もう既にいささか旧聞に属する感のある、前経産相鉢呂氏の辞任。
マスコミにはしゃぎぶりにうんざりして、もういちいち取り上げるのが面倒だったが、
高橋源一郎「朝日論壇時評」で「東京新聞」の社説を知り(コチラ)、ホッとしたところに、
最新の「日経ビジネス」10月3日号で、
元閣僚にして現大学教授、パソナグループ会長竹中平蔵の浅薄な指摘を読んで、
少しスウィッチが入った。
竹中は
「開いた口が塞がらない-。
鉢呂吉雄・前経済産業大臣の失言を聞いた時、多くの人がそう感じただろう。
就任からわずか9日目で退任を余儀なくされた閣僚は、まさに複数の失言を放って新内閣に打撃を与えた。
・・・・・(略)・・・・・」
という。
このヒト、本気でそう思ったんだ。
なんとアサハカ!
*
以下は、私がいろいろ教わった新聞記事より。
1.「自由な言葉あってこそ」(9月20日付け「東京新聞」社説)
:高橋源一郎「朝日論壇時評」再録
「鉢呂前経産相が、原発事故の後、住民が避難して無人となった町の様子を見て「死の町のようだ」といって批判され
(もう一つ、「放射能つけちゃうぞ」発言もあるが、この報道経緯も謎めいている)、
たちまち辞任に追い込まれた時、ぼくは、この「シュトックハウゼン事件」を思い出した。
その少し前、ぼくも鉢呂さんとほぼ同じところに行き、「こういうの死の町っていうんだね」と呟(つぶや)いたばかりだったんだ。
あんな程度で辞任させられるわけ? 意味わかんない・・・・・。
この「言葉狩り」としかいいようがない事件の後、東京新聞は社説でこう訴えた。
「自戒を込めて書く。
メディアも政治家も少し冷静になろう。
考える時間が必要だ。
言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか」」
「「震災」の後、どこかで、ボタンのかけ違いが起こってしまったんだろうか。
正しさを求める気持ちが突っ走り、その結果、逆に「正しさ」の範囲を狭めて、息苦しい社会が作られつつあるのかもしれない。・・・・・」
2.写真家・作家藤原新也(9月13日「朝日新聞」)
「原発事故について「すべての人間が被害者と同時に加害者」という言い方がある。
だが、農耕民族的な「和の精神」では今の問題は解決しない。
原発利権の甘い汁を吸い続けてきた者たちと、福島県飯舘村から生活を捨てて逃げた人々を同じ線上には並べられない。
遊牧民族系の社会のように善と悪を峻別し、断罪するときだ。
しかし、今マスコミはその矛先を本丸ではなく、あさっての方向に向けている。
鉢呂吉雄前経済産業相の問題がよい例だ。
福島第一原発の周辺を「死のまちのようだった」と話したことの、どこがおかしいのか。ありのままだ。
死という言葉が福島県民の神経をさかなでする、という差別用語への過敏が、事実すらも排除してしまう。
「放射能をつけちゃうぞ」という記者との瑣末なやり取りを、重箱の隅をつつくように記事にする神経も尋常ではない。まるで小学校の反省会の「言いつけ」のようなものだ。
胆力の衰えた幼稚な報道で能力未知数の政治家がたちどころに消えるのは、国民にとってただただくだらない損失だ。
新聞はかつて電力会社の原発推進広告の掲載を拒否していたが、1974年から朝日新聞を皮切りに掲載するようになった。
背景にはオイルショックによる広告収入の減少があったと聞く。
これまでの原発報道で中立性を損なったことはなかったか、マスコミは胸に手を当て自己検証するべきだ。
3.9月24日付け「毎日新聞」「メディア時評」山田奨治
「ところが、この失言の事実については、あいまいな点が多いと指摘されている。
朝日新聞は13日朝刊で、報道各社の表現のばらつきを示し検証記事を掲載した。
それによると
朝日新聞は「記者団に『放射能をつけちゃうぞ』と発言」、
読売新聞は「『ほら、放射能』と語りかけた」、
産経新聞は「『放射能をうつしてやる』などと発言」
と報道した。
朝日と読売は断定的だが、鉢呂氏が言ったとされる言葉には差がある。
朝日の検証記事からは、失言の場にいなかったはずのメヂィアまでもが、伝聞をもとに、自社が確認した事実のように報道した実態が浮かび上がっている。
またその場にいた記者たちは、鉢呂氏の言動をたわいのない「悪ふざけ」とみて当初は報道しなかったこと、そして、9日夜にフジテレビが報道したのを受けて、新聞各社が翌日朝刊で一斉に取り上げたこともわかる。
毎日新聞は10日朝刊で鉢呂氏が袖をすりつける仕草をした相手が自社の記者だったことを明らかにした。
しかし、その時の鉢呂氏の言葉は、「『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言」だったと、あいまいな表現にとどめている。
毎日新聞は14日朝刊にこの問題の検証記事を掲げたが、「…という趣旨の発言」の表現はそのままである。
その時の録音はないのだろうか。鉢呂氏は実際に何と言ったのだろうか。
記者の記憶が定かでないのなら、正直にそう書くべきではないか。
「事件」の一方の当事者として毎日新聞にはもっと説明する義務がある。
報道機関としての信用にかかわることだ。
鉢呂氏には、もうひとつの「失言」があった。
原発周辺を「死の町」と形容した、9日午前の記者会見である。
この発言がどのようなものだったのかは、ネットに投稿されlた映像で確認できる。
鉢呂氏は、やや語気を弱めながら「死の町」と言っている。
視察で受けた衝撃を素直に表現していることが、言葉の抑揚から伝わってくる。
私は、荒廃した国土を「死の町」と感じたことが、悪いとは思わない。
「死の町」の認識が出発点であってもかまわないではないか。
そこから原発周辺をどのように再生させるのか、その策をこそ問うべきだった。
メディアのやり玉に挙がるたびに、大臣が辞めなければならないようでは、この国の将来は、やはり暗い。」
(「毎日新聞」の言い分)
「9月8日夜の鉢呂氏の発言は記者団の非公式な取材に応じたもので、本社記者は録音していませんでした。
問題となっている鉢呂氏の言動は唐突だったため、言葉遣いまでは必ずしも明確でない面があり、各紙の表現が分かれたのだと考えます。
しかし、「放射能」という言葉を口にしながら、悪ふざけのように何かをすりつける仕草をしたため、『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言」と報じました。(編集編成局)」
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以上のように、
①「死の町」は、衝撃を受けた事実を率直に述べたこと、「朝日」「毎日」のような大新聞に論評を掲載する識者の殆どが「悪くない」と判定していること。
②「つけちゃうぞ」は、現場の記者たちは録音してないし、記憶しないくらいの瑣末なふざけであった。ところが、どこかのテレビが報道したのを受けて、事実を確認していない報道機関までもが騒ぎ立てた、ということらしい。
「東京新聞」以外のマスコミの反省が不十分なのは言うまでもない。
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高橋源一郎は、震災以降、息苦しい社会がつくられつつある、と言うが、
「悪者」を決めつけ、一点集中してカサにかかって攻撃する社会は、小泉時代からあったように私は感じている。
「国民的目線(常識)」「市民的目線(常識)」から見て、いかにも「悪い」小沢やその秘書は、状況証拠だけで有罪。
これが罷り通り、マスコミは一片の疑義さえも挟もうとしない。
勤務中の不適切行為で停職処分となった保安院の西山審議官や、
新しい規制法で窒息するかもしれない(弱小の)暴力団でさえ、
こんな「息苦しい社会」の犠牲者に見えてくる。
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