今回は8月25日掲載分より、
まず冒頭
******(段落を施す)
まいりました。
「なにが?」って、スタジオジブリの小冊子「熱風」の表紙に(中身じゃなくてすいません)。
ジブリのある東小金井の路上で、作業用のエプロンを着た宮崎駿御大が「NO! 原発」のプラカードを首からぶら下げ、ひとりでデモをしている。
その後ろを、傘を持ったた女性と右手に「Stop」のプラカード・左手で犬を引いた男性が、付き従うように歩いている。
デモというより、散歩みたい。
というか、どう見ても、黄門様と助さん格さん(もしくは、大トトロと中トトロ・小トトロ)だ。
自転車に乗り、たまたますれ違った男性が、「えっえっ? 変なオジサンかと思ったらミヤザキハヤオじゃん!」という表情を浮かべている。
すごく面白い。
けれど、ただ面白いだけじゃない。
この面白さは、この写真が醸しだす「柔らかさ」から来ている、とぼくは思った。
「柔らかさ」があるとは、いろんな意味にとれるということだ。
ぼくたちは、このたった一枚の写真から、
「反原発」への強い意志も、
そういう姿勢は孤独に見えるよという意味も、
どんなメッセージも日常から離れてはいけないよという示唆も、
でも社会的メッセージを出すって客観的に見ると滑稽だよねという溜め息も、
同時に感じることができる。
なぜ、そんなことをしたのか。
それは、どうしてもあることを伝えたいと考えたからだ。
そして、なにかを伝えようとするなら、ただ、いいたいことをいうだけでは、ダメなんだ。
それを伝えたい相手に、そのことを徹底して考えてもらえる空間をも届けなければならない。
それが「柔らかさ」の秘密なのである。
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そして、一足飛びに高橋源一郎撰のラスト・・・
*******(段落を施す)
最後に、中国鉄道事故に関して、日本人の感受性の乏しさを論じた藤原帰一のコラムに触れたい。
(「鉄道事故で健在化した日本人の乏しい感受性」(週刊東洋経済8月13・20日号)
*原文は番号のみ記し、雑誌名は別枠表示しえいる)
「日本では起こらない事故だという満足感は見られても、人命を軽視する高速鉄道による痛ましい事故を、自分に降りかかった災難と同じように悼む態度」がこの国ではほとんど見られない、と藤原は書く。
その底流には根深い中国(だけではない)への蔑視・敵視の感情がある。
ぼくたちの国の底で渦巻く禍々(まがまが)しいもの、それについてはいずれ触れたいと思っている。
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今や蔑視というより敵愾心のほうが強いかもしれない。或いは羨望?
それと、「日本では起こらない事故」だという慢心も怖い。
「禍々(まがまが)しいもの」って?
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「伝えたいこと、ありますか」
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最後に、高橋源一郎撰ではなくて、「編集部が選ぶ注目の論考」から一つ、・・・
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原発は単に「電源種」の問題ではないと語るのが、宮台真司・飯田哲也・神保哲生「原発ムラという怪物をなぜ我々は作ってしまったのか」(創9・1 0月号)。
宮台の主張は
「問題は『不合理な原発をどうするか』より『不合理が自明な原発をどうにもできない社会をどうするか』なのです」
と明快。
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確かに、「それ」ではなく、
「それを生み出す社会」
「それをどうにもできない社会」
について考える視点は重要だ。
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高橋源一郎氏の「朝日論壇時評」
6月30日「原発と社会構造」はコチラ
9月29日「そのままでいいのかい? 原発の指さし男」はコチラ
10月27日「祝島からNYへ 希望の共同体を求めて」はコチラ
11月24日分はコチラ
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