1903(明治36)年
10月9日
『日本』10月9日「緩慢なる哉外事」は、「日露の関係は我れ速を利とし彼れ遅を利とし、我は遅き丈け其れ丈け奔命に疲れ、彼は速なる丈け其れ丈け準備を欠き、一日速なれば則ち我れ一日の利あり、一日遅ければ則ち彼れ一日の利あり」と、ロシアの戦争準備が進まぬ前に、一日でも早い開戦を求めるようになる。
10月10日
清国、日本正金銀行より借款。
10月10日
英女性参政権運動家エミリーン・パンクハースト夫人(45)、マンチェスターの自宅で女性参政権獲得を目指す戦闘的組織・女性社会政治同盟(WSPU)結成。
10月10日
平木白星「征露の歌」(この日付「読売新聞」)。
白星は愛国的詩人ではあったが、数年前にはロシアとの戦争には反対の立場を取っていた。アジア地域の平和的発展が日本の国益になり、それにはロシアとの友好関係が不可欠としていた。明治34年刊行『片袖 第二集』には、白星の「望北の歌」「日本国歌」「亜細亜」が寄せられているが、「日本国歌」では日清戦争以降の日本の発展ぶりが讃美され、さらに人類共同による世界国家建設への理想的夢幻が語られている。また「亜細亜」では、韓国、清国、インド、フィリピンなどのアジア諸国の憂うべき現状であり、さらにシベリアというほ未開拓の地平に思いを馳せている。そして日露両国が憎悪と猜疑の感情を棄てて、世界平和の礎を築くことへの希望を訴えていた。「望北の歌」でも、愛国の至情を漲らせつつ日露の親和を主張していた。
このように明治34年当時に非戦論に立っていた詩人・平木白星も、明治36年になると、しばしば条約を一方的に反故にして、満州を不法占拠し続けるロシアに絶望し、主戦論へと意見を変えていた。
10月11日
(漱石)「十月十一日(日)、晴。午後、寺田寅彦・中林馨来る。」(荒正人、前掲書)
10月12日
この日付け『萬朝報』一面トップに、内村鑑三の「退社に際し涙香兄に贈りし覚書」、堺利彦と幸徳秋水の「退社の辞」、それに対する黒岩涙香の「内村、幸徳、堺、三名の退社に就て」が掲げられた。
堺利彦・幸徳秋水「退社の辞」
「万朝報」の日露開戦論転換に反対して退社を発表。夜、朝報社の友人達が築地の精養軒で送別会開催。築地精養軒。13日、堺が麻布宮村町の秋水宅を訪問、週刊新聞発行を決める。
「退社の辞
予等二人は不幸にも対露問題に関して朝報紙と意見を異にするに至れり。
予等が平生社会主義の見地よりして、国際の戦争を目するに貴族、軍人等の私闘を以てし、国民の多数は其為に犠牲に供せらるる者と為すこと、読者諸君の既に久しく本紙上に於て見らるる所なるべし。然るに斯くの如く予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の時局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終(つい)に避くべからざるかを思い、若し避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲信せざる可らずと為せること、是亦諸君の既に見らるる所なるべし。
此に於て予等は朝報社に在つて沈黙を守らざるを得ざるの地位に立てり。然れども永く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任に於て欠くる所あるを覚ゆ。故に予等は止むを得ずして退社を乞ふに至れり。
予等の乞に対し、黒岩君は寛大義侠の心を以て切に勧告せらるる所ありたれども、事茲(ここ)に至りては亦奈何ともすること能はず、予等は終に黒岩君其他社友の多年の好誼に背きて一たび此に袂を別つに至れり。但、朝報紙編輯の事以外に於て、永く従来の交情を持続せんことは、予等の深く希望したる所にして、又黒岩君其他の堅く誓約せられたる所なり。
敢て情を陳じて、読者諸君の諒察を仰ぐ。
堺 利彦
幸徳伝次郎」
堺利彦『予の半生』では、このときの退社を「予の生涯に於ける一大段落であった」と述べている。
12日昼、横須賀海軍工廠の造船見習工だった荒畑勝三(寒村、16歳)は、昼の弁当を食べながら弁当箱を包んでいた『万朝報』を広げ、「退社の辞」を読んだ。「火花が眼を射たような衝撃を感じた」勝三は、社会に広がる主戦論に抗して敢然と非戦論を主張し『万朝報』を去った2人の「退社の辞」に身が震え、生涯を社会主義者として生きる決意をする。『寒村自伝』には、「明治三六年十月十二日の感激は、永久に私の心から消え去ることはあるまい」とある。
「この「退社の辞」は特に青年に大きな影響を及ぼし、当時まだ横須賀海軍造船工廠の少年見習工だった著者(*荒畑寒村)は、これを読んで感奮して社会主義者たる意を決した。また、かつて社会党委員長であった故河上丈太郎は、中学校在学中にこの一文から非常な感激をうけたといわれる。」(「寒村自伝」)
「二人(*幸徳・内村)にくらべれは、堺はズッとおくれて入社し、月給の額なども幸徳は六十五円(主筆の松井柏軒が月給百円の当時)、堺は五十五円であった。しかし非戦論の態度たおいては、堺が一番強硬で退社問題についても断然二人をリードし、幸徳も内村も堺にひきずられて退社にふみ切った気味が多分たあったと、これも石川(*石川三四郎、黒岩社長の秘書役)が記している。後に石川が退社の際における堺の勇気を称したら、堺は「僕が強いわけじゃない、月給の一番安い境遇が強かったのサ」といって笑ったそうだ。
当時の堺は、夫人、ミチ子が久しく肺患療養のために転地し、一女真柄はまだ襁褓(むつき)の裡(うち)にあり、三人のうちもっとも悪い境遇にあった。普通ならばこういう場合は、月給の一番安い位置にある者がもっとも弱いのが常であるから、堺の強かったのは別に因るところがあったのでなければならぬ。」(「寒村自伝」)
10月12日
桂首相、内相兼任。
児玉源太郎台湾総督兼参謀次長就任(田村少将没による後任)。黒龍会幹部杉山茂丸が山県元帥に推薦、山県が桂に勧め、対露強硬論者の児玉を参謀本部へ送り込む。勅任官である参謀次長では格下げになるため、親任官の台湾総督も残す。
参許本部総務部長井口少将の日記。
「児玉男爵内務大臣ヲ去ツテ参謀本部次長ノ職ニ就カルルニ会ス。以テ、天ノ未ダ我帝国ヲ棄テザルヲ知ル。何等ノ喜悦、何等ノ快事ゾ」
10月12日
(漱石)「十月十二日(月)、雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。
十月十三日(火)、雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
10月13日
この日、堺が麻布宮村町の秋水宅を訪問し今後のことを話し合う。秋水は新しい雑誌を創刊しようと考え、堺は『家庭雑誌』を拡張する計画を持っていた。しかし、別々に仕事をするのも面白くないので、共同事業をしようという結論に達する。『萬朝報』を辞める時点では、2人は別々に活動することを考えていて、最初から平民社の構想があったわけではなかった。
10月13日
小林多喜二、誕生。秋田県秋田郡下田沿村(現大館市川口)、没落自作兼小作農の次男。明治40年、一家は伯父を頼って北海道へ渡る。
小林家は初めは旅館と農業であったが、多喜二の生まれる頃は農民。父は小林兼松(38、1865年9月9日~1924年8月2日)、母はセキ(30、1873年8月22日~1961年5月10日)。多喜二には8歳上の兄多喜郎(1895年~1907年)、姉チマ(1900年生)いた(チマの前に1899年生のヤエがいたがすぐ亡くなった。家は、8反歩ばかりの自作に、僅かな小作を兼ねた農家で、貧農というほどではない。
父の兄慶義(1859年10月10日~1931年6月20日)は、小林家の跡継ぎで、秋田で宿屋を営んでいたが、相場か事業に失敗し多額の負債を負い、小林家没落の原因を作る。事業失敗を回復する為の裁判に負け、小林家の田畑の大部分を失い、農家を弟(多喜二の父)に任せ、1893年に小樽に出る。伯父慶義は、潮見台で開墾百姓を始め、長男幸蔵を靴屋奉公に出すが、1901年幸蔵はそこを辞め、石原というパン屋の徒弟になる。幸蔵は勤勉で、慶義と幸蔵は、小樽の稲穂町の石原の店を譲り受けて独立し、パン屋小林三ツ星堂を開業。1904(明治37)年5月の小樽大火(小樽市内の中心地域・色内は全滅、2482戸が焼ける)で店は類焼。すぐに彼ら父子は潮見台にパン工場を建て、これがうまくいき、新富町に移りパン工場と店を開く。日露戦後の戦争景気や主に小樽の軍艦に食パンを大量に売ったことで、商売人として成功、30人も雇い、小樽で最も有名なパン屋となる。
成功した伯父は、弟夫婦に小樽へ来るように勧め、多喜二の兄多喜郎(成績も良く、秋田で小学校を終える)を上級学校へ入れようと勧める。父もその気になり、1907年5月(多喜二3歳)多喜郎のみ伯父と共にに小樽に行く。小樽で学校(私立小樽商業と推測)通っているうち、この年9月末、急性腹膜炎で危篤になり、両親が秋田から駆け付けた1週間後の10月5日没。そうして、この年12月下旬、一家全員で秋田から引っ越すことになる(父、母、姉チマ、多喜二、生後1歳に満たない妹ツギの5人)。一家が秋田を去る状況を、母セキは江口渙に、「立派に立ち振舞いもしたし、大ぜいの人が村はずれまで見送ってくれた」と語る。
状況的原因としての北海道移住熱(北海道へ行けばなんとかなるという風潮)。
小樽は、明治40年頃は、人口9万、戸数1万4千、近代的港を持つ商業都市で。小樽を中心とする北海道が本州の農民を経済生活の点で引き付ける。明治40年末の全道の人口は、139万0079人(25万9662戸)で、この年の北海道への移住人口は7万9737人(2万1142戸)。北海道への移住者は、明治33年~42年(10年間)、富山県(1位)6233人、新潟県(2位)5540人、石川県(3位)5047人、青森県(4位)4608人、秋田県(5位)4327人。
多喜二一家はまず伯父の家に落ち着き、伯父の隠居所である小樽区若竹町に住む。その後工事のため二度引っ越し、若竹町18番地で父は伯父の三星パン店の支店(駄菓子屋に近く、パンと自家製の餅の類を売る店)を開く。父は朝暗いうちから、小樽の中央寄りにある新富町の伯父の製パン工場に、パンの仕入れに行き、早朝までに帰って来て、出がけの労働者や学生に自分の店でそれを売り、昼には土工たちに浜までパンを売りに行く。彼らの家は、小樽南端にあり、周りは貧民が多く、大きな商いにはならず、小林家は秋田から小樽に出てきたが、豊かにはならず。
10月13日
ロシア皇帝ニコライ2世のもとに「極東委員会」設立。
10月13日
初のプロ野球ワールドシリーズ、ボストン・レッドソックス優勝。
つづく
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