2025年4月4日金曜日

自民・萩生田氏ら処分満了 「裏金」議員、石破首相と距離(時事); 多くは石破茂首相と距離を置いており、低空飛行が続く政権の波乱要因となる可能性もあります / 裏金議員 処分満了で要職復帰? 自民内からも「勘違い甚だしい」(東京);「党関係者によると、すでにある旧安倍派幹部には党政調の調査会などの顧問が打診されたという」  「裏金事件の真相解明は道半ば」

 

大杉栄とその時代年表(455) 1903(明治36)年9月1日~10日 「鏡子が帰宅したのは、夏休みも終わる九月初句である。実家の母が形式上謝罪に行き、漱石は簡単にそれを受け入れた。掛り付けの甘子医師が東大の呉秀三に紹介し、鏡子は「あゝいふ病気は一生なほり切るといふことがないものだ」、治ったと思うのは一時の沈静で、きっと再発すると宣告されたそうだ。・・・鏡子は彼の病気の性質を知り、虐待されでも決して離れない覚悟で漱石の許に戻った。」(十川信介『夏目漱石』)

 

呉 秀三

大杉栄とその時代年表(454) 1903(明治36)年8月15日~31日 東京初の路面電車 「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々電車運転を開始せり。・・・是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、・・・」(「時事新報」8月23日) より続く

1903(明治36)年

9月

この頃、満州各地のロシアの軍備強化。旅順口では、守備隊は1万3千が2万に増加、湾口防衛のための強固な砲台構築。

9月

矢野文雄(54)、「社会主義全集」刊行。前年には小説「新社会」を発表して反響を呼び、社会主義講演会にも参加。

9月

漱石、新学年からシェイクスピア作品の講読と、「文学論」講読とを始める。「文学論」は難解な抽象論が続き、学生たちを当惑させが、シェイクスピア講読は大変好評で、多くの学生がその教室に詰めかけた。この新学年から東大の英文科に入った森田米松は、難かしそうな「文学論」を聴講せずに、シェイクスピアの講読だけを聞いていた。

9月

大杉栄(18)、外国語学校仏語科(選科)に入る。明治38年7月卒業。

9月

北一輝(20、武蔵坊弁慶)「鉄幹と晶子」(「明星」)

9月

松岡荒村「山上憶良が貧窮問答の歌を読む」(「社会主義」)

9月

永井荷風『女優ナゝ』を新声社より刊行。

9月

数奇屋橋~神田橋間に東京市街鉄道(街鉄)開通。外濠沿いを走る。1区間3銭。

9月

谷中村、川辺・利島両村大洪水。

9月

トロツキー、メンシェヴィキ指導部に選出。プレハーノフの尽力でボルシェヴィキから奪回した「イスクラ」再開。

9月1日

山中峯太郎、中央幼年学校に入学。同期に広島地方幼年学校から来た阿南惟幾、1期上に東條英機。

9月1日

(露暦8/19)露、ペテルブルク警保局特別部長ズバートフ、免職。

9月2日

京都の二井商会、京都駅~堀川中立売間、祇園~堀川中立売間の乗合自動車営業開始。

9月2日

日本書籍株式会社創立。国定教科書の出版の9割以上を独占。社長大橋新太郎、資本金100万円。

9月3日

津田真道(74)、没。官僚・法学者、新律綱領編纂に参画。

9月3日

駐日韓国公使高永喜、小村外相に韓国中立保障要請。

26日、小村外相、平和維持と友好に努力している現在、戦争を口にし中立を論ずるは「時機に適せざる義」と回答をはぐらかす。事実上の拒否。

9月5日

棟方志功、誕生。

9月6日

北京、ロシア公使レッサル、清国に対し満州撤兵のための7条件を撤回し、新要求を提出。清国はこれを拒絶。

9月7日

清国、商部を設置。

9月7日

小村寿太郎外相、日露交渉地を東京に移転するというロシアの提議に同意を訓令。

9月8日

オスマン帝国軍がブルガリアで数千人を虐殺したと伝えられる。

14日 ブルガリア政府は列強にマケドニア介入を要請。

25日、イギリス、オーストリアとロシアの解決案支持表明。

9月10日

論説「満韓交換の風説を破る」(「皇城新聞」)。日露協商を暴露。日露の「保護属邦」ではなく、「東洋の一独立帝国」である韓国を「日露両国が勝手に交換をいう」不当・無礼を痛憤する。

9月10日

福島県岩城郡内郷村の入山炭坑坑夫1千人、虐待に対して暴動。

9月10日頃

別居していた漱石の妻鏡子が戻る


「九月十日(木)前後(推定)、鏡、戻り、再び一緒に住む。別居生活終る。」(荒正人、前掲書)


9月14日付の菅虎雄あての手紙に、「・・・愚妻先日より叉帰宅致居候。大なる腹をかゝへて起居自在ならず、如何なる美人も孕むという事は甚だ美術的ならぬものに候。況んや荊妻(けいさい)に於てをやかね」とあり、鏡子と子供たちが帰宅したのは9月10日前後のことと推定される。


「鏡子が帰宅したのは、夏休みも終わる九月初句である。実家の母が形式上謝罪に行き、漱石は簡単にそれを受け入れた。掛り付けの甘子医師が東大の呉秀三に紹介し、鏡子は「あゝいふ病気は一生なほり切るといふことがないものだ」、治ったと思うのは一時の沈静で、きっと再発すると宣告されたそうだ。漱石は熊本を辞めるに際して、ロンドンで一度出会った呉に神経衰弱の「診断書を書で呉る様依頼して」欲しいと菅に手紙を書いているから、それが実現していたとすれば、二度目の診断である。 

鏡子は彼の病気の性質を知り、虐待されでも決して離れない覚悟で漱石の許に戻った。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

「かう思ひまして、どんな具合かしらと時々行ってはのぞいて見ますが、いつ行ってみてもどうも御機嫌甚だうるはしくありません。さらばといってこの儘いつまでかうしてゐるわけにも行かず、どうしたものかと思つてをりますと、夏目の兄さんが、これは昔風の考から、私が、むきにこの儘離籍でもすると思はれたものか、夏目のためを思ひ、私のためを思って、どうか別れるの何のといはず、その儘黙つて怒らずにかへつてやつてくれ、とかういふお話なのです。で私も、別に怒ってゐるわけではなし、夫婦別れをしようといぶのぢやなし、虐待されたからといつて、それは誰からでもない自分の夫だから、そんなことで人様に御迷惑はかけないつもりですが、ただああいふ頭で、子供がやかましいといつてはいちめられたり打たれたりしたのでは、第一子供のためにもよくないし、また自分の頭も悪くする一方に違びないから、そこで一時遠ざかつてかうして別居してみたのだけれども、さっぱり験(げん)がない、とすれば元どほり帰るよりほかに仕方ありません。どうか兄さんから話の口を切って戴きたい、あやまつて帰ることにするからといふので、兄さんから夏目に、私がかへりたいと言つてるからととりなして下すつたたわけです。

すると夏目が、

「つまり両方で神経衰弱なんだ。帰りたいといふなら、そんなら帰って来るがいい。が、大体中根の家では子供を甘やかせて我が儘に育て過ぎる。だから鏡子なんぞもあのとほり我が儘で、自分のやりたい放題をやる」と、申しますので、兄さんも、

「ほかの姉妹はどうか知らんが、鏡子さんはあんたの奥さんぢやないか。細君のことなら強情であらうと我が儘であらうと、自分のいいやうに教育したらいいちやないか」

とか何とか言つたやうな按排だつたさうです。そこで母を煩はしまして、母から夏目にどうかまあといった具合にあやまってもらって、そこでやうやく千駄木に帰ることになりました。母には別につけつけ文句も言はなかったさうです。私はこの時今度はどんなことがあつても決して動くまいといふ決心をして参りました。これは九月のことで、まづこの事件はここで一段落がつきました」(『漱石の恩ひ出』-一九「別居」)


つづく

トランプの関税計算式に「経済的合理性なし」「信じがたいほど愚か」と専門家酷評(Forbes JAPAN); SNS投稿や報道各社の分析によると、関税率はその国の対米貿易黒字額を対米総輸出額で割ったものに0.5を掛けるという、はるかに単純な計算に基づいていることが判明した

 

2025年4月3日木曜日

菜種梅雨続く 冷たい雨の日が続く 東京に出たサクラ(ソメイヨシノ)満開宣言は、横浜ではまだ出ていない。大半のサクラはまだまだ元気だけど、一部では散り始めも、、、 2025-04-03

 4月3日(木)雨時々曇り

菜種梅雨というそうだが、このところ冷たい雨の日が続いている。

東京に出たサクラ(ソメイヨシノ)満開宣言が、横浜ではまだ出ていない。明日には出るかもしれないが、大半の花はまだまだ元気だけど、一部では散り始めもある、、、

▼誰も居ない雨の公園とサクラ


▼雨に打たれても元気なソメイヨシノ




トランプ関税はアメリカの世帯平均所得を年60万円削りかねない――米イエール大学(ニューズウィーク日本版); <幅広い輸入品に20%の関税を課したとすれば、アメリカの消費者物価は2.1~2.6%上昇し、可処分所得は減少し、景気後退に陥る可能性が高い> / 得意げに発表した相互関税はトランプのオウンゴールになる;<専門家も国民も、多くの輸入品に高関税を課せば、物価の安定という自らの公約に逆行する結果を招くと言っているのに、関税の力を過信するトランプは耳を貸さなかった>      

 



 

コメがあと5袋しかない…フードバンクに「緊急事態」 在庫不足は子ども食堂や野宿の人、外国人を苦しめる(東京 有料記事); ◆農家からの寄付がパタリとなくなった ◆「1日1食の人もいる」

〈「東京支局の公式認定」。そう題された1996年3月の文書、、、〉 CIA東京支局の存在、日米が公表に反対 ケネディ暗殺文書で判明(朝日);《CIA東京支局の存在が公になれば、否定してきた過去の日本政府の立場と矛盾し、自民党が左派からの攻撃を受けるとの懸念も示され、「沖縄の米軍基地問題をめぐる交渉が続くなか、米国の活動に関する疑問を招くような事態は避けるべきだ」とされた》

大杉栄とその時代年表(454) 1903(明治36)年8月15日~31日 東京初の路面電車 「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々電車運転を開始せり。・・・是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、・・・」(「時事新報」8月23日)

 

明治44(1911)年頃、丸の内を走る路面電車

大杉栄とその時代年表(453) 1903(明治36)年8月1日~12日 この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化 日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味をさとった。 政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って罵られていたが、この年の夏、軍部と内閣とが、いよいよ開戦の決定をした。 労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的にもなっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた。 より続く

1903(明治36)年

8月15日

熊本での社会主義講演会、解散させられる。

「万朝報」(16日付け)は、15日午後9時19分熊本発として、「今夕片山潜一行当地三年坂耶蘇教会堂にて社会主義講演会を開き会主旨を述ぶるに当り解散せられたり」と報じる。


「連日の電報欄に記せる如く、去月、四国、中国、九州、各地を遊説せる社会主義者片山潜一行は到処其演説を中止され、解散され、或は辻々に貼れる広告紙を警官の為めに剥取られ、或は其筋の内命なりとて、会場の貸与を拒絶され、或は末だ開会に至らざるに、警官の為めに、数百の聴衆を遂帰さるゝに至れり。読者は之を見て果して如何の感を為すや。憲法あり、参政権あり、新聞の発行停止は廃せられ、出版も亦多少の自由ある世の中に、独り演説のみ圧制せらる、何ぞ如此く甚だしきや。独り社会主義の演説のみ迫害せらるゝ、何ぞ如此く甚だしきや、真に奇怪千万の現象に非ずや。上に如此暴虐の政府あり、吾人は多数人民の権利の保持拡張の為めに、却つて益々社会主義唱道の必要を感ぜずんばあらず。・・・」(「万朝報」8月12日)

8月20日

私立日本法律学校、専門学校として認可。私立日本大学に改称。

25日 明治法律学校、明治大学と改称。

8月20日

愛知県、初の乗合自動車営業取締規則制定。

8月21日

幸徳秋水「二者一をとれ」(「万朝報」)。帝国主義か社会主義かの選択迫る。

この月、北海道に遊説。「小樽新聞」碧川企救男に小樽に迎えられる。

8月21日

日本鉄道、上野~青森間直行列車に寝台食堂車を連結。

8月21日

英エドワード7世、ウィーン訪問。

8月22日

東京電気鉄道(東京馬車鉄道が改称)、品川~新橋間の市街電車の運行開始。東京初の路面電車。京都には、明治28年から電車が走っているが、東京では明治13年以来の鉄道馬車が、新橋・上野をつなぐ重要な交通機関であった。


「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々(いよいよ)電車運転を開始せり。東京に於ける電車の運転は之を以て嚆矢となすこと故、聊か其状況を記さんに、是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、又会社にては芝口一丁目、芝赤門前即ち会社入口及び品川停車場外数筒所に大国旗を交叉して、祝意を表し、尚ほ大門前には『今日より電車鉄道の運転を開始致し候』と云へる掲示をなしたり。・・・」(「時事新報」8月23日)

8月22日

「福島民報」紙上で社会主義についての論争。20日間におよぶ。

8月22日

漱石、家の改修を計画

「鏡子が帰る前であろうか、八月二十二日、漱石は大家の斎藤喜助、すなわち仙台二高に赴任した斎藤阿具の父に、家の修繕について書きおくつた。その内容は、今日井戸替えの着手を差配に頼んだが、どちらがどう金を出すかがはっきりしないうちはできないといわれた、自分も応分の負担をするし、夏目と斎藤で不都合のないようにするからとにかくはじめてくれ、というものだった。それにつづけて、「実は井戸のみならず所々すこぶる破損いたしおるにつき左の箇所御修復くだされ候えは井戸換えの方に五円程出金いたすべく候」と書いている。

その直してもらいたいところとは、

一 流しのたたきの破損、湯殿の壁の破損

二 玄関のひさしの葺き替え

三 樋竹(といだけ)の腐食

四 台所のひさしのくされたる所

五 湯殿のガラス障子の破損

六 郁文館と小生後園との垣(人のむやみに出入りする所)

と、かなり細かい。そのころ東京では持家は少なく、借地借家がもっぱらであった。それも地主と大家がちがう場合も多かっだ。漱石の家と道をはさんで反対側は太田子爵の屋敷を中心に、西片町の阿部家ほどではなかったが太田家も借地経常に乗り出していた。借家の多い場合は専従の差配を置いたものだが、漱石邸の場合は家主の斎藤が仙台にいることから、今でいう不動産屋のような人に管理を頼んだのであろう。それが差配である。

手紙からいくつかのことがわかる。まず水道でなく井戸を用いていたこと。夏になると水に当たらないように、よりいい水の出る清潔な場所を求めて井戸を掘り変えることが行われた。」(森まゆみ『千駄木の漱石』)

8月23日

露ラムスドルフ外相、日露交渉地を東京に移す提議。

8月25日

私立明治法律学校、専門学校令による私立明治大学と改称、認可される。

8月25日

有島武郎(25)、横浜港から伊予丸で出航、森本厚吉と共にアメリカ留学に向かう。

9月8日シアトル着。ハーヴァフォールド大学大学院で3年間、経済・歴史を専攻。フランセス・クローウェルと知り合う。40年4月11日ヨーロッパを回って帰国。森本は、新渡戸稲造の母校ジョン・ホプキンス大学に入学。

弟の壬生馬(21、学習院中等科を経て外国語学校伊大利語科に在学)が、横浜へ行って荷物や貨幣の両替等の世話をし、また船中の読みものとして、島崎藤村の「若菜集」「一葉舟」を兄に贈る。壬生馬は熱心な島崎藤村の読者で、明治34年夏には小諸に出かけて藤村に逢っていた。

9月14日、シカゴで友人の森広と会い、彼が結婚する予定であった佐々城信子(有島が彼女の渡米の面倒をみてやった)のその後の消息を知る。

8月26日

小村寿太郎外相、駐韓国公使林権助に対し韓国皇帝にロシアとの竜岩浦(龍嚴浦)租借契約を拒絶するよう要請せよと訓令。

8月26日

シーボルト娘・女医楠本イネ(76)、没。

8月26日

フィリピン、官費米国留学制度成立。1912年までに200名以上が留学、各界の指導者に。

8月29

私立和仏法律学校、専門学校令による私立法政大学と改称、認可される。

8月29

ロシア皇帝ニコライ2世、穏健派蔵相ウィッテ解任。満州・朝鮮への武力進出を狙うベゾブラーゾフ派勝利。

30日、極東特別委員会設置指示。極東政策最高決定機関。

8月30

斉藤紀一、東京青山に脳神経系の青山病院開業。

8月31

英エドワード7世、ウィーン訪問。

8月下旬

伊藤・山県ら元老5人と桂・小村ら主要閣僚の出席した御前会議でロシアとの交渉方針を決め、その後の閣議で追認。

日本は韓国に対する独断的勢力圏をロシアに対し要求、ロシアには、鉄道経営に限定して満州における「特殊な利益」を承認するにすぎないもの。ロシアに対し非常に強硬。


つづく


トランプ氏支持率2期目で最低の43%、関税や情報管理で厳しい評価(ロイター)

2025年4月2日水曜日

「物理学者が使い捨て携帯電話を必要とする時、米国が変わったことがわかる」(The Guardian); 海外の国際的カンファレンスに出席する際、プリペイド携帯や低性能格安ノートPCを持って行く研究者が増えてるとか。帰国した時に中を調べられて要らぬ嫌疑かけられるの恐れてる

米激戦州の判事選、民主系が勝利 「マスク効果」乏しく(日経) / BBCニュース - 米ウィスコンシン州最高裁判事選、リベラル派が勝利 マスク氏の影響力及ばず / 1日に実施されたウィスコンシン州最高裁判事選挙で、リベラル派のスーザン・クロフォード氏が共和党トランプ熱烈支持候補を破り圧勝。イーロン・マスクはクロフォード落選運動に私費2500万ドル以上を出資、さらにクロフォード反対署名1件につき100ドルを払うと公言していた。(The New York Times)    

 




 

「防衛費のため借金」は絶対しないはずだったのに…3年で2兆円も国債発行 「それを許す雰囲気」が危ない?(東京); これは重要な記事。防衛費増額の財源として建設国債をあてる"禁じ手"が膨張している問題。国民の生活防衛のための消費税減税は財源を理由に拒むのに、防衛費だけは財源を無視して増額する自公政権。それを可能にしているのが、この建設国債の流用。国会でもっと議論すべき問題だと思う。(布施祐仁)    

保護移民を誤って強制送還 現地で収監、帰国させず―米政権(時事); 米メディアは、トランプ政権がギャング組織のメンバーら261人をエルサルバドルへ強制送還した際、誤って保護資格を持つ移民男性も一緒に送還していたと報じました。 政権側は過失を認めながらも、男性が既に同国の刑務所に収監され、帰国させることはできないとしています。

米厚生省、大規模リストラ開始 元FDA職員は人員削減によって新薬承認が遅れる可能性が高いと指摘(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版); トランプ米政権は厚生省で大規模リストラを開始した。一部の職員を連邦政府の建物から締め出すほか、他の職員を別の傘下機関へと異動させている。

大杉栄とその時代年表【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~ 更新中)】

【年表INDEX ①】

 大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月)】 

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【年表INDEX ②】

大杉栄とその時代年表(430) 1903(明治36)年1月 野口米次郎、ロンドンで私家版「FROM THE EASTERN SEA ; BY YONE NOGUCHI」出版、好評。「ホー、ホー、ホー! こは又何事ぞ、、雑誌アウトルック(Outlook)を見ずや。鳴呼余の文名終に成れり。何等の好ノーナスぞ。十六頁に対して殆んど二頁を費やして批評せり。何等の親切ぞ。余はバイロン卿の如く一朝にして有名なるものとなれりと思ふ」(1月17日)

大杉栄とその時代年表(431) 1903(明治36)年1月1日~18日 岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版

大杉栄とその時代年表(432) 1903(明治36)年1月20日~25日 漱石、イギリスより帰国 「一月二十四日(土)、晴。鏡、中根重一と共に、国府津まで出迎える。午前九時三十分、新橋停車場に到着する。家族・親戚のほか寺田寅彦迎えに出ている。斎藤紀一や医者数人も一緒である。牛込区矢来町三番地中ノ丸(現・新宿区矢来町三番地)中根重一方に落着く。筆は脅えたように避け、恒子はおできだらけで、人見知りして泣く。(鏡、留守中休職給年額三百円月割二十五円で、製艦費一円五十銭その他を差し引かれて、二十二円足らずで暮す。鈴木禎次から百円を借りて、迎える準備をする。)」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(433) 1903(明治36)年1月27日~2月11日 漱石、「一月から二月にかけて、毎日のように借家を山の手方面に探す。 菅虎雄と一緒に歩くこと多い。 大塚保治から百円か百五十円借りる。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(434) 1903(明治36)年2月13日~27日 啄木(17)、文学で身を立てるべく上京するも、空しく帰郷 与謝野鉄幹・晶子の知遇を得た他に収穫なし

大杉栄とその時代年表(435) 1903(明治36)年3月1日~2日 「三月二日(月)、正午、英文科学生一同、二十番教室に集り、小泉八雲退職について協議する。その結果、井上哲次郎学長と交渉することになる。午後五時、再び本郷の基督教青年会館にほとんど全部の学生集る。小山内薫(一年)は、総退学の決意で留任運動を行うことを決意し、三年と一年は同意する。二年は反対する。三月八日(日)、安藤勝一郎・石川林四郎・落合貞三郎の三人の代表者たちは、小泉八雲邸(豊島郡大久保村西大久保、現・新宿区大久保)を訪ねる。留任運動は失敗に終る。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(436) 1903(明治36)年3月2日~3日 「勤務は四月からなので、その間の資金、生活費、転居費用、家具費用などは、熊本の退職金を当てにして、鏡子が妹の夫・鈴木禎次から借りた百円、大塚保治から借りた百円で賄った。転居したのは三月三日だが、・・・」(十川信介『夏目漱石』)

大杉栄とその時代年表(437) 1903(明治36)年3月5日~31日 元老会議の結論 ①満洲「最後ノ決心ヲ要スルモノトセパ、甚(はなはだ)危険ナリトス。此際ハ、成ルベク我行為ヲ英独意嚮ノ範囲ニ制限スルノ外ナシ」 ②韓国 「露国モ今遽(にはか)ニ日本卜之ヲ争フノ意ナシトセバ、現状ヲ維持スルヲ目的トシ、若シ時機アラバ露国卜協商ヲ試ミ、其ノ独立ヲ主持シ、日露両国衝突ノ種子タラザラシムルヲ努ムベシ」 ③清国 「列強協同若シ破綻ノ端ヲ啓(ひら)キ、清国分割ノ止ムヲ得ザルニ至ラバ、我ハ浙江、福建ニ地歩ヲ移スノ外ナシ」

大杉栄とその時代年表(438) 1903(明治36)年4月1日~9日 「社会主義は人類平等の主義である、人類同胞の主義である、相愛し相助くる共同生活の主義である。そこで此社会主義より見る時は、夫婦は平等にして、相愛し相助け、真の共同生活を為すのが家の理想である。家庭は即ち其理想を現はすべき場所である。(中略)此家庭の中よりして漸々社会主義を発達せしめて行かねばならぬ。是れが此雑誌を作るについての我輩の根本思想である。」(堺利彦「我輩の根本思想」)

大杉栄とその時代年表(439) 1903(明治36)年4月10日~20日 「彼は帰り新参なので、最初のうち一高は年俸七百円の講師、大学も年俸八百円の講師である。月百二十円強でも、東京の生活はかなり苦しかった。彼はその中でも欲しい書籍代は遠慮なく使った。鏡子も遣りくり上手とは言えず、翌年秋の学期から、彼は明治大学高等予科講師も兼ねなければならなかった。月給は週四時間で三十円である」(十川信介『夏目漱石』)

大杉栄とその時代年表(440) 1903(明治36)年4月20日 「小泉先生は毎年一般講義に、必ず、テニスンの詩を講じて居られたので、私達は悦んでこれを聴いてゐたのであるが、今度は夏目金之助とかいふ『ホトトギス』寄稿の田舎高等学校授あがりの先生が、高等学校あたりで用ひられてゐる女の小説家の作をテキストに使用するといふのだから、われわれを馬鹿にしてゐると憤つたのも當然だ。」(金子健二『人間漱石』)

大杉栄とその時代年表(441) 1903(明治36)年4月21日~25日 「「四月二十三日 木 晴 冷 … 夏目講師本日よりサイラス・マーナーを生徒に訳せしむ。通読の上、アクセントを正し、難句を問ふに過ぎず。っまらぬ授業と言ふ可し。…」(金子健二日記)

大杉栄とその時代年表(442) 1903(明治36)年4月26日~30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずとして強硬論を唱える。「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」

大杉栄とその時代年表(443) 1903(明治36)年5月1日~8日 「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』)

大杉栄とその時代年表(444) 1903(明治36)年5月9日~21日 漱石、「第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。」 / 「第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。」(荒正人) 

大杉栄とその時代年表(445) 1903(明治36)年5月22日~31日 「藤村操の死はたしかに時代的意義を持つて居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤倹尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波に過ぎなかった。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終り、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった昔年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起って来た。」(安倍能成『我が生ひ立ち』)

大杉栄とその時代年表(446) 1903(明治36)年6月1日~8日 参謀本部部長会議 「朝鮮ニシテ一度彼ノ勢力範囲ニ帰スルトキハ(朝鮮海峡、日本海、黄海の制海権を奪われて)日本帝国ハ扶桑ノ一孤島ニ蟄伏セヲレ……対馬及北海道ノ如キ帝国主要ノ属島モ、彼ノ欲スル所ニ従ヒ其占領ニ委セザルベカヲザルノ悲運ニ際会スルナキヲ保セズ」 「彼我兵力ノ関係、西伯利鉄道ノ未完全、日英同盟ノ存立、清国民ノ敵愾心等今日ヲ以テ最好機トシテ、此好時機ハ今日ヲ逸シテハ決シテ再ビ得ベカラズ」

大杉栄とその時代年表(447) 1903(明治36)年6月9日~15日 7博士事件 「彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。・・・溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。・・・」

大杉栄とその時代年表(448) 1903(明治36)年6月16日~24日 「桂の奇襲」により桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立。伊藤の棚上げ工作。伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての「一案」(枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」)決定

大杉栄とその時代年表(449) 1903(明治36)年6月28日~7月 「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」(幸徳秋水『社会主義神髄』付録「社会主義と国家」)

大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)

大杉栄とその時代年表(452) 1903(明治36)年7月30日 「第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。・・・それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。」 「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。・・・両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。」(トロツキー『わが生涯』)

大杉栄とその時代年表(453) 1903(明治36)年8月1日~12日 この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化 日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味をさとった。 政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って罵られていたが、この年の夏、軍部と内閣とが、いよいよ開戦の決定をした。 労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的にもなっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた。

大杉栄とその時代年表(454) 1903(明治36)年8月15日~31日 東京初の路面電車 「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々電車運転を開始せり。・・・是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、・・・」(「時事新報」8月23日)









大杉栄とその時代年表(453) 1903(明治36)年8月1日~12日 この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化 日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味をさとった。 政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って罵られていたが、この年の夏、軍部と内閣とが、いよいよ開戦の決定をした。 労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的にもなっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた。

 

神鞭 知常

大杉栄とその時代年表(452) 1903(明治36)年7月30日 「第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。・・・それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。」 「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。・・・両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1903(明治36)年

8月

「国民日日報」創刊。主編章士釗。編集者陳独秀・蘇曼殊。「蘇報」擁護の論陣。

8月

この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化が始まる。

職工たちは家に帰ることを許されず、それぞれ家庭や下宿から14回の弁当を運ばせ、昼夜兼行の労働をさせられ、深夜に2時間の仮睡をとるだけであった。そういう労働が数日間続いて、職工が倒れると、はじめて家に帰ることを許された。日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味をさとった。

政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って罵られていたが、この年の夏、軍部と内閣とが、いよいよ開戦の決定をした

労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的にもなっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた

8月

児玉花外『社会主義詩集』 すぐに発禁、押収される。

8月

龍岩里租借事件を契機に、「時事新報」、連日朝鮮問題を取上げ、日本の民族的危機・朝鮮水域への軍艦派遣主張。

8月

川上眉山(34)、里見鷲子と結婚。前年の徴兵問題や村八分を題材にした作品「一軒百姓」が好評で、この年春頃には、眉山は文壇に復活したとの声が上がるほどであった。

8月

漱石の二つの英詩


「だが妻子のいない家で、彼はせいぜいと仕事に励んだわけでもない。鏡子がいなかったのはほぼ夏休み中と思われるが、その間に彼は英詩を二つも作っている。年末には恋愛詩としか思われないものを作るが、それがはたして彼自身の経験だったかどうかはわからない。『全集』注解を踏まえて読むと、”Silence""(静寂(しじま))の大意は、過去にあった「静寂」の生活を思い、それを失った「わが生」を嘆く詩である。ーー「わたし」は太陽も月もなく、男も女も、神さえもない「静寂のさなかに生き」で呼びかける。「わたしには母が」あり、「喜びと希望と輝くものすべてをくれた」が、もはやその母は亡い。若いころ、わたしは太陽が大地のすべてを琥珀色の光で染めるのを見た。だが今は、静寂を内に求めれば声が聞こえ、外に求めると喧噪ばかりである。静寂は「神聖と呼ばれる愛より甘美」で、「名声、権力、富」よりも魅力的だ。わたしはもはやないもののために涙を流す。来し方、行く末を見つめると、わたしは永久に宙吊りになって震えるこの星(地球)の上で爪先立っている。失われた静寂に吐息し、来るべき静寂(死)に涙す。ああ、わが生ーー母の中にいた胎児の幸福が、今や消え失せた哀しみである。

江藤淳が言うように、彼が「その存在を不安定に露出されていると感じていた」ことは確実であろう。胎内から外に出たとき、苦しみは始まった。雷鳴が二人を目ざめざせ、以来絶えて二人は相見えることはない。悲しいかな天と相見えるには地はかくも罪深き身の上。-ーここに表われているのは、天地混沌から分離した天と地の引き裂かれた想いである。江藤説では、これは嫂・登世との悲恋を詠ったことになるが、この天と地は前詩との関連で文字どおり天の神と地の人と考えるべきではないか。江藤は英詩で「「天」が女性で「大地」が男性だといぅのは、考えられるかぎりでもっとも不可解な詩的倒錯」とするが、日本神話ではアマテラスは女性で太陽神である。天上で乱暴をした神、スサノオは天上から追放され出雲に住んだ。アメワカヒコ(天稚彦)は「中つ国」を平定する命を受けて地上を治めたが、復命せず、それを咎めに来た使者の雉を、天探女(あまのさぐめ)の勧めで射殺し、逆に彼は天上に届いたその矢で射殺された。これらの例では男女の愛はないが、天上と地上の別と「罪」はある。国家から派遣された漱石は、復命すべき何物をも持たない自分を嵩めていた。

その意味ではここでの「愛」は神話的な一種の夢に近いものであり、『夢十夜』の第五夜で、「自分」が「神代に近い昔」に戦い破れて囚えられ、死の前に一目会おうと馬で駆けつける女が、「天探女(あまのじやく)」の悪意で崖下に転落する話に発展するものだろう。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

8月

トロツキー(24)、「シベリア代議員団の報告」を執筆、レーニンとプレハーノフを厳しく批判。出版直前、プレハーノフがメンシェヴィキ側についたためプレハーノフ批判の部分を削除して出版。

8月2日

中野好夫、誕生。

8月2日

マケドニアでイリンデン蜂起。

8月3

小村外相、駐ロシア公使栗野慎一郎にロシア外相ラムズドルフ宛協商案文を訓令。「韓国に於ける改革及善政の為め助言及援助(但し必要なる軍事上の援助を包含すること)を与うるは日本の専権に属することを露国に於て承認すること」(第五条)をふくむ6ヵ条。

8月5

オスマン帝国モナスチル、ロシア領事、オスマン帝国憲兵に射殺。

8月5

露、陸相クロパトキン、極東視察の報告と意見書をニコライ2世に提出。「東亜木材会社」の売却を進言。但し、この頃、宮廷顧問官ベゾブラゾフ派の巻き返し工作が宮廷・軍に浸透(日露関係悪化は、日本が英国と同盟し満州からロシアを駆逐しようとするところにある)。

10日、ベゾブラゾフは満州経営促進のため、関東長官を極東総督に昇格させ権限を付与すべきと進言。ニコライ2世は、陸相・外相・蔵相など穏健派に知らせずにこの進言を勅令公布。陸相クロパトキンは辞意表明。ニコライは辞意を認めず、「長期休暇」を与える。

8月7

中部ドイツ、クリミチャウ、纖維労働者ストライキ(~1904年1月)。

8月9

近衞篤麿・頭山満・佐々友房・神鞭知常ら国家主義者100余の対外硬同志会、対露同志会と改称。神田・錦旗館で大会。ロシアの満州撤兵、清国の満州解放要求を決議。桂首相に警告書を送る。

8月10

パリで地下鉄火災。死者84人、負傷者多数。

8月11

ジャマイカでハリケーン。被害総額100万ポンド。

8月12

ロシア、旅順口に極東総督府設置。軍隊指揮・外交も所管。関東長官アレクセーエフ大将が総督就任。

17日、この情報を得た日本は、ロシアの満州永久占領の表意、対日戦の決意表明と見る。

8月12

駐露公使栗野慎一郎、外相ラムズドルフに日本側6項目の日露協商基礎条項(日露商議条件・日露協約案)提示。露の満州権益を鉄道に限定、韓国からの引揚げ。満州・朝鮮に関する交渉開始。

10日3日ロシア、拒絶。

8月12

コロンビア上院、パナマ運河建設に関する米との条約批准、否決。


つづく

2025年4月1日火曜日

誰も居ない公園と枝垂れ桜 (3月31日(昨日)の自宅近くの風景)

 3月31日(昨日)の自宅近くの風景

▼誰も居ない公園


▼枝垂れ桜



〈100年前の今日〉 1日、大阪市に、周辺の2郡44町村を編入。大阪の人口は211万人となり、東京市を上回って日本最大の都市となる。「大大阪時代(だいおおさかじだい)」が始まる。 =百年前新聞社 (1925/04/01) / 市域拡張により、行政区は東区・南区・西区・北区の4区から13区に増加。大阪はニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ、世界で6番目に人口が多い都市となりました。経済面でも東京をしのぎ、工場出荷額は日本一に躍進します。 

 

「本日より全国のほっかほっか亭 全店舗にてライスの販売を停止します。 誠に申し訳ございません。」というエイプリルフールネタに、真顔で怒っている人がいる。言っていい冗談と言ってはいけない冗談あるだろう。この場合、客を軽く見てる会社の姿勢が透けて見える気がするね。

 

コメの混乱、農水省「投機のせい」→「品薄を心配し在庫増」説明転換(朝日);「農水省が米価高騰の主因とみる「投機的な売り惜しみ」は確認されなかった。これを受け農水省はこれまでの説明を撤回」  

 

映像:ガザの砂地に埋められた医療従事者15人の遺体発見、付近からは押しつぶされた救急車も イスラエル軍は明確な回答避ける — ロイター

 

大杉栄とその時代年表(452) 1903(明治36)年7月30日 「第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。・・・それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。」 「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。・・・両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。」(トロツキー『わが生涯』)   

 

第2回党大会で演説するレーニン

(ソヴィエト時代の絵画。レーニンの前にはめがねを手に持っているマルトフが描かれている)

1903(明治36)年

7月30日

ロシア社会民主労働党第2回大会開催(~8月23日、ブリュッセル、ロンドン)

〈トロツキー『わが生涯』他より〉


『イスクラ』の政治的指導者はレーニンであり、新聞の主要な論説家はマルトフであった。彼は、まるで話すようにすらすらと際限なく書きまくった。当時レーニンはマルトフの最も近しい盟友だったが、レーニンのそばにいるときマルトフはすでに居心地の悪さを感じていた。彼らはまだ『俺、お前』と呼びあう仲だったが、明らかに、両者の間にはすでに冷ややかなものが流れていた。マルトフはレーニンよりもはるかに、今日という日の中で生きていた。時事問題や日々の著述活動、政論、ニュース、会談の中で生きていた。レーニンは、今日の問題に取り組みながらも、明日という日に思いを馳せていた。マルトフの頭には無数の――そしてしばしば機知に富んだ――洞察、仮説、提案がつまっていたが、しばらくすると彼自身そのことを忘れてしまうことも珍しくなかった。それに対してレーニンは、自分に必要なことを、必要なときに捉えた。マルトフの思想は繊細であったが、どこか脆いところがあり、そのためレーニンは一度ならず不安げに頭を振ることになる。政治路線の相違は当時まだ決定的なものになっていなかっただけでなく、表面化すらしていなかった。後に、第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。この呼び名は最初の頃、周知のように大いに流布した。それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。

レーニンとマルトフに関しては、分裂前でも、また大会前でも、レーニンは『硬派』であり、マルトフは『軟派』であった、と言うことができる。2人ともこのことを承知していた。レーニンはマルトフのことを高く評価していたが、批判的で少し疑わしげな目でマルトフの方をちらっと見ることがあった。マルトフはこうしたレーニンの視線を感じると、気にして神経質そうに痩せた肩をひきつらせるのであった。2人は直接会って話をするときも、もはや友達のような口調で話したり冗談を言ったりするようなことはなかった。少なくとも私の前ではそうだった。レーニンは話しながらマルトフの顔を正面から見ようとしなかったし、マルトフは、きれいに磨かれたためしのない少しずり落ちた鼻眼鏡の奥で生気のない無表情な目をしていた。レーニンがマルトフのことについて私に話すときも、そのイントネーションには独特のニュアンスがあった。

『なんだって、そうユーリー[マルトフ]が言ったのか』。そんな時、ユーリーという名前は独特な響きで、すなわち、少し強調気味に、まるで警戒するような調子で発音された。『非常に立派な人間だよ。まったく。非凡な人物だと言ってもいい。だけど、何とも温厚すぎるね』。

さらに、マルトフは明らかにヴェーラ・イワノヴナ・ザスーリチの影響も受けていて、このことは、政治的というよりもむしろ心理的にマルトフをレーニンから遠ざける要因になっていた。(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


「メンシェヴィキの指導者マルトフは、革命運動における最も悲劇的な人物の1人である。才能豊かな著述家であり、機知に富んだ政治家であり、慧眼な知性の持ち主であったマルトフは、彼が指揮していた思想潮流よりもはるかに優れていた。しかし、彼の思想は勇気を欠き、彼の洞察力には意志が不足していた。回転の早い頭脳はその代わりとはならなかった。事件に対する彼の最初の反応はいつでも革命的志向を示すものだった。しかし、意志のバネで支えられていない彼の思想はすぐに下に沈んでしまう。私と彼との親しい関係は、迫りくる革命の最初の大事件という試練には堪えられなかった。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


「大会の始めにトロツキーは非常にうまい演説を行なった。その頃、すべての者はトロツキーをレーニンの熱烈な支持者とみなしていた。誰かが彼に『レーニンの棍棒』というあだ名をつけたぐらいであった。実際、この時にはレーニン自身、トロツキーが動揺するとは思ってもみなかった。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』初版「第2回大会」より)


「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。意見の相違はまず最初、規約第1条をめぐって、すなわち誰を党員とみなすかをめぐって起こった。レーニンは、党と非合法組織を一致させることに固執した。マルトフは、非合法組織の指導のもとで活動する人々も党員とみなすことを望んだ。だが、この対立は直接の実践的重要性を持っていなかった。なぜなら、どちらの定式においても議決権は非合法組織のメンバーにのみ与えられていたからである。とはいえ、二つの相異なる傾向が存在することは疑いなかった。レーニンは、党の問題において、無定形さを排し、輪郭をはっきりさせることを望んだ。マルトフは曖昧さに流れる傾向があった。この問題におけるグループ分けが、その後の大会のすべての進行を、とりわけ党の指導機関の構成を決定づけた。……

ついに大会が分裂したとき、それは参加者の誰にとっても予期せざることだった。この闘争において最も積極的な役割を果たしたレーニンですら、分裂など予想していなかったし、望んでもいなかった。両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。……

いずれにせよ、第2回党大会は、その後何年にもわたって私をレーニンから引き離したという一点だけからしても、私の生涯における大きな画期となった。だが、今こうして過去を全体として振り返ってみても、このことに悔いはない。私が再びレーニンのもとに戻ったのは、他の多くの人々よりも遅かった。しかし私は、革命、反革命、帝国主義戦争という経験をくぐり抜けそれについて熟考したうえで、自分なりの道をたどって戻ったのである。そのおかげで私は、彼の『弟子』たちよりも確固として、より誠実に戻ったのである。これらの弟子たちは、師が生きていた頃は、師の言葉や身ぶりを――しばしば的外れな形で――真似していたが、彼の死後は、無力なエピゴーネンとなり、敵勢力の手中における無自覚的な道具と化したのである。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


トロツキーは、『シベリア代議員団の報告』(1903年に出版された第2回党大会の報告)でレーニンを厳しく批判した。

また、トロツキーの『われわれの政治的課題』(1904年に出版された体系的なレーニン批判の書)には、代行主義に関する有名な一節がある。


「党内の政治においては、こういった方法は、さらにのちでもふれるように、党の組織が党そのものを『代行』し、中央委員会が党の組織を代行し、最後には一人の『独裁者』が中央委員会を代行するということに帰着する。さらに、『人民が沈黙を守っている』とき、諸委員会が『方針』をつくったり廃したりすることに帰着する。党外の政治においては、こういった方法は、自己の階級的利害を意識したプロレタリアートの現実的な力によってではなく、抽象化されたプロレタリアートの階級的利害の力によって、他の社会諸集団に圧力をかけようという試みのなかに現れる。こういった『方法』は、すでに見たように、われわれが原則的に採択した綱領をわれわれの党活動の内容に『アプリオリに』同一視することを、前提とする。要するに、この『方法』は社会民主党の政治的戦術の問題を完全に無用化するものである。」(トロツキー『われわれの政治的課題』第3章「戦術的課題」より)


7月30日

漱石は、妻鏡子には辛く当たるのに、友人に対しては気配りが細かい。

「七月三十日(木)、狩野亨吉宛手紙に、藤代禎輔(素人)から、菅虎雄の母テイ(通称貞)(在久留米)が死去したので、香典を送りたいが相談したい、大塚保治も加わりたいと云っていると伝える。

七月三十一日(金)、菅虎雄(福岡県久留米市築嶋町十一番地小畑九郎方)宛手紙に、「拝啓御北堂/かねて御病気/の處療養の御/甲斐もなく/御逝去のよし/痛哭の至に不/堪候金五圓/乍些少香奠/として為替を/以て差上條間/霊前へ御供へ/下され度候先は/右用事のみ/匆々頓首 七月三十一日/夏目金之助/大塚保治/狩野亨吉/菅虎雄様」(原武哲「夏目漱石と菅虎雄」『ちくご』第八号 昭和四十九年十一月号)」

「テイ(通称貞)は、七月二十二日(水)実家加藤家(久留米市庄島町七十七番地)で死去する。享年六十一歳。なお、菅虎雄は、第一高等学校教授在官のまま、明治三十六年五月十一日(月)発令で清国三江師範学堂に単身赴任している。担当はドイツ語・論理学。留守家族は、久留米市築嶋町十一番地小畑九郎方(管虎雄の妻静代の姉エイの嫁ぎ先)に寄寓する。(原武哲)」

「漱石の交友関係は、管虎雄は親友、狩野亨吉は畏友、大塚保治は知己であったと思われる。」(荒正人、前掲書)

7月

「七月末か八月初め(推定)(日不詳)、尼子四郎の奔走の結果、呉秀三の診察を受ける。」

「漱石が精神病だというカルテは、現在発見されていない。呉秀三は大学の同僚であったし、ロンドンでも会っているので、カルテは作らず、気軽に相談したものかと思われる。漱石の種神異常に関しては、春原千秋博士・梶谷哲男共著『現代文学者の病跡』は、「一種の非定型精神病」として考えている。」(荒正人、前掲書)


つづく