児玉源太郎
大杉栄とその時代年表(460) 1903(明治36)年10月14日~19日 「私は数箇月前迄日本の凡ゆるジャーナリズムが(戦争は文明に到達する楷梯なり)といふ一種の流行語をたゞしいものだと考へてゐた。しかし、現在に於て少なくとも私は此の合ひ言葉に疑義を挿んでゐる。自然科学に依りて教へられた万物進化の過程なるものは、さう簡単に此の合ひ言葉を合理化し得るものであるだらうか。私は此の事に就いて今後研究してみようと考へた。」(金子健二『人間漱石』) より続く
1903(明治36)年
10月20日
『二六新報』、以前以上に過激な開戦論に転換。
既に開戦論に移行していた『二六新報』は、小村・ローゼン交渉直後に一時的に社論が揺れた。
ロシアは「必らず平和の美名の下に撤兵するならんとは吾徒が初より数々予言し忖度し、報道したるは世人の熟知する所ならん」と、数ヵ月前の主張を持ち出し非開戦論になり(10月10日)、日露両国がお互いに緩く勢力圏を定めたこの「消極的満韓交換論」を評価した(10月11日)。
しかし、日露交渉が暗礁に乗り上げたと判断すると、この日(20日)、「野生国民を膺(ママ)徴するは、文明国民の義務也」と宣言し、また立場を変え、「戦争は人道の敵也」と言う非戦論者を「戦争を怖るるは弱き人也」と攻撃、以前よりも過激な開戦論に転換する。
10月20日
社会主義協会、非戦論大演説会。本郷、中央会堂。聴衆600余。
堺、幸徳、西川光次郎「トルストイの戦争論」(戦争の原因は財産の不平等、軍隊の存在、教育者・宗教家の忠君愛国思想の鼓舞にある)、木下尚江「吾人は戦争の義務ありや」、安部磯雄「利害論と社会主義」(永世中立国スイスの例により軍備撤廃説明)。
収益金32円92銭は堺・幸徳にカンパ。臨監警察官の干渉なし。
安部「利害論と社会主義」:永世中立国スイスの実例を述べ、「軍備を撤廃しても生存はできる。此方で軍備を廃すれば敵も安心する。どっちか一方が先にやめねば喧嘩の収まる時はない」と説く。日清戦役後の遼島半島還附に際し、尾崎行雄が「もし名分が正しければナゼ三国の干渉を拒絶しなかつたか、正義のためにはわが国が亡びてもかまわぬ」と唱えた例をひき、主戦と非戦の差こそあれその結論はわれわれの与する所である。「もし平和が人道であるならば、平和を世界に宣言して、それがため一国が亡びてもかまわぬではないか」と述べる。
木下「吾人は戦争の義務ありや」:「世にはー種の迷信があって一国存亡の場合には、万事を忘れて一国に殉ぜねはならぬというが、平生は世界の人道を信じながら一大事の時にはこれをなげうつのが果して人間最高の理想であるか。われわれはいま日本国本位の倫理を教えられているが、もしわれわれが人道を信ずるならば、この一国家的倫理主義を打破せねばならぬ」と論じる。
大杉栄(18)もこの日の聴衆の一人。9月に外国語学校仏語科(選科)入学。
10月20日
社会主義協会を押し出された片山潜は、再度アメリカに渡る決心をして、その前に、社会主義演説をして歩く。この日、東京を発ち、福島、函館、根室、室蘭、夕張等をまわる。
10月20日
参謀本部次長児玉中将、各部長とで韓国武力制圧作戦計画立案。
同日、各師団から兵站要員52人を集め、陸軍大学校で韓国出兵を想定した「特訓」(~11月2日、参謀本部第4部長大島健一大佐が主任)。
10月20日
山本達雄、日銀総裁の任期満了。後任は松尾臣善。
10月20日
(漱石)
「十月二十日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。
十月二十二日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。
十月二十四日(土)、快晴。午後、白仁三郎(坂元雪鳥)・湯浅廉孫共に来る。(「坂元雪鳥日記」)
十月二十四日(土)か二十五日(日)(極めて不確かな推定)、外出する。留守中に、中根重一来る。(『道草』七十一)
十月二十六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。
十月二十六日(月)から二十八日(水)の間(極めて不確かな推定)、留守中に、再び中根重一来る。鏡、古い二重廻しをあげる。(『道草』七十二)」(荒正人、前掲書)
10月20日
アメリカ・カナダ間、アラスカ国境に関する紛争、米に有利な形で解決。
10月22日
『毎日新聞』は、10月22日「国民最後の覚悟」、同23日「日露の主張 理非分明なり」において「吾人が戦争を疾むこと他の平和論者の後へに在らず、然れども条理国利是れ立国の要件なり」と、開戦論に傾く。日本が「遠く千年以来の歴史的関係を有し、近く開国の誘導を為し、さらに大戦の誘導を経て、其独立を公認せしめたる朝鮮に対して、特殊の利害を有するに拘らず、列国が朝鮮に於ける文明的経営に対し、寛に之を歓迎するも、一切故障せざるなり」と、「独占的態度なく、又擅取的野心無かるべし」という態度を取っていることに開戦の根拠が求められる。これは、ロシアが満州の開放を拒んでいることと対照的な態度であると主張。
10月23日
幸徳・堺、麹町区有楽町3丁目に一戸を借り、平民社を開く。
27日、警視庁に届け出。
10月23日
斉藤緑雨、団子坂近くから本所横網町1丁目17番地に引っ越す。「平民新聞」第2、4、5、8号に随筆「もゝはがき」を掲載。
10月26日
小村・ローゼン第4回会談。
10月26日
渋谷清蔵・大坂金助らが発起人となり、青森育英会結成。
10月27日
(漱石)「十月二十七日(火)、雨。東京帝国大学文科大学で、 Macbeth と「英文学概説」を講義する。文科大学の教官室宛に届けられた匿名の葉書を、Macbeth の時間に面白いからと読みあげる。」
「漱石のカイゼル式の髭、カフス、ハンケチなどをひやかす。「六道の辻にて、シェークスピアー」の署名で大学気付夏目様とある。」(荒正人、前掲書)
「・・・十月二十七日の火曜日、金之助は文科大学教官室で一通の葉書を受け取った.その宛名は大学気付夏日様とあり、差出人は「六道の辻にて、シェークスピアーより」としてあった。
これは要するに彼を巧妙に揶揄した投書であった。この「シェークスピアー」はまず彼の気取ったカイゼル髭をからかい、カフス・リンクを廻転させるくせを指摘し、ハンカチの扱い方を気障だといってきめつけていた。
「・・・先生はこのハンケチの災厄に祟られてお気の毒にもきざな誇学者的偽紳士(ペダンテイツクスノブ)としての汚名をすらあぴせかけられて、心中私に平らかならざるものがお在りのやうに私は推定した。『マクベス』の評釈は『サイラス・マーナー』や『文学論』に比して遥かに学生の好評を博した講義であっただけそれだけ、六道の辻の発信者も、これに対して毒の在る認識は避けてゐた。しかし、それにしても此の講義の大入り繁昌の札止め景気に対して揶揄した口吻を言外にもらしてゐた」(金子健二『人間漱石』-「髭とカフスとハンケチ」)
金之助は「一見無造作に」面白い投書が来たといって教室でこの葉書を読み上げた。投書者はおそらく英文科生のだれかであり、ハーン辞任事件以来底流していた不満がこのような陰湿な表現を求めたものと思われる。彼が心中激怒していたことはいうまでもない。その証拠に翌翌日の『マクベス』の訳解は「正確適切にして一点のあいまいな所な」く、学生たちは彼の凍りついた怒りに触れるように感じて首をすくめた。」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)
10月27日
(露暦10/14)露、ガボン、労働者喫茶クラブ活動報告をペテルブルク特別市長官クレイゲリスと警保局長ロブーヒンに提出。
10月28日
ロシア軍(東部シベリア第15狙撃連隊)、奉天再占領(第2期撤兵を守っていた)。
10月28日
煙草製造官業化反対奥羽連合大会、仙台市で開催。
10月28日
(漱石)「十月二十八日(水)、水彩画を描く。」
「寺田寅彦か橋口貢の刺激によるものと思われる。明治三十七年以降、橋口貢と最も頻繁に桧葉書を交換している。」(荒正人、前掲書)
「十月二十八日(水)から三十日(金)の間(極めて不確かな推定)、中根重一来る。久し振りに逢う。金策のため保証人になって欲しいとのことであったが断る。
十月二十九日(木)、曇。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。」
「中根重一の懇請には応じなかったが、応分の金策をすることになり、友人に借金を申し入れたが金を持合せていなかった。妹婿の「清水」という下町の病院長に依頼し、四、五日経って四百円を中根重一に融通する。以上は、『道草』七十四による推定である。但し、人名・場所・日数・金額は、実際とは異なっていると想像される。初めのうち一、二度は、中根重一が自ら出向いていたが、息子倫を使いに来させ、高利貸しから漱石の印さえあれば猶予するといわれたと云って来る。義理もあるが、両家が倒産ではこまると説く。翌朝、執達吏が来るという夜、明け方一二時頃まで説得する。」(荒正人、前掲書)
10月28日
ハンガリー、第1次ティサ・イシュトヴァーン内閣成立。この月、ティサ率いる自由党特別委員会はハンガリー軍旗の使用、ハンガリー軍事裁判でのマジャール語使用、帝国軍でのハンガリー将校の登用などを決め、フランツ・ヨーゼフもこれを承認。~1905年6月18日、二重体制の忠実な支持者。
10月29日
清・仏、ベトナム~雲南鉄道敷設経営に関する、滇(テン)越鉄道敷設協定に調印。
10月29日
日本郵船の東海丸、北海道矢越沖でロシア船と衝突沈没、150人あまりが死亡。
10月29日
「夏目氏の『マクベス』、訳は上出来なれども批評的言語を混ずるときは聞く者をして倦〔う〕ましむ。要するに、陳腐なることを六ケ敷相〔むずかしそう〕に述ぶるは其〔その〕大欠点なり」(金子健二の日記1903年10月29日)
つづく