「主筆は85歳になっているはずだが、いまだに中二病だ。」
という一節は、「読売新聞」主筆のことを言っている。
少し前の文章なので知っている人も多いと思うが、
日経ビジネスオンライン連載
「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明」の9月9日版である
「私も原子力について本当の事を言うぞ」
のラストにある文章である。
「日経ビジネス」9月19日版によるとアクセスランキング一位の記事である。
以下、要旨を記す。
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9月7日付「読売新聞」社説
社説は、《エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を》と題して、真正面から「脱原発」の世論に反対の意を表明している。
社説の4つの段落の小見出しは、以下。
再稼働で電力不足の解消急げ
節電だけでは足りない
「新設断念」は早過ぎる
原子力技術の衰退防げ
いずれも小見出しを見ればほぼ内容が読み取れる明快な主張。
最後の「原子力技術の衰退防げ」のところに注目すると、・・・・。
《高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきではない。
中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画している。
日本が原発を輸出し、安全操業の技術も供与することは、原発事故のリスク低減に役立つはずだ。
日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。
こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。
首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して、エネルギー政策を推進すべきだ。》
とある。
「驚嘆すべき主張だ。
というのも、読売新聞は、原発が核兵器である旨を半ば公認しているわけで、この事実は、何回びっくりしてみせても足りない、驚天動地の新説だからだ。」
と小田嶋さんは驚く。
しかし、、
「この主張自体は、さして目新しいもの」ではない。
何故なら、
「議論好きの軍事オタクの皆さんは20年前からずっと同じ主張を繰り返していた」し、
「床屋政談においてさえ、「原発核兵器説」は、半ば外交常識として扱われる、議論の前提だった」
から。
では、何に驚くかと言えば、・・・・
「オモテの世界では、原発はあくまでも「原子力平和利用のエース」である」のに、
「大新聞の社説が、「原発の潜在的核抑止力」に言及するだなんてことは、本来ならば、想定外のそのまた外側にある巨大津波クラスの椿事なのである。」
ということだ。
「本来なら、この種のセリフは、新聞の社説が言ってしまって良いお話ではない。
なんとなれば、「原発核兵器論」は、「それを言ったらおしまいでしょ」的なぶっちゃけ話で、そうでなくても、著しくたしなみを欠いた議論だからだ。」
「マナーとしては、婚活パーティーの席でいきなりセックスの話を持ち出す態度に近い。
とてもじゃないが、紳士のプロトコルとは言えない。
こういう言い方は、少なくとも、震災前には考えられなかった。」
とも言う。
さて、ここから、「中二病」の話に展開してゆく。
ニュアンスがビミョーなので、長い引用をさせて戴く。
「原子力発電を推進しようとしている人々の共通項は、「マッチョ」というところにある、と、少なくとも私は、かように考えている。
理由は、私自身が、原子力のパワーに魅力を感じているからだ。
パワー以外のすべての点で、私は、原子力技術には疑念を抱いている。
安全性はもちろん、コスト面でも、将来性においても、取り上げるべきメリットは見当たらない。21世紀の技術的水準から見れば、原子力は、どうにも前世紀的で、大雑把で、危険で、不明な部分の多い、未成熟な技術だと、そう考えている。
でも、パワーだけは別だ。
あの桁違いの出力と、暴力的な物理的なパワーには、どうしても魅了されてしまう。理屈ではなく。生理として。
告白すれば、数年前に柏崎刈羽の原発を見学した時、私は、原発のあのたたずまいにテもなく魅了された。
自分ながら意外だったのだが、あの巨大さと不気味な静けさに、心を奪われてしまったのだ。
「おお」
自衛隊の航空基地や、艦船や、潜水艦を見た時と同じだ。
ああいう物件を目の当たりにすると、私は一人の小学生に舞い戻ってしまう。
近所にあった自衛隊の駐屯地に忍び込んで戦車の写真を取ったり、空薬莢を拾っていたあの時代そのままのマシンオタクに戻ってしまうのだ。
で、推進派の皆さんも、本当のところは、原子力が備えている「説明不能の魅力」としての「マッチョ」に魅了されているのではなかろうかと、かように推察している次第なのである。
問題は、この「原子力かっけー」「原爆つえー」「核分裂パねぇ」というこの感慨が、ハタから見て、あまりにも子供っぽく見えることだ。
だから、紳士を自認する原子力シンパの皆さんは、原子力の優位性を語るにおいて、「かっけー」とか「すげえ」とかいった率直なボキャブラリーを口外することを極力いましめて、その代わりに、「エネルギー効率」であるとか「温暖化ガス排出ゼロ」であるとかいったクレバーに聞こえる言葉を使うことにしている。
でも、心の中には、「かっけー」「つええ」「すげえ」ぐらいな間投詞が溢れているはずなのだ。
男の子は、何歳(いくつ)になっても変わらない。
われわれは、強力で、派手で、むちゃくちゃで、制御の難しいホットロッドなマシンが、心の底から大好きなのである。」
(中略)
「原発を推進せんとしている人々の中にも、色々な考えの持ち主がいる。
あくまでも利権や既得権益を防衛するべく原発の維持に心を砕いている人もいるのだろうし、何十年の研究成果を無意味にしたくない心理から、原子力のドグマに殉じている人々もいるはずだ。
もちろん、その種の私心とはまったく別に、純粋に経済の停滞を懸念する気持から、安定的な電力供給源としての原発を支持している人もいることだろう。
でも、本命は「マッチョ」だ。
どういう理屈で原子力を擁護するのであれ、その心の奥底には、原子力のもたらす圧倒的な熱量を賛美するテの「美意識」があずかっている。
その「美意識」は、宇宙飛行士が宇宙の深遠さに憧れていたり、F1のメカニックがスピードに魅了されていたりするのと同じ種類の、直線的な傾斜を含んだ、中二病に似たものだ。
われわれは、それに抵抗することができない。
というのも、何かを欲しがっている時、われわれは、ガキだからだ。
原子力は男の世界だ。
学者も作業員も推進者も官僚もほとんどすべて男ばかりの、いまどき珍しいガチムチなサークルだ。
そういう著しく男密度の高い場所では、「怖い」という言葉は、事実上封殺される。
誰もその言葉を口にすることができなくなるのだ。」
(中略)
「この度、読売新聞社は、原子力技術の将来を案ずるあまり、うっかり本音を漏らしてしまったのだと思う。
「君らは色々言うけどさ、原発を持ってるとそれだけで周辺国を黙らせることができるんだぜ」
という、このどうにも中二病なマッチョ志向は、外務官僚や防衛省関係者が、内心で思ってはいても決して口外しない種類の、懐中の剣の如き思想だった。
が、一方において、中二病は、彼らの「切り札」でもあったわけだ。
なんという子供っぽさだろう。
すべてを原子力ムラの陰謀ということにしておけば、一応の安心立命は得られる。
でも、原発は、われわれがそれを望んだからこそ建っている建築物であり、われわれがそのパワーに魅了されているというそのことを原動力として動き続けている施設でもある。
それらを止めるためには、われわれの中にいるマッチョをなんとかして説き伏せなければならない。
それは、とても難しいことだ。
主筆は85歳になっているはずだが、いまだに中二病だ。
道は険しい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)」
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