1905(明治38)年
12月9日
アリスティード・ブリアン仏首相、国家と教会を分離する政教分離法を公布。1801年の政教条約(ナポレオンとローマ教皇ピウス7世が締結)を破棄し、カトリック教会の特権を廃止。
12月10日
前尾繁三郎、誕生。
12月11日
清国の考察政治大臣載沢ら、各国の政治視察に出発。
12月11日
テヘラン、砂糖業者に体罰の市の役人に宗教学僧反発。立憲革命の口火。
12月11日
グレー、英外相に就任。
12月13日
テヘラン住民約2千、市長の圧制に抗議、シャー・アブドゥル・アズィームに座り込み抗議行動(バスト、小聖遷)。
12月14日
幸徳秋水、社会党小集会に参加。アメリカ社会党桑港支部に入党手続き。
16日、日米合同演説会、秋水参加。聴衆400。秋水は「戦後における日本国民について」で演説、普通選挙と社会主義について述べる。17日、フリッチ夫人が普通選挙無用を論じる。
12月16日
第2次日韓協約、「官報」に「韓日協商条約」として公表。
12月17日
東京市の陸軍大歓迎会。兵士1万5千が日比谷公園から上野公園まで行進。
12月17日
(漱石)
「十二月十七日(日)、『吾輩は綱である』(七)(八)脱稿する。約百三十四、五枚書きあげる。
十二月十八日(月)、煎京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。
高浜虚子宛手紙に、「此二週間帝文とホトゝギスでひまさへあればかきつゞけもう原稿紙を見るのもいやになりました是では小説抔で飯を食ふ事は思も寄らない。」「今日はがつかりして遊びたいが生憎誰もこない。行く所もない。」と訴える。
十二月十九日(火)、白仁三郎(坂元雷鳥)と川淵正幸を昼食に招待する。(両人共、なぜ改まって招待されたかわからない)」(荒正人、前掲書)
12月17日
日本政府の中国人留学生取締強化に抗議し、留学生の陳天華が自殺。
12月18日
ロシア・バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、モスクワ着。20日、ペテルブルク着。
12月19日
モンテネグロのニコラ1世、憲法と普通選挙による政府を容認。第1回ツルナゴーラ(モンテネグロ)国会。
12月19日
アルバート・アインシュタイン、ブラウン運動についての第2論文が受理される(『物理学年報』誌)。
12月20日
「韓国統監府及理事庁官制」公布(勅令267号)。
韓国内政全般の監督・支配のための植民地機構。①統監は天皇直属、②韓国外交権の行使は東京外務省、統監府の外交事務は地方事務のみ。統監に伊藤博文任命(枢密院議長は山県有朋)。
12月20日
満州軍総司令部を解散。連合艦隊編制を解除。
12月20日
山口孤剣「髯女郎の生活状態」(「光」第3号)。「内村鑑三氏亦常に人に語るらく「余は四十年間嘗て乞食に金銭を恵みたることなし」と、以て其の強慾なるを見るに足るべし」と、内村批判は人格批判に及ぶ。
12月21日
第1次桂内閣総辞職。政友会西園寺首班指名(1月7日内閣成立)。「桂園内閣時代の開幕」。
前年12月から桂首相と政友会原敬とが秘密会談4回。政友会はいかなる講和条件でも政府を支持、戦後は桂が辞職し後任に西園寺を推す密約成立。9月2日、政友会協議員会で西園寺は講和条件は遺憾としつつも、将来の日本の発展のために政府支持を明言、党員の機先を制する。原敬は9月4日~10月3日の殆どを古河財閥傘下鉱山視察のため離京。帰京後は、党大会要求の地方党員をなだめつつ桂と気脈を通じ、12月の政権交代を迫る。
12月21日
社説「桂伯等の不徳不臣」(「東京朝日」)。「…去れ。早く去れ。一刻も早く去れ。…」。
「去れ、早く去れ、一刻も早く去れ、吾人の塩は既に撒かれたり」。
12月21日
(漱石)
「十二月二十一日(木)、夕刻、上田敏から誘われていた伊予紋(下谷区同朋町二丁目、現・台東区上野三丁目)での会合に出席する。
十二月二十二日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。」(荒正人、前掲書)
12月22日
日清間、満州善後協約と付属協定調印。
南満州、ロシアから日本への権利譲渡承認。満州経営の第一歩。
満州に関する日清条約(東三省事宜条約)・付属協定(北京)・付属取極め。日本のロシア利権の引き継ぎ。盛京・吉林・黒龍江三省での開市・開港。付属協定で日本による安東県~奉天間軍用鉄道(安奉軽便鉄道)の経営継続と改良、「南満州鉄道」の免税。付属取極めで吉良鉄道敷設権(長春~吉林間)、奉天・新民屯間軍用鉄道の清国への売渡し、「南満州鉄道」並行線・支線建設の禁止などを定める。即日実施。1906年1月31日公布。
安奉軽便鉄道(韓国国境~奉天):
日露開戦と同時に朝鮮半島を北進し、5月1日に鴨緑江を渡河した第1軍が、兵站輸送路確保のために建設。臨時鉄道大隊を編成、8月10日安東(丹東)~鳳凰城建設開始、11月3日完成。翌年2月11日鳳凰城~下馬塔完成、8月10日下馬塔~奉天完成。日本側は、講和条約で譲渡された東清鉄道南部支線同様に日本の管理の下に経営することを画策。京釜・京義鉄道で朝鮮半島を縦断、中国領内で東清鉄道他に連結させる計画。日露戦争後の、朝鮮・中国東北部支配の確立という「戦後経営」の重要な布石。
12月22日
貴族院令改正公布。爵位議員、勅撰議員の定数規定。
12月23日
大同倶楽部結成。
12月23日
島崎藤村、『破戒』自費出版の進捗。
11月27日に草稿完了。
浄書に取りかかるにあたり、藤村は、本文の組み方から、挿絵や表紙の写真製版の仕方にまで念を入れた。鏑木清方に絵を依頼し、この頃、新しい写真製版術をアメリカから輸入した田中猪太郎に相談して事を運んだ。また本文の組と同じ字数で、原稿紙1枚がちょうど1頁になるように12行432字の原稿
用紙の版木を作り、それを手刷りして、その上に浄書を行った。
この日(12月23日)、浄書は半分に近い250枚に達した。
彼は、先に蘆花が『黒潮』を自費印刷して発行した話や、田口掬汀(きくてい)が自費出版した時の様子を聞き合せた。その結果、自費で印刷製本するのはよいが、販売までを作家行うのは、面倒も多く、その割に効果が挙らぬことを知った。
そこで、友人たちに、信用のできる親切な出版元はないか尋ね、その結果、出版屋としてばかりでなく、取り次ぎ屋としても東京堂と並ぶ大きな店である神保町の上田屋がよいということを聞いた。上田屋に相談すると、春頃から、「読売新聞」「新小説」等に藤村の新作のことが報じられていたので、発売を一手に任せてくれるなら、自分の店の出版物と同様の努力をして見たい、と返事。藤村は上田屋の店を見に行き、質素だが手固い店の様子が気に入った。新聞広告などについても両方で相談して出すことに話がきまった。
12月23日
フリッチ夫人、幸徳に治者暗殺を論ず。
26日、片山潜(第2インター世界大会出席し、帰路サンフランシスコに立寄る)、幸徳秋水を訪問。
29日、再び訪問、会食。
30日、帰国の片山を見送る。
12月24日
京浜電気鉄道、品川~神奈川間、全通。
12月24日
(漱石)
「十二月二十四日(日)、午前、市来松風(不詳)、「猫のこよみ」持参する。
十二月二十五日(月)頃、森田草平来て、「病葉」が『芸苑』創刊号(明治三十九年一月号)に掲載されるので、読んで欲しいと頼む。
十二月二十六日(火)、内田貢(魯庵)から猫の絵葉書を送られ、「一人住んで聞けば雁なき渡る」と返礼する。」(荒正人、前掲書)
12月25日
日比谷焼打ち事件起訴の群衆300余の予審結果。免訴182、有罪102(うち重罪18)。有罪は職工・職人・車夫・人夫・店員などで20代前半のもの。
12月25日
第22議会召集。28日 開会。1906.3.27 閉会。
つづく

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