1905(明治38)年
12月26日
藤田組を退社した久原房之助、赤沢鉱山を30万円で買収(茨城県、1591年発見、日本4大銅山の一つ、鉱毒問題や幕末維新期の混乱により開発が進まず休眠状態)、日立鉱山と改称。1912年久原鉱業所設立(1928年12月29日、日本産業に改称)。日本鉱業(株)の前身。
久原房之助:
明治2年萩生まれ。生家は網元・回船問屋・醤油醸造業の旧家。父庄三郎の4男だが、兄達が他家に養子にでたため家督を継ぐ。藤田伝三郎は父の弟(父庄三郎は藤田家から久原家に婿入り)。藤田伝三郎は明治2年大阪で軍靴を製造し、明治政府の御用商人となり、後、軍用品全般に手を広げる。更に、藤田組を設立し土建業・鉱山経営を始める。房之助の父庄三郎は藤田組重役。1884年秋田県小坂銅山が久原庄三郎に払下げ。20万円・25年賦。
房之助(22)は慶應卒業後、森村組ニューヨーク支店に赴任直前、井上馨の命令で藤田組に入社、小坂鉱山赴任となる。13年間勤務。久原房之助所長のもとで、小坂鉱山は海外先進技術を取入れ、新技術「自熔精錬法」を開発(鉱石自体のもつ鉄と硫黄の酸化熱を利用する銅の精錬法)、別子・足尾に並ぶ銅山に育て上げる。
12月27日
文部省、地方長官に青年団設置奨励・育成に関して通牒。
12月28日
第22議会開院式。桂首相、休会宣言。
12月28日
岡山県に住む藤原秀次郎(43、小学校教員、役場吏員)、重罪公判に付される河野広中らの免訴を、開院式に向う天皇に直訴。「狂者」として無罪放免。
12月28日
元駐ロシア武官明石元二郎、帰国。
12月28日
この日付、幸徳秋水の『光』(西川光二郎編輯)への通信文
「故国に在る同志諸君よ、予が此手紙を認めるのは、明治三十八年の大晦日の四日前、風寒き夜の十一時過ぎ、ストーブの炭火半は灰となった傍で、鉄筆を走らせて居るのです。されど此手紙が諸君の手に入る頃は、日本の朝野は、戦勝後の新年を祝する国旗の勇ましく、太平の春に酔ふて居ることでしやう。
先づ報すべきは去十六日の演説会です。場所はサター街金門会館(ゴールデンゲートホール)といふ広い会堂で、聴衆は四百名ばかり、中には桑港社会党幹事ジョージ・ウィリアムス君を始め十数名の白人も来会しました。そして入口では社会主義の檄と社会主義の歌の印刷物を一々配布し、中では平民文庫其他の出版物の店を出して中々の景気でした。
(略)予の演説了ると、数十名の同志は起ちて一斉に社会主義の歌を高唱しました。曾て東京の平民社の楼上や青年会館の会場で耳慣れた『富の鎖を解きすてゝ、自由の国に入るはいま』の句を此夜此地で聞いた時、予は万感胸に迫るを禁じ得ませんでした。唱歌に次で社会党万歳を歓呼し、岩作君が閉会を報ずると同時に、来合せた白人社会党員は代る代る来つて予と握手し、此の会の成功を祝して、争ふて平民文庫や絵葉書を買つてくれました。(略)
一昨二十六日、テキサスに居ると思った同志片山潜君が、突如として予の室に這入つて来られた時の驚きと歓びとは言語に尽せませんでした。併し三日の後には直に分れねばなりません。予来り君帰る、集散離合の定めなさよ。(略)」
片山潜はこのとき数え年47歳、幸徳秋水は数え年35歳。
片山潜が秋水らの社会主義者たちと立場を異にして、アムステルダムの万国社会主義者大会出席のためアメリカへ発ったのは、明治36年(1903)12月29日。
サンフランシスコ到着後は、まず食うために働かざるをえず、体面を構わず種々の労働をした。前の在米時代に苦学生としてコックをした経験があり、主にレストランの給仕として働いた。
翌明治37年8月、ヨーロッパに渡り、14日から9月2日までアムステルダムのその大会に出席した。
その後、9月11日にセントルイス市に戻った。当時、セントルイス市では万国博覧会が催されていたので、彼はそこに立ち寄った。1ヶ月後、南部のテキサス州ヒューストンに向い、そこに1年2ヶ月ほど滞在した。"
このとき片山は、ヒューストン近郊に数百エーカーの米作用農地を買い、農業の経営をはじめた。
明治34四年に片山が中心となって日本で「社会党」を結成したときの同志の一人、河上清が、その後渡米し、大学を卒業し、アメリカでジャーナリストになっていた。河上は明治38年秋、ヒューストンに片山を訪ねた。そのとき片山は、自分がアメリカへ来たのは初めから農場を開く計画であった、と河上に語った。万国社会主義者大会に出ることも目的の一つではあったが、このテキサスの農場計画は初めから彼の心にあったことであった。
農場を経営する気特になった理由を河上清に尋ねられ、片山は言った。
「私は七年間も休まず働いたので疲れはてている。ゆっくり休む必要がある。その上、戦争に勝ったぬか喜びで国民がみないい気になっている時、社会主義の説教をしてみたところで無駄なことではないか。この気違いじみた興奮が静まり、私の元気も回復したら、日本に帰って、社会主義の旗をかかげて同志と共に働くつもりだ。」
片山は、その農場経営のために1万エーカーの土地を買い、30戸の日本移民を招致する計画を立てた。そのため彼は、日本に帰る途中、サンフランシスコに出て秋水と面会した。片山と秋水はレストランで食事をした。しかし、社会主義のために働くことを中止して、農場経営に心を砕いている片山と、自己の思想のために更に前進しようとしている秋水とは話が合わなかった。社会主義についても、当時の片山は、労働運動は労働者の生活改善を直接目的とすべきであり、革命は必ずしも暴力を伴わずとも達成し得るものである、という漸進的な穏和な考えを抱いていた。秋水と片山は気まずい思いをして別れた。
12月29日
「十二月二十九日(金)、夕刻から雪降り出し、十センチ位積る。
伊藤左千夫宛手紙に、『野菊の墓』(『ホトトギス』第九巻第四号明治三十九年一月号)を批評して、激賞する。
十二月三十日(土)、『芸苑』(明治三十九年一月号)届き、森田草平宛(最初の手紙)に、「病薬」の懇切な批評を書き送る。中川芳太郎来る。鈴木三重苦から、乾柿(のし柿)送られる。大層うまい。子供も食べる。
十二月三十一日(日)、曇。大晦日。午前、炬燵で雑誌の小説を読む。午後(推定)、野村伝四と上野を散歩する。耶蘇数の戸外諏説の聞き手は、一人もいない。郁文館中学の寄宿合の生徒たち騒ぐ。
十二月末(日不詳)、斎藤阿具来る。」
「他人の作品を正面から批評した最初のもの。また、伊藤左千夫の処女作である。明治三十九年一月一日(月)鈴木三重吉宛一月八日(月)、十日(水)森田草平宛でこの作品を推奨する。
森田草平は、上田敏・馬場孤蝶を主催者として『芸苑』を創刊する。」(荒正人、前掲書)
つづく

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