2024年5月9日木曜日

自民党のカネの汚さ、果てしない(機密費=公金=裏金)。全貌解明しない限り政治刷新あり得ない。 ⇒ 安倍氏、2013年参院選で候補者に現金100万円 「裏金」か(中国新聞);「(13年の参院選は)参院で野党が多数を占める「ねじれ国会」が解消されるかが最大の焦点で、自民党は圧勝し、ねじれを解消した」  「複数の元政権幹部は、使途が公表されない内閣官房報償費(機密費)が使われた可能性があるとの見方を示した…政治資金規正法違反(不記載)などに当たる可能性も」      

退職金ゼロにする奇策が全国自治体で横行 非正規公務員5.8万人、勤務が毎日15分短いだけで「パート扱い」:東京新聞

3月の実質賃金減少、過去最長に 24カ月連続、2.5%減(時事) / 実質賃金減、過去最長に - 24カ月連続、リーマン期超え(共同)

大杉栄とその時代年表(125) 1894(明治27)年11月1日~8日 孫文、ハワイで興中会設立 第2軍第1師団、金州城陥落 米、調停表明 北接東学農民軍(4万)を二手に分ける

 

韓国テレビ番組「緑豆の花」より

大杉栄とその時代年表(124) 1894(明治27)年10月28日~31日 後備歩兵独立第19大隊長南小四郎少佐に渡韓命令 第5師団、鳳凰城占領 第1軍山県司令官、安東着 一葉、禿木から尾崎紅葉校訂本『西鶴全集』を借りる(「大つごもり」「たけくらべ」「わかれ道」などに影響) より続く

1894(明治27)年

11月

孫文、ハワイで興中会設立

清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農民の家に生まれる。孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳。9歳のとき父を亡くす。12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。

ハワイ王国に出稼ぎで渡っていた兄の孫眉からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住。同地のイオラニ・スクールを卒業し、同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻された。

帰国後、イギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業。

清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、この月(1894年11月)にハワイで秘密結社、興中会を組織。

翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命。

11月

池辺三山、フランスより帰国。

11月

植村正久(キリスト教団指導者)「今回の戦争は、大日本帝国が開進的天職を自ら意識し、これを世界に披露する機会」(福音新報」)。

11月

坪内逍遙(35)「戯曲・桐一葉」(早稲田文学)~28年9月。演劇刷新の志。

11月

泉鏡花『義血侠血』。

11月

斎藤緑雨『新体詩見本』

11月

「資本論」第3巻(第3部)出版。

11月上旬

この頃から野々宮菊子が、一葉に対して横須賀尋常小学校の公用文章の作成や添削を依頼してくるようになる

11月1日

『日本』11月1日

「仁川通信(十月廿三日特発) 仮眠子

(中略) 東徒征伐我兵一小隊を派遣したる事は既に報せり,尚ほ韓廷よりは五百余の兵員を派したりと。」

同日の「電報」欄の「東徒破獄す」

利川の獄舎に繋がれていた「東学党十余名」が破獄逃走を試み,「監守兵曹」が銃殺したとする。同欄のもう一つの記事「東徒金山に集る」は,東学数千人が金山付近に集り,守備兵が撃退したが,「兵站指(ママ)令部傭濱田カンユウ氏戦死したるよし」と戦死者を報じた。

11月3日

第1軍山県司令官、大本営に「制清三策」(積極的冬季作戦)を上申。大本営は既占領地での冬営を命じる。

11月3日

第2軍第1師団金州街道支隊、劉家店を発し蒼家店着。第1師団主力は貔子窩を発し、典家店・窪子店間に到着。

11月3日

狩野亨吉が漱石を訪問。

11月3日

仁川にいた新聞『日本』記者の鳥居素川は,10月26日発の記事(『日本』11月3日) で,東学農民運動について,「慶尚今年凶□にて無頼賤民の徒之に応ずるもの多し」と,慶尚道の凶作が人々を困窮に陥れ,それが清国人よりも日本人排斥に向かっている理由だと説明。また忠清道槐山で蜂起した「東学党一千余名」によって「我憲兵南海某氏鎮撫として赴き直に殺されたり」と報道..

11月4日

第2軍第1師団金州街道支隊、始めて清軍と遭遇、陳家店北方高地を占領。第1師団主力は大黄庄・李家店・楊家店間に宿営。

11月4日

恭親王、英米独仏露の公使に朝鮮の独立・賠償支払を条件に日清戦争の休戦調停を要請

11月4日

『日本』11月4日の「東学党追討」

晋州地方から「生擒の東学党十三名」を護送してきたが,「晋州より河東附近」には「数千或は数百」がすぐに集まり,「未だ全く鎮定に至らず」の状況で,釜山には一小隊半の守備隊しかおらず,「若し相成ることなれば今一中隊の増加を得ば充分の運動を為すを得ん」と。、山兵站司令官今橋少佐は兵力の増派を求めた,と報じた。

11月5日

午前6時、第2軍第1師団復州支隊、千家屯を出て竜口に向う。午前6時30分、師団前衛、蒼家店を発。午前7時、師団本隊、大黄庄を発。金州城前の清軍陣地を陥落させるため、乃木少将は歩兵第1連隊を率い破頭山をめざす。

6日午前6時45分、破頭山を占領。この頃、劉家店支隊は陳家屯付近の清軍陣地を破る。金州城外の清軍陣地を全て占領

11月5日

米、国務長官グレシャム、栗野慎一郎公使に調停の意を表明。報告を受けた陸奥外相はまだ早いと判断。しかし、各国公使(駐露西徳二郎、駐英内田康哉)は列強はこれ以上の戦争継続には反対との報告。

11月6日

午前7時、第2軍第1師団本隊、乾家子を発。十三里台に到着して金州城攻撃を指令。西少将の歩兵第2連隊は、西崔家屯に進み北壁上の清軍を攻撃。午前9時、砲兵第5中隊も北壁を砲撃。この頃、歩兵15連隊が城東北の丘を占領し砲兵第6中隊が東壁を砲撃。更に、歩兵第1連隊第1大隊が東壁を攻撃。

9時30分、清兵が西壁より退却初め(旅順へ)、応戦なくなる。予備隊の歩兵第3連隊は清軍を追撃。10時10分、歩兵第2連隊が北門から城内突入。11時、歩兵第1連隊も東門から進入。金州城陥落。午後4時、第2軍司令部、金州城南の第1師団司令部に到着。

12日、金州に民政庁開設。

11月6日

『日本』11月6日の「東徒を撃退す」

11月3日、瑞興付近で二千余名の東学と2 個小隊が衝突し,少尉以下4名の負傷,1名の即死となったが,撃退したという。

11月7日

~8日未明、第1師団の河野大佐の隊と乃木少将の隊、抵抗なく大連湾の清軍諸砲台を占領。

11月7日

この頃、北接東学農民軍は,約4万と推定される大軍を,忠清道,江原道(カンウォンド),京畿道(キョンギド),慶尚道などから,北接の本拠である忠清道報恩などの地域へ集めた。北接指導部は,この東学農民軍を,二手に分けた。

一手は,全羅道の全琫準指揮する南接東学農民軍主力と連合するために公州へ遠征した勢力である。その指導部には,利川(イチョン)や安城(アンソン)などを本拠とする京畿道東学農民軍がいて、公州で「南北接連合東学農民軍」となる。この南北接連合農民軍は,日本軍と朝鮮政府軍(日本軍第2中隊長,森尾雅一大尉が指揮)の合同軍と第2 次東学農民戦争の最大の激戦,公州戦争を闘う。

もう一手は,忠清道報恩などの地域守備隊になる北接東学農民軍であった。忠清道東学農民軍地域守備部隊は、報恩,文義,沃川,さらに永同(ヨンドン)や黄澗(ファンガン), 青山(チョンサン)など山岳部各地を根拠地とした。この北接東学農民軍地域守備部隊も約2万の大勢力を編成した。

この忠清道,北接東学農民軍地域守備部隊と日本軍討伐隊,大隊本部第3中隊が,文義(ムニ)と沃川,懐徳(フェドク),青山,永同など山岳地域で激戦を闘うことになる。忠清道文義・沃川の大渓谷を中心とする山岳部における第2 次東学農民戦争である。

11月8日

仮名垣魯文(65)、没。


つづく

「平和を望むことの何が脅威なんだ?」米ラッパーが新曲でガザ停戦を要求。デモをする学生に連帯 シアトル出身のマックルモアが、新曲でガザ地区への攻撃や政治家、音楽業界を批判し、声を上げる学生を称えた(ハフポスト日本版) / 米ラップ歌手マックルモア、学生デモ応援の新曲を発表(CNN) / HIND’S HALL. Once it’s up on streaming all proceeds to UNRWA. (Macklemore) ; マックルモアーの新しい曲 『ヒンドズ・ホール』 「バリケードで封鎖せよ パレスチナが自由になるまで」 / マックルモアー、イスラエル&アメリカを痛烈に批判する新曲公開「この業界で唯一、耳を傾ける価値がある」 / 日本語訳      

 

2024年5月8日水曜日

なだ万(みなとみらい インターコンチ)でランチ ぷかり桟橋とオランダの帆船スタッドアムステルダム グランモール公園のメタセコイア並木とケヤキ並木 2024-05-08

 5月8日(水)はれ

久しぶりにみなとみらいの「なだ万」(インターコンチ)でランチ。








▼帰りは、横浜駅東口まで歩きで。
インターコンチ裏のぷかり桟橋とオランダの帆船スタッドアムステルダム。

▼グランモール公園(横浜図書館近く)のメタセコイア並木とケヤキ並木



〈朝ドラ『虎に翼』〉 『虎に翼』現象を制作陣はどう見ているのか。「自分ごと」にさせる「NHKの集合知」(田幸 和歌子 FRaU) / 朝ドラ『虎に翼』朝鮮半島からの留学生・崔香淑と兄が連行された理由は? 「特高」と「治安維持法」とは 男爵令嬢・桜川涼子が志半ばで婚約した事情 徹底的な男尊女卑を定めた「華族令」とは?(歴史人) / 千田稔『明治・大正・昭和華族事件録』 / 鄭鍾賢『帝国大学の朝鮮人』 



 

ドイツ陸軍、日本と初訓練へ 中国にらみ、来年にも(共同)

 

大杉栄とその時代年表(124) 1894(明治27)年10月28日~31日 後備歩兵独立第19大隊長南小四郎少佐に渡韓命令 第5師団、鳳凰城占領 第1軍山県司令官、安東着 一葉、禿木から尾崎紅葉校訂本『西鶴全集』を借りる(「大つごもり」「たけくらべ」「わかれ道」などに影響)

日本軍の電信線を切断する東学農民軍(岐阜日日新聞1894年10月6日号1面掲載)

大杉栄とその時代年表(123) 1894(明治27)年10月21日~27日 日本、英の講和条件打診を拒否(日本の領土的野心に対する懸念) 第3師団、鴨緑江渡河し九連城・安東県占領 第1師団、遼東半島南西岸上陸 可興他で北接東学農民軍の日本軍への一斉攻撃 井上馨公使、漢城着任 川上操六兵站総監命令「東学党に対する処置は厳烈なるを要す,向後悉く殺戮すへし」 より続く

1894(明治27)年

10月28日

花園口に上陸した第2軍第1師団長山地元治中将、1支隊で貔子窩占領。

10月28日

「南部兵站監部陣中日誌」10月28日条にあるソウルの井上馨公使への報告電報


「利川の獄舎に繋きありし彼徒(東学農民軍) 十名は,破獄逃走を企てたるを以て之を銃殺せり」


大本営が東学農民「ことごとく殺戮命令」を出したのが10月27日夜で、その翌日夜8時50分,仁川兵站監の日本公使館宛電報に「昨夜来の情況」の一つとして利川監獄東学農民軍10名銃殺が報告され,のち大本営にも報告された。

その4日後,利川兵站守備隊,田中大尉は,電報で,こうした銃殺を行った利川兵站部を「優勢の東学党(北接東学農民軍)」が襲撃しようとしているという電報を,仁川兵站監と兵站線守備隊司令官,可興(カフン)の福富大尉らに報せて利川に援軍を送らせる。

10月28日

後備歩兵独立第19大隊長に任命された南小四郎少佐、渡韓命令を受ける

10月28日

『東朝』10月28日の第一面「東学党跋扈」は、「竹山牙山鎮川及び全羅道咸悦扶安古阜,慶尚道開寧星州にも同党集合」という。第二面の「東学党の襲撃」では、25日朝「東学党二千余人」が安保兵站部を襲い,守備兵38名が苦戦の末撃退したという。

第二面の情報は,現地部隊からの「電報十月廿六日午后三時五十分聞慶発/仝四時十五分釜山発/仝五時着」 (5時に広島の大本営に着電) と一致する。

『日本』は10月28日付で,これを報じた。10月27日付『日本』は,「東学党の来襲」と題し,1000人の東学党が可興の我が兵站部を襲撃するため,可興東方の「モツケイ右岸迄」襲来したが撃退した。その際1名の憲兵が戦死したという。

10月29日

第5師団前衛立見旅団、抵抗なく鳳凰城に入城、30日占領

(25日、宋慶ら清国軍、鳳凰城に退却するが、兵力弱く、29日に退却、11月1日頃、摩天嶺に着く。)

10月29日

漱石、狩野亨吉を訪問。

10月30日

一葉に小林愛より手紙。神戸の親元に帰っていたが、「広瀬武雄が家督を継ぎ、晴れて結ばれるのを待っており、銘酒屋浦島やへの借金は返済された」とのこと

10月30日

『東朝』10月30日付「東学党に係る報告」(第二面) は,可興・安保など兵站部を狙って攻撃が続き,水原では逮捕者の奪還情報もあり,部隊を適宜派遣していていると報道。

この日は第五面にも東学の詳しい情報が「朝鮮暴徒に関する報告」として掲載。22日に釜山兵站司令官今橋少佐からの電報で,「全羅道より侵入の東徒」は「人員は確知するを得ず」で錯綜しているが,「諸種の徴候に由て推測を下すときハ四五千に上らざるべし」という大規模なもので,「首領ハ金商圭及び金溝人の二名にして尚此二人ハ全羅道にある河孫中金彔斗二名の指揮を仰ぎ居れり」と指導者を名指しする。この鎮圧のため,たまたま釜山港に入ってきた商船白川丸を徴発し,守備兵の内遠田中尉の二小隊藤阪少尉の一小隊憲兵二名朝鮮国監理衙門の官吏二名同巡査十五名」を乗船させ,馬山浦に向かわせた。

10月30日

ドイツ保護領東アフリカ、ヘヘ族の反乱鎮圧。南西部のヘヘ族は、待ち伏せ攻撃でドイツ軍を壊滅させ、ヘヘ族首都カレンガを12kmの防壁で囲む。この日、総督シェーレの討伐軍、カレンガを陥落。首長ムクワワは後4年間ゲリラ戦を継続するが追いつめられて自殺。 

10月31日

第1軍山県司令官、安東着

10月31日

清軍、金州防備の部署を定める。李鴻章配下の徐邦道は東路、同じく趙懐業は大連湾、奉天将軍裕禄配下の連順は金州城。

10月31日

『日本』10月31日付「東徒集報」は,全羅道咸悦県に赴いた日本商人2名が「東徒の為めに暴行を蒙む」ったとし,大邱府から青州に斥候に出た日本兵が「暴徒」11名を「生擒した」とする。

10月31日

漱石の子規宛手紙


小生の住所は先 殿(ママ)通院の山門につき当り左りに折れて又つき当り今度は右に折れて半町程先の左側の長屋門のある御寺に御座候浄土宗の寺にて住持は易断人相見抔に有名な人望田立本といふ 図にて示せば

(図)

大略右の如し午後は大抵閑居す必用なければ何処へも出ず隣房に尼数人あり少しも殊勝ならず女は何時までもうるさき動物なり

尼寺に有髪の僧を尋ね来よ

三十一日 夏目金之助

正岡賢契 座右


10月下旬

一葉、平田禿木から『帝国文庫』の尾崎紅葉校訂本『西鶴全集』上下を借りる。「大つごもり」、「たけくらべ」、「わかれ道」などに西鶴文学の影響現れる

10月18日付の禿木の一葉宛て書簡で、「御約束の鶴(西鶴)全集近きに持参いたすべく」とあり、文学界雑誌社発行『透谷集』も、星野天知の寄贈として届けると書かれている。尚、この年7月、尾崎紅葉・渡部(大橋)乙羽校訂『西鶴全集』(帝国文庫第23・24編、博文館)上下2冊本が風俗壊乱を理由に発売禁止となっている。

つづく

年収300万円じゃ働けない 円安ニッポン、見放す外国人 円安にもほどがある① - 日本経済新聞  / ステーキ店の倒産、過去最多 円安で苦境 米国産、5年で価格1.4倍に サラダ野菜の高値も響く(帝国データバンク) / 止まらぬ円安 危機収束の責務果たせ(神奈川新聞);「日本経済を襲っている円安インフレが極めて深刻なのは、この事態に対処できる有効な手だてを政府・日銀がほぼ失っている点だ」 / 5月の食品値上げ 417品目 大半の要因は原材料の高騰(NHK) / 5月の食品値上げ率、31%に(神奈川新聞) / 日銀総裁は、こう言ってますが、、、 ⇒ 円安「物価上昇に影響なし」 日銀総裁、当面は緩和継続(4/26共同)



 

2024年5月7日火曜日

防衛費に充てる建設国債1.2倍に 「不文律」破り今年度5千億円超(朝日);「歴史を見ると、戦費を容易に調達できる国家が戦争をしてきた。戦力不保持を定める憲法の規定は、財政面から侵略戦争の放棄を実効化するため。財政法が投資以外の借金を禁じたのもこの精神の反映だ。建設国債の防衛費充当を認めた岸田政権は一線を越えた」と石川健治東大教授



 

【中国にらみ安保連携強化―日仏首脳】『2日、岸田はマクロンと会談し、自衛隊と仏軍の相互往来を容易にする円滑化協定締結に向けた交渉入りで合意』 「中国にらみ」と言ってるけど、今日マクロンは習近平と会談し「ウクライナや中東について、中国との連携は不可欠だ」と表明している。  

ピュリツァー賞特別賞 ガザを取材する全ての記者が受賞「異常な数のジャーナリストが命を落とした」 (TBS) / ガザ取材記者に特別賞 ピュリツァー賞、勇敢さ称賛(共同) / ピュリツァー賞にガザ地区の惨状伝えた報道 各部門で受賞(NHK)

大杉栄とその時代年表(123) 1894(明治27)年10月21日~27日 日本、英の講和条件打診を拒否(日本の領土的野心に対する懸念) 第3師団、鴨緑江渡河し九連城・安東県占領 第1師団、遼東半島南西岸上陸 可興他で北接東学農民軍の日本軍への一斉攻撃 井上馨公使、漢城着任 川上操六兵站総監命令「東学党に対する処置は厳烈なるを要す,向後悉く殺戮すへし」    

 

井上馨

大杉栄とその時代年表(122) 1894(明治27)年10月10日~20日 第1軍混成立見旅団、義州占領 清軍、九連城を中心に防禦配置 第7議会、広島に召集(挙国一致体制) 内相井上馨、朝鮮駐在公使任命 北接東学農民軍の第1回蜂起 陸軍大将大山巌、第2軍司令官として出征 第1軍、鴨緑江畔に到着 より続く

1894(明治27)年

10月21日

江戸川乱歩、誕生。

10月22日

午後5時37分、庄内地震。マグニチュード7.3、死者・行方不明者726人、全半壊6255、焼失2148

10月23日

政府、イギリスの講和条件打診に拒否の回答。世界は、日本の戦争目的が単に朝鮮の領土保全や戦費賠償でないことを認識。(朝鮮の保護国化、旅順を含む中国領土分割の野心を認識し危惧を抱く。後年の「三国干渉」の道開く)。

陸奥はイギリス公使の質問に答える為に講和条件を起草。甲案は、日本の望む「極度」を明言し、朝鮮の独立(事実上の保護国化)、旅順と大連湾の割与、軍費賠償、欧州諸国と同一特権を保証する通商条約承認を条件とし、乙案は、列強の干渉を緩和する為に朝鮮独立の列強による共同保障を認め、旅順と大連の割与の代りに台湾を要求し、他は同じという案。伊藤首相は甲案に同意する、占領していない旅順・大連割譲と軍費賠償は作戦進行の後に宣言するのがよいと注意。

この日、陸奥はイギリス公使の催促をうけて、「事体ノ進歩ヲ以テ尚ホ未だ談判上、満足ノ結果ヲ保証スルニ足ラズ」と回答、事実上イギリスの申出を拒絶。列強は、この回答で日本の戦争目的が清国分割にあることを知る

10月24日

午前11時10分頃、日本軍第1軍第3師団佐藤支隊第2大隊第5中隊、内杜武谷の地点で鴨緑江渡河開始。11時47分、渡河完了。左岸に展開・前進し、後続の第6、7、8中隊と共に左岸占領。夜6時より静波門北方で架橋工事開始、25日午前6時完成(全長193m)。

他方、24日午後11時30分、歩兵第6連隊は船3隻で渡河(25日午前5時30分完了)し、虎山の清軍守備隊を攻撃。清軍には聶や宋らが派遣した新鋭の援軍が続々到着。日本側にも歩兵第12連隊が応援。午前10時30分~午後0時20分にかけて、清軍は退却。

10月24日

日本軍第2軍(陸軍大臣大山厳大将)第1師団遼東半島南西岸花園口に無血上陸開始。~11月1日。

10月24日

貔子窩で海岸防備している栄安、花園口付近に日本船停泊の報に斥候派遣、日本人通訳を捕え上陸状況を知る。25日夜、別に捕えられた通訳と共に金州に送られる。金州で再度取調べ、日本軍が金州・大連を目指すのを知り、徐邦道・趙懐業は北洋大臣李鴻章に報告、来援要請。

10月24日

日本軍洛東兵站部,東学農民軍約4000名が丹陽へと蜂起し,丹陽府を占領したと報告。これは,北接東学農民軍の一斉蜂起,安保・忠州・可興などへの襲撃の前哨戦。

10月26日

可興・忠州・安保(アンボ)における北接東学農民軍の日本軍への一斉攻撃

可興では,東学農民軍「東学党約二万人許」が牧渓東部,可興の東南2キロの内倉(ネチャン)に集結し,「正に可興(日本軍兵站部) を襲はん」とした。牧渓東岸まで進出した「約七八百名許」の東学農民軍の先陣と日本軍と,可興戦闘が行われた。対岸で「一人首領の如きもの青旗を振ひ叫号して令を伝ふるものの如し」。銃撃戦で撃退したが,日本兵憲兵上等兵一人が戦死。

これらの一斉蜂起や戦闘は,日本軍広島大本営が後備第19 大隊を日本から派遣する作戦をたてる要因になった。

10月26日

午前6時、日本軍第3師団前衛より、九連城に向けて出発。前夜、九連城の清軍は退却しており、これを占領。

一方、午前6時50分、安東県北方高地の清軍砲台を砲撃。応戦なし。ここも前夜退却。

九連城・安東県は戦わずに占領

10月26日

新公使井上馨、漢城着任。大鳥公使・大院君との関係清算。「右に大院君を斥け、左に王妃を抑える」政策。28日、信任状捧呈。

11月4日、国王謁見。閔妃も屏風を半ば開き会談に参加。井上の大院君批判に、王夫妻は王権復活・閔氏一族復帰を期待。

10月26日

『東朝』10月26日の「東学党追討」。「韓廷の嘱託に応じて東学党征伐の為め」日本軍2個小隊を忠清道に派遣したと報じる。

10月27日

午後8時15分、第3師団大迫支隊、大東溝を占領。11月1日、大孤山を占領。

10月27日

夜,仁川(インチョン)南部兵站監が受信した大本営の川上操六兵站総監電報に、「川上兵站総監より電報あり,東学党に対する処置は厳烈なるを要す,向後悉く殺戮すへし」とある。この広島の大本営からの命令は,東学農民に対して,厳しく激(烈) しくせよと,またこれから「ことごとく殺戮」すべし,という明確な命令である。

10月27日

『東朝』10月27日付の第一面トップの「鴨緑江戦報」で紙面中央のほぼ一段に「東学党の近状」が掲載。

釜山の特派員からのこの記事は,「真の東学党」と「類似東学党」を区別し,別個の対策を求める。記事が示す「東学党」の姿は,武器は火縄銃や槍刀など不十分なものだが,「概ね帽を戴かず只浅黄色の布片を頭に纏ひ肩より背に懸け同じ色なる襷をあや取り,中にハ胸に数珠を懸けし」など統一した集団を想像させる。「類似東学党」であっても,貧民たちが食にありつくために蜂起したことを「一揆の如きもの」と形容するなど社会矛盾の結果としての蜂起を受け容れているように読める。この記事によっても,慶尚道・忠清道・全羅道の各地に東学農民運動が広がっていることがわかる

10月27日

『日本』10月27日付「東学党の近状在釜山空々亭主人」では、この記者が,「知人の我軍兵両三名と忠清道より鳥嶺の険を踰え慶尚道尚州に出で大邱を過ぎ密陽を通り当港に帰り来りたる」を聞き取った内容の記事である。

その談話は,「進んで日本人に害を為さんとする者なく」,「敢て日本人を襲ふに非ずして官衙を襲はん為めなり」「現今起り居る東学軍は,忠清道に於けると慶尚道に於けるとを問はず,日本人に向て言ふ時には,貴国は我々に対し害を為せしに非ず,故に貴国人に対しては怨恨なし,全く関係なきなり,何を苦んて貴国人に向て害を為さんや,我々に起りし所以は我朝鮮国の酷吏を懲らすにありと云へる」とあって,排外主義でなく,日本人排除もなく,朝鮮政治改革派としての東学軍が描かれている。そこからこの記者が判断したのは,「今回蜂起の東学軍は本年五六月中に起りし東学軍の首領再ひ起て指揮するに非ざるが如し。即ち貧民或は無頼の徒相集り今回の擾乱に乗じ種々乱暴なる挙動を為すに過ぎざるが如し。」と,5 月全州占領に至った東学農民運動と,9月から蜂起した民衆を完全に区別している。改革派の東学農民運動には期待感すらあるので,この記事の末尾は「東学軍の方針目的を世人に紹介する亦た遠きにあらざるべし」,近々記事にするだろうという楽観論で結ばれている。


つづく

【パレスチナと連帯するアメリカの大学生たち-Ⅱ(5月1日~)】 「大学は最早パレスチナ人殺害の共犯でいられない。ラファに手を出すな」とハーバード・パレスチナ連帯委員会 / 「MIT(マサチューセッツ工科大学)の抗議者たちはガザ連帯キャンプを再建し、その周りに人間の盾を形成した。」 / 米各地の大学で卒業式 反イスラエル抗議デモの逮捕者2100人に / ミネソタ大、イスラエル関連軍需産業関連企業からの投資を撤退することで学生側と合意 / ハーバード大学、学生らがイスラエルによるガザでの虐殺に抗議してダイイン / カリフォルニア大学リバーサイド校、 透明性の確保と投資引き揚げに向けた開かれた議論の実施、イスラエル留学の中止が合意 / NY教育省(DOE)は、コロンビア大学当局が「反パレスチナ差別とハラスメント」で、連邦政府の調査を受けていると発表 / UCLAキャンパス、5月2日朝。連帯テント村は粉々にされた。夜の間に100名の学生が拘束された / 抗議活動を続ける🇺🇸アリゾナ大学の学生や若者そして地域住民 / 全米大学デモ、逮捕1500人超(⑤/2共同) / ニューヨーク市民が、同地フォーダム大学の学生が占拠している区域の外に集結し、「君たち学生諸君は我々の誇りだ」とのスローガンを連呼 / コロンビア大学に警察突入 親パレスチナデモ参加者を拘束            

 


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【パレスチナと連帯する学生たち(アメリカ以外)】 イギリス ;「今朝、オックスフォード大学学生たちが連帯キャンプを設置した。 / ■フランス ;「ガザよ、ガザよ、ソルボンヌはガザと共にあります。」 / 仏パリ政治学院の学生らが、パレスチナ支持運動を開始 / 6日、全国のリセ数十校がガザ停戦を求め閉鎖 / 高等師範学校(ENS)がパレスチナ支持の学生によってバリケード封鎖 / ■ドイツ ; ベルリン自由大学にもガザ連帯キャンプが設置される / ■オランダ ; アムステルダム大学。パレスチナ連帯運動は今日から始まった。 / ■スペイン / ■スイス       



■イギリス

 

 

■フランス

 

 

■ドイツ

 

 

■オランダ

 

■スペイン

 

■スイス

 

「高利貸し」疑惑に反論の中条きよし議員 「金利60%で1000万円」契約書が物語る“義理人情”とは思えない貸し付けの実態(NEWSポストセブン) / 維新・中条きよし議員の『金利60%』貸し付け疑惑…事務所側が否定『契約書に利子記載なく…無利子で貸し付け』(TBS) / 「誰も注意できない」中条きよし議員“違法貸し付け”疑惑 政治生命はおろか「タレント生命もアウト」(Friday) / 中条きよし参院議員に松井一郎氏が通告「潔く辞職すべき」「違法金利はダメ」(東スポ) / 中条きよし参院議員「金利60%で知人に1000万円」高利貸し 「出資法違反の疑い」との指摘も / 中条きよし・維新参院議員 芸能活動引退のはずが「カラオケ大会」で“おひねり営業”の現場 / 過去にはコレも ⇒ 維新・中条きよし氏、国会質疑で新曲PR 発言取り消しを検討(朝日) / 35年間“年金未納 中条きよし議院 深く反省  

 



維新の議員、レベル低過ぎ! → 松井一郎市長「中条さんなりの洒落を利かせたつもりなんですけど…就任されて半年も経たないんでね。参議院議員として少しずつ能力を上げてもらいたい」 ← 敬語を使う程のお方なんだ! / 維新・中条きよし議員「私の新曲買って」 国会質疑でまさかの“宣伝発言” ラストディナーショーもPR(FNN) / 中条きよし氏、国会で新曲とディナーショー宣伝 「不謹慎」と批判(毎日) / 維新 中条きよし議員「私の新曲が9月7日に出ております。昭和の匂いのする『カサブランカ浪漫』という曲でございます。ぜひお聞きになりたい方はお買い求めください。そして、12月28日に中条きよしラストディナーショーというものをやります。ぜひ機会がございましたら」


またまた維新! → 年金保険料“未納”報道 中条きよし議員「記憶にない」(日テレ) / 「僕は噓をつきませんから」維新・中条きよし議員 年金未納報道に対して「事実関係を確認して報告する」(TBS) / 「もらう気ないから払わない」中条きよし議員が750万円“年金未納”か 党代表も「政治家として非常識」(FNN) / 中条きよし参院議員「年金保険料750万円未納」報道に《議員資格なし》と怒りの声が殺到!(日刊ゲンダイ)






 



 

市長の方針に異論唱えたら処分…元校長が7日会見、教育現場への政治介入に危惧「発信し続けることが大事」(東京新聞); ◆定年退職後、人権侵害救済を申し立て ◆「大阪だけの問題ではない」 ◆脳裏をよぎる戦前の暗い歴史

 

2024年5月6日月曜日

消えゆく町の書店 10年で50店舗以上が消滅 4割の自治体に“書店がない”青森県 「30分かけて来た」「残念だけど受け入れるしか…」現状とその背景(TBS); 青森県弘前市の中心部で営業を続けてきた「ジュンク堂書店」が、4月30日で12年の歴史に幕を閉じました

 

大杉栄とその時代年表(122) 1894(明治27)年10月10日~20日 第1軍混成立見旅団、義州占領 清軍、九連城を中心に防禦配置 第7議会、広島に召集(挙国一致体制) 内相井上馨、朝鮮駐在公使任命 北接東学農民軍の第1回蜂起 陸軍大将大山巌、第2軍司令官として出征 第1軍、鴨緑江畔に到着    

 

広島臨時仮議事堂

大杉栄とその時代年表(121) 1894(明治27)年10月1日~5日 虚子・碧梧桐、仙台第二高等中学校を退学して上京 古川釜山兵站司令官インタビュー(「日本」) 西園寺公望(44)文相 第2次甲午農民戦争(全州・光州の農民軍、全羅道参礼に集結・蜂起) より続く

1894(明治27)年

10月10日

東学参礼集会、再蜂起論争

10月10日

~17日、日本軍第1軍混成立見旅団、義州占領

10月10日

川上音二郎(30)、横浜・港座で「日清戦争」を興行。~21日。以来しばしば港座で興行。

10月10日

この頃、一葉、何度も借金依頼のため訪ねた村上浪六から、用立てを約束する手紙をもらう。

10月11日

急援軍の宋慶の毅字軍、九連城入り(29日旅順、8日鳳凰城)。

13日頃、黒竜江将軍依克唐阿、九連城入り。清軍の九連城を中心とした葦子溝から安東県に到る防禦配置確定。尚、葉志超提督・盛字軍統領衝汝貴は官職を奪われ、葉の軍は聶士成が後継。

10月12日

『東朝』10月12日付の「東学党の近状」

「洛東附近各兵站司令官の報告」では「豊基,丹陽報恩郡地方ハ尚該党の巣窟にして支那人数十名加はり居る由」と清国人の存在を報じ,「牙山残兵」の想定や「報恩地方其他にて支那人を合せて十二名を捕縛し今仁川に護送中」と報道。

洛東江の中心地洛東の東にあたる安東県醴泉・龍宮あたりは鎮圧したが,西にある豊基,丹陽,報恩辺などは未だ鎮圧できず,それに清国人数十名が加わっているという。これらの地方は清国軍が駐屯していた牙山から直線距離で約80kmである。日本軍にとって,ますます東学農民運動制圧の必要性が増してきた。

10月15日

第7議会、広島に召集。

9月15日、大元帥である明治天皇が大本営のある広島に行幸し、「当分の間」滞在することになり、第4回総選挙結果をうけた帝国議会も特例として広島市で開催することとなった

18日開院。23日閉会。臨時軍事費特別会計法(明治27年6月1日に遡り~戦争終結)を可決し、これに基づく第1次予算案1億5千万、交付。その他、公債募集に伴う法案など全ての議案が通過。議会の広島開催は戦争遂行のための挙国一致を作り上げるのに役立つ。翌年3月、第8通常議会で臨時軍事費予算1億円を追加交付。

10月15日

内相井上馨、朝鮮駐在公使任命。

16日、福沢諭吉「井上伯の渡韓を送る」(「時事新報」)。

10月16日

北接東学農民軍の清州付近,第1回蜂起

この日、北接東学農民軍が行動開始、清州地域に集合し、22日,清州城を襲撃,4日後,26日に敗走する。しかし、この蜂起に敗北した後も,北接東学農民軍は,報恩その他で活動をつづけ勢力を集める。

10月16日

陸軍大将大山巌、第2軍司令官として出征。

10月16日

漱石、菅虎雄の世話で小石川の尼寺法蔵院(現小石川3丁目、伝通院脇の別院)に下宿する。松山に赴任するまで(~明治28年4月2日)。

この日付けの子規宛てはがき。


「塵界茫々毀誉の耳朶を撲(うつ)に堪ず此に環堵(かんと)の室を賃して蠕袋を葬り了んぬ猶尼僧の隣房に語るあり少々興覚申候御閑の節是非御来遊を乞」


同日、狩野亨吉、大塚(当時小屋)保治にもはがきで通知。

狩野には、「所々流浪の末遂に此所に蟄居致候御閑暇の節は御来遊可被下候」

大塚には「遊子漂蕩の末遂に蠕袋を此所に葬り了り申候 御閑暇の節は御来会可被下候」とある。

狩野亨吉が訪ねてくる。この頃も毎日のように井上眼科に通う。

10月17日

10月15日、より釜山に近い地方の密陽付近で「暴民千五六百名蜂起」という大規模な暴動(「密陽附近暴民の蜂起」『東朝』10月17日号外)。伊藤兵站監から大本営宛の電報という形で発表されたこの記事は,暴民の「八名を斃し十名を傷く」という。ほぼ同じ記事が『日本』10月18日付にも「暴民蜂起」と題し掲載された

10月18日

北洋水師提督丁汝昌、修繕なった6隻のみ率い威海衛に移る。

10月18日

一葉、禿木より、近いうちに『西鶴全集』と、星野天知からの寄贈として『透谷集』とを持参するとの手紙を貰う。

19日、禿木より『暗夜』の続編を21日までに星野天知宛てに送るよう依頼される(結局締め切りには間に合わず翌月回しとなる)。

10月19日

文相西園寺公望、高等師範学校巡視での演説。西洋諸国の「開明進歩」と競ってともに肩を並べられる者は、東洋においては日本以外にないと、日本の優位について確信。

10月20日

~22日、日本軍第1軍主力、所串館・竜川・鉄山付近に到着。

24日、全軍、鴨緑江畔に到着

10月20日

漱石、狩野亨吉を訪問するが不在。

10月20日

『東朝』10月20日の第一面トップは「日本排斥党」で,『日本』同日付も「日本排斥党起る」という見出しでほぼ同じ文章を掲げた。『東朝』『日本』とも同じ大本営掲示第131号に基づき、「全羅道に彰義軍と称する日本人撃攘主義の暴徒起れり。」という情報により,「朝鮮兵と我兵数小隊派遣」を報じた。


つづく