にて急逝。母危篤の電報で、新発田へ帰る。美人だったという母、栄はこの母に顔もも似ていたといわれている

6月25日

武衛右軍を北洋常備軍と改称

6月25日

皇太子(大正天皇)第2子、誕生(のち、秩父宮)。兄同様、川村純義に里子として出され、10月16日、川村家入り。

6月26日

イギリス、チベットに侵攻。

6月26日

この日の子規『病牀六尺』(四十五)。


「○写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。これは早くより西洋では、用ひられて居つた手段であるが、併し昔の写生は不完全な写生であった為めに、此頃は更らに進歩して一層精密な手段を取るやうになつて居る。然るに日本では昔から写生といふ事を甚だおろそかに見て居つたために、画の発達を妨げ、又た文章も歌も総ての事が皆な進歩しなかつたのである。それが習慣となつて今日でもまだ写生の味を知らない人が十中の八、九である。画の上にも詩歌の上にも、理想といふ事を称(とな)へる人が少くないが、それらは写生の味を知らない人であつて、写生といふことを非常に浅薄(せんぱく)な事として排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であつて、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬ事である。理想の作が必ず悪いといふわけではないが、普通に理想として顕(あらわ)れる作には、悪いのが多いといふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。固(もと)より子供に見せる時、無学なる人に見せる時、初心なる人に見せる時などには、理想といふ事がその人を感ぜしめる事がない事はないが、ほぼ学問あり見識ある以上の人に見せる時には非常なる偉人の変つた理想でなければ、到底その人を満足せしめる事は出来ないであらう。これは今日以後の如く教育の普及した時世には免れない事である。これに反して写生といふ事は、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけそれだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、ちよつと浅薄のやうに見えても、深く味はへば味はふほど変化が多く趣味が深い。写生の弊害を言へば、勿論いろいろの弊害もあるであらうけれど、今日実際に当てはめて見ても、理想の弊害ほど甚だしくないやうに思ふ。理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上らうとしてかへつて池の中に落ち込むやうな事が多い。写生は平淡である代りに、さる仕損ひはないのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至つては、その妙実に言ふべからざるものがある。

(六月二十六日)」


子規は日本画について語っているのだが、これは「写生」という一点において俳句・短歌・写生文とパラレルの議論であった。ここで言う「写生」は、洋画を意識した概念である。

子規はまた、「写生」の対概念として、「理想」の語を批判の対象として槍玉に挙げていた。「理想」という言葉もまた、文学と絵画の双方において、明治20年代後半から30年代、問題となっていた言葉だった。「理想」は当初、没理想論争によって文学上の議論となった言葉だったが、美術界に飛び火し、「理想画」とは、眼前にあるものでなく、歴史・神話・寓意など想像上の主題を表出した絵画を指して言う言葉になっていた。子規はそうした行き方に反対たった。

6月27日

子規の最後の写生画は、『果物帖』(明治35年6月27日〜8月6日)『草花帖』(同年8月1日~20日)『玩具帖』(同年8月22日〜9月2日)『仰臥漫録』(9月3日)である。

「菓物帖」。青梅、初南瓜、桃、初冬瓜、莢英隠元、玉萄黍、バナナ、パインアップルなどを写生。"

6月28日

この日の子規『病牀六尺』(四十七)。


「○この頃『ホトトギス』などへ載せてある写生的の小品文を見るに、今少し精密に叙したらよからうと思ふ処をさらさらと書き流してしまふたために興味索然(さくぜん)としたのが多いやうに思ふ。目的がその事を写すにある以上は仮令たというるさいまでも精密にかかねば、読者には合点(がてん)が行き難い。実地に臨んだ自分には、こんな事は書かいでもよからうと思ふ事が多いけれど、それを外の人に見せると、そこを略したために意味が通ぜぬやうな事はいくらもある。人に見せるために書く文章ならば、どこまでも人にわかるやうに書かなくてはならぬ事はいふまでもない。あるいは余り文章が長くなることを憂へて短くするとならば、それはほかの処をいくらでも端折(はしょ)つて書くは可よいが、肝腎(かんじん)な目的物を写す処は何処までも精密にかかねば面白くない。さうしてまたその目的物を写すのには、自分の経験をそのまま客観的に写さなければならぬといふ事も前にしばしば論じた事がある。しかるに写生的に書かうと思ひながらかへつて概念的の記事文を書く人がある。これは無論面白くない。例を言へば、米国にある支那飯屋といふのを書くつもりならば、自分がその支那飯屋へ往た時の有様をなるべく精密に書けば、それでよいのである。しかるにその方は精密に書かずにかへつて支那飯屋はどういふ性質のものであるといふやうな概念的の記事を長々と書くのは雑報としてはよいけれども、美文としては少しも面白くない。まだ雑報と美文の区別を知らない人が大変多いやうである。同雑誌の一日記事の如きもただ簡単に過ぎて何の面白味もないのが多いやうに見える。これは今少し思ひきつて精密に書いたならば多少面白くなるだらうと思ふ。

(六月二十八日)」


6月28日

米、リチャード・ロジャース、誕生。「サウンド・オブ・ミュージック」作曲

6月28日

米、議会、中米地峡運河法可決。パナマ,ニカラグアでの運河敷設に関する交渉権,建設実行権を大統領に付与.

6月28日

ドイツ、イタリア、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)の三国同盟、第4次更新。1903年5月から12年間の更新合意。ただし、6年後には破棄できる条件。

6月29日

長野県松本・諏訪間の生糸運送夫ら1千余人、賃上げを要求してストライキ。

6月29日

第1回パリ-ウィーン間自動車レース。優勝は、仏の自動車製造者ルイ・ルノー。

6月29日

芳賀矢一がフランスからイギリスに渡り、岡倉由三郎を訪ねる。午後、岡倉由三郎は、芳賀矢一を大英博物館、ナショナル・ギャラリー、トラファルガー広場に案内する。

6月30日

石光真清大尉(変名「菊池正三」)、この日、大連に滞在。ハルビンから奉天・遼陽・大連・長春・チチハル・満州里を巡回して7月26日、ハルビンに帰着。

6月30日

第4回植民地会議開催(~8.11、ロンドン)、帝国の優先権の承認。

6月30日

ロンドンの漱石


「六月三十日(月)、浅井忠は、パリからロンドンに立ち寄り、帰朝するので、数日間寄宿する。画の話をする。(乾田明)」(荒正人、前掲書)


つづく


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