第2回党大会で演説するレーニン
(ソヴィエト時代の絵画。レーニンの前にはめがねを手に持っているマルトフが描かれている)
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1903(明治36)年
7月30日
ロシア社会民主労働党第2回大会開催(~8月23日、ブリュッセル、ロンドン)
〈トロツキー『わが生涯』他より〉
「『イスクラ』の政治的指導者はレーニンであり、新聞の主要な論説家はマルトフであった。彼は、まるで話すようにすらすらと際限なく書きまくった。当時レーニンはマルトフの最も近しい盟友だったが、レーニンのそばにいるときマルトフはすでに居心地の悪さを感じていた。彼らはまだ『俺、お前』と呼びあう仲だったが、明らかに、両者の間にはすでに冷ややかなものが流れていた。マルトフはレーニンよりもはるかに、今日という日の中で生きていた。時事問題や日々の著述活動、政論、ニュース、会談の中で生きていた。レーニンは、今日の問題に取り組みながらも、明日という日に思いを馳せていた。マルトフの頭には無数の――そしてしばしば機知に富んだ――洞察、仮説、提案がつまっていたが、しばらくすると彼自身そのことを忘れてしまうことも珍しくなかった。それに対してレーニンは、自分に必要なことを、必要なときに捉えた。マルトフの思想は繊細であったが、どこか脆いところがあり、そのためレーニンは一度ならず不安げに頭を振ることになる。政治路線の相違は当時まだ決定的なものになっていなかっただけでなく、表面化すらしていなかった。後に、第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。この呼び名は最初の頃、周知のように大いに流布した。それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。
レーニンとマルトフに関しては、分裂前でも、また大会前でも、レーニンは『硬派』であり、マルトフは『軟派』であった、と言うことができる。2人ともこのことを承知していた。レーニンはマルトフのことを高く評価していたが、批判的で少し疑わしげな目でマルトフの方をちらっと見ることがあった。マルトフはこうしたレーニンの視線を感じると、気にして神経質そうに痩せた肩をひきつらせるのであった。2人は直接会って話をするときも、もはや友達のような口調で話したり冗談を言ったりするようなことはなかった。少なくとも私の前ではそうだった。レーニンは話しながらマルトフの顔を正面から見ようとしなかったし、マルトフは、きれいに磨かれたためしのない少しずり落ちた鼻眼鏡の奥で生気のない無表情な目をしていた。レーニンがマルトフのことについて私に話すときも、そのイントネーションには独特のニュアンスがあった。
『なんだって、そうユーリー[マルトフ]が言ったのか』。そんな時、ユーリーという名前は独特な響きで、すなわち、少し強調気味に、まるで警戒するような調子で発音された。『非常に立派な人間だよ。まったく。非凡な人物だと言ってもいい。だけど、何とも温厚すぎるね』。
さらに、マルトフは明らかにヴェーラ・イワノヴナ・ザスーリチの影響も受けていて、このことは、政治的というよりもむしろ心理的にマルトフをレーニンから遠ざける要因になっていた。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)
「メンシェヴィキの指導者マルトフは、革命運動における最も悲劇的な人物の1人である。才能豊かな著述家であり、機知に富んだ政治家であり、慧眼な知性の持ち主であったマルトフは、彼が指揮していた思想潮流よりもはるかに優れていた。しかし、彼の思想は勇気を欠き、彼の洞察力には意志が不足していた。回転の早い頭脳はその代わりとはならなかった。事件に対する彼の最初の反応はいつでも革命的志向を示すものだった。しかし、意志のバネで支えられていない彼の思想はすぐに下に沈んでしまう。私と彼との親しい関係は、迫りくる革命の最初の大事件という試練には堪えられなかった。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)
「大会の始めにトロツキーは非常にうまい演説を行なった。その頃、すべての者はトロツキーをレーニンの熱烈な支持者とみなしていた。誰かが彼に『レーニンの棍棒』というあだ名をつけたぐらいであった。実際、この時にはレーニン自身、トロツキーが動揺するとは思ってもみなかった。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』初版「第2回大会」より)
「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。意見の相違はまず最初、規約第1条をめぐって、すなわち誰を党員とみなすかをめぐって起こった。レーニンは、党と非合法組織を一致させることに固執した。マルトフは、非合法組織の指導のもとで活動する人々も党員とみなすことを望んだ。だが、この対立は直接の実践的重要性を持っていなかった。なぜなら、どちらの定式においても議決権は非合法組織のメンバーにのみ与えられていたからである。とはいえ、二つの相異なる傾向が存在することは疑いなかった。レーニンは、党の問題において、無定形さを排し、輪郭をはっきりさせることを望んだ。マルトフは曖昧さに流れる傾向があった。この問題におけるグループ分けが、その後の大会のすべての進行を、とりわけ党の指導機関の構成を決定づけた。……
ついに大会が分裂したとき、それは参加者の誰にとっても予期せざることだった。この闘争において最も積極的な役割を果たしたレーニンですら、分裂など予想していなかったし、望んでもいなかった。両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。……
いずれにせよ、第2回党大会は、その後何年にもわたって私をレーニンから引き離したという一点だけからしても、私の生涯における大きな画期となった。だが、今こうして過去を全体として振り返ってみても、このことに悔いはない。私が再びレーニンのもとに戻ったのは、他の多くの人々よりも遅かった。しかし私は、革命、反革命、帝国主義戦争という経験をくぐり抜けそれについて熟考したうえで、自分なりの道をたどって戻ったのである。そのおかげで私は、彼の『弟子』たちよりも確固として、より誠実に戻ったのである。これらの弟子たちは、師が生きていた頃は、師の言葉や身ぶりを――しばしば的外れな形で――真似していたが、彼の死後は、無力なエピゴーネンとなり、敵勢力の手中における無自覚的な道具と化したのである。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)
トロツキーは、『シベリア代議員団の報告』(1903年に出版された第2回党大会の報告)でレーニンを厳しく批判した。
また、トロツキーの『われわれの政治的課題』(1904年に出版された体系的なレーニン批判の書)には、代行主義に関する有名な一節がある。
「党内の政治においては、こういった方法は、さらにのちでもふれるように、党の組織が党そのものを『代行』し、中央委員会が党の組織を代行し、最後には一人の『独裁者』が中央委員会を代行するということに帰着する。さらに、『人民が沈黙を守っている』とき、諸委員会が『方針』をつくったり廃したりすることに帰着する。党外の政治においては、こういった方法は、自己の階級的利害を意識したプロレタリアートの現実的な力によってではなく、抽象化されたプロレタリアートの階級的利害の力によって、他の社会諸集団に圧力をかけようという試みのなかに現れる。こういった『方法』は、すでに見たように、われわれが原則的に採択した綱領をわれわれの党活動の内容に『アプリオリに』同一視することを、前提とする。要するに、この『方法』は社会民主党の政治的戦術の問題を完全に無用化するものである。」(トロツキー『われわれの政治的課題』第3章「戦術的課題」より)
7月30日
漱石は、妻鏡子には辛く当たるのに、友人に対しては気配りが細かい。
「七月三十日(木)、狩野亨吉宛手紙に、藤代禎輔(素人)から、菅虎雄の母テイ(通称貞)(在久留米)が死去したので、香典を送りたいが相談したい、大塚保治も加わりたいと云っていると伝える。
七月三十一日(金)、菅虎雄(福岡県久留米市築嶋町十一番地小畑九郎方)宛手紙に、「拝啓御北堂/かねて御病気/の處療養の御/甲斐もなく/御逝去のよし/痛哭の至に不/堪候金五圓/乍些少香奠/として為替を/以て差上條間/霊前へ御供へ/下され度候先は/右用事のみ/匆々頓首 七月三十一日/夏目金之助/大塚保治/狩野亨吉/菅虎雄様」(原武哲「夏目漱石と菅虎雄」『ちくご』第八号 昭和四十九年十一月号)」
「テイ(通称貞)は、七月二十二日(水)実家加藤家(久留米市庄島町七十七番地)で死去する。享年六十一歳。なお、菅虎雄は、第一高等学校教授在官のまま、明治三十六年五月十一日(月)発令で清国三江師範学堂に単身赴任している。担当はドイツ語・論理学。留守家族は、久留米市築嶋町十一番地小畑九郎方(管虎雄の妻静代の姉エイの嫁ぎ先)に寄寓する。(原武哲)」
「漱石の交友関係は、管虎雄は親友、狩野亨吉は畏友、大塚保治は知己であったと思われる。」(荒正人、前掲書)
7月末
「七月末か八月初め(推定)(日不詳)、尼子四郎の奔走の結果、呉秀三の診察を受ける。」
「漱石が精神病だというカルテは、現在発見されていない。呉秀三は大学の同僚であったし、ロンドンでも会っているので、カルテは作らず、気軽に相談したものかと思われる。漱石の種神異常に関しては、春原千秋博士・梶谷哲男共著『現代文学者の病跡』は、「一種の非定型精神病」として考えている。」(荒正人、前掲書)
つづく