2011年10月2日日曜日

高橋源一郎「朝日 論壇時評」(9月29日)「そのままでいいのかい?」「原発の指さし男」 言葉狩り 科学技術の進歩と人間の愚かしさと

9月29日付け「朝日新聞」掲載の高橋源一郎「論壇時評」
今回の基調は「原発の指さし男」
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1.原発の指さし男(コチラ)

「真っ白な放射線防護服を着て顔面をマスクで覆い隠した男が、無声で、こちらを指さし続けている・・・・・。
こいつは誰?
いったい、なにを訴えているんだ。
8月末、福島第一原発の固定監視カメラの前に、突然映ったこの映像は、大きな話題となった。
その後、「指さし男」本人がネット上に登場し、過酷な環境下で働く原発作業員の実態を知ってもらいたくてやったのだと告白したけれど、彼が指さしたものは、もっとちがうなにかだったようにぼくには思えた。

・・・・・(略)・・・・・

「指さし男」は、その「指さし」で、こういおうとしたのかもしれないな。

そこのあんた、そのままでいいと思ってんの? そんな遠くから見てるばかりじゃなにも変わりはしないよ
って。

・・・・・(略)・・・・・・」

3.中沢新一「緑の資本論」(ちくま学芸文庫)

「・・・・・「指さし男」みたいな、政治的な(パフォーマンス)アートは、時に、ひどいしっぺ返しを食らう。

9・11同時多発テロ直後、ドイツの現代音楽家シュトックハウゼンは、あのテロを「アートの最大の作品」と褒めたたえたとして凄(すさ)まじいバッシングに出会った(中沢新一の「緑の資本論」に詳しい)。」

4.「自由な言葉あってこそ」(9月20日付け「東京新聞」社説)

「鉢呂前経産相が、原発事故の後、住民が避難して無人となった町の様子を見て「死の町のようだ」といって批判され
(もう一つ、「放射能つけちゃうぞ」発言もあるが、この報道経緯も謎めいている)、
たちまち辞任に追い込まれた時、ぼくは、この「シュトックハウゼン事件」を思い出した。

その少し前、ぼくも鉢呂さんとほぼ同じところに行き、「こういうの死の町っていうんだね」と呟(つぶや)いたばかりだったんだ。
あんな程度で辞任させられるわけ? 
意味わかんない・・・・・。

この「言葉狩り」としかいいようがない事件の後、東京新聞は社説でこう訴えた。

「自戒を込めて書く。メディアも政治家も少し冷静になろう。
考える時間が必要だ。
言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか」」

「「震災」の後、どこかで、ボタンのかけ違いが起こってしまったんだろうか。
正しさを求める気持ちが突っ走り、その結果、逆に「正しさ」の範囲を狭めて、息苦しい社会が作られつつあるのかもしれない
だとするなら、「指さし男」のメッセージは、
「そうやって、あなたたちは、誰かを指さし、攻撃しているけれど、一度その指を自分に向けてみてはどうだい?
なんだろうか。」

これに関しては、別に記事を掲載しました(コチラ)

5.山本義隆「福島の原発事故をめぐって」(みすず書房)

「原発事故を科学技術の歴史の中に位置づけてみせた山本義隆は、『海底二万里』のヴェルヌが「別の近未来小説の中で、科学技術の粋を集めた人工島が人間関係のもつれによって崩壊することを描いたことに触れ、

「科学技術が自然を越えられないばかりか、社会を破局に導く可能性のあることを、そしてそれが昔から変わらぬ人間社会の愚かしさによってもたらされることを、はじめて予言した」

と書いている。

どれほど科学技術が進歩しようと、それを扱う人間の愚かしさは今も昔も変わらない
そして、そのことにだけは、人は気づかないのである。」
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「編集部が選ぶ注目の論考」では、

先にご紹介した、
小田嶋隆「私も原子力について本当の事を言うぞ」 (コチラ)
がピックアップされていた。
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高橋源一郎「朝日論壇時評」
6月30日付け「原発と社会構造」(コチラ)
8月26日付け「柔らかさの秘密」(コチラ)
10月27日付け「祝島からNYへ」(コチラ)
11月24日分はコチラ
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2012年4月26日分
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