2024年12月25日水曜日

大杉栄とその時代年表(355) 1901(明治34)年9月7日~10日 「気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。」(関川夏央)

 

子規『仰臥漫録』9月7日の「糸瓜」

大杉栄とその時代年表(354) 1901(明治34)年9月3日~7日 あと4,5ヵ月(翌年2、3月まで)は生命は保ちうるとの医師の答えを聞いて、兆民は失望し、「余近日ニ到り病大ニ増悪セルヲ以テ、我事当ニ一週ヲ出デズシテ終告(ママ)ヲ告グルナルべシト大ニ喜ビシガ、今又先生ノ言ヲ聞ケバ尚四五月ノ病苦ヲ忍バゲルヲ得ザルガ、是余ノ望ム所ニアラズ、請フ一刀患部ヲ截テ死ヲ早カラシメヨ」と(「一二珍奇ナル食道癌ニ就テ」)

1901(明治34)年

9月7日

この日の子規『仰臥漫録』に「糸瓜」の絵あり

9月7日

ロンドンの漱石


「九月七日(土)、 Morris (モリス)を連れて、 Hyde Park (ハイド・パーク)を散歩する。 National History Museum (博物展示館)に行く。」(荒正人、前掲書)


9月8日

この日の『仰臥漫録』に「間食」に食べた「菓子パン数個」の絵あり


更に、

「九月八日の午前十一時頃「苦み泣く」とあるのに、夕食には「焼鰯十八尾」と鰯の酢のもの、キャベツで粥二椀。食後に梨一つ。「焼鰯十八尾」には本人も驚いたらしく、わざわざ圏点を打ってある。」(関川夏央、前掲書)


9月9日

この日(9月9日9の子規『仰臥漫録』に「病牀所見」の絵あり


続けて、

「隣家に八石(はちこく)教会と云ふあり

八石ノ拍子木鳴ルヤ虫ノ声」

という句がある。


以下、「八石教会」なるものについて、森まゆみ『子規の音』より

八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。幽学は寛政に生まれ、諸国を流浪して、神道、仏教、儒教を一体とする「性学」を開いた。下総国香取郡長部村の農業振興を頼まれ、日本初の農業協同組合といえる先祖株組合を設立した。幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。

「教会の人はどこに行くにも決して汽車や人力車を用いない。どこまででも徒歩で行く。また髪を決して刈らない。どんな小さな子どもでも皆まげを結っていた。会員は主に農業についていたが、中には大工もあれば左官もあり植木屋もあって、これらの人たちは冬こそその職に忠実に働くが、その収入は全部教会に納めて一銭も私しない。魚は食うが肉は食わない。無論洋傘や外套を用いない。つまり明治になってからの文明は殆ど取り入れていない世にも変わった団体であった」(藤井浩祐「上野近辺」『大東京繁昌記・山手篇』) 

(略)

藤井浩祐は東京美術学校を出た彫刻家で、帝国美術院会員になったが、今では忘れられた。若いころは日暮里に住んでいた。同じくジャーナリストの下田将美も子供の頃見た八石教会について書いている。長いので要約したい。

創始者は遠藤良左衛門(亮規)といって「二宮尊徳そのままの人格者」である。下総の長部村字八石という小さな村に慶応年間、性学八石教会として発祥し、両総(上総、下総)に信者が多かった。「働け働け」「粗衣粗食に甘んじる」「他人のために尽くす」のが主眼で、説教を聞く間も手を動かし、生産物は平等に分けた・・・・・。なんだか引力がある解説だ。

それが東京にも広まって、根岸の「笹乃雪」付近と日暮里の佐竹の下屋敷を中心として明治十四、十五(一八八一、八二)年にはすぼらしい勢いになっていた。守旧であっても彼らの平和主義に明治政府は弾圧の手を伸せなかった。佐竹の原は今の道灌山の開成学園のある辺から田端にかけて(現在の荒川区西日暮里四丁目)、ここに信者の家が多く、皆黒い綿服を着、男はちょんまげを結い、女は同じ櫛を付けていた。彼らは熱心に炭団をこね、干していた。それを子どものころ下田将美は珍しいものに眺めた。

根岸には東京の八石教会の取締、石毛源左衛門という長老がいた。

彼が東海道石部の椿の教会支部に出かけるとき、東海道線がすでに通っているのに、山駕籠でいったそうである。

女は髪に真鍮のかんざしに黒檀の櫛と笄(こうがい)を飾り、それは皆池之端の「川しまや」に注文していた。

そこの主人は生粋の江戸っ子で、こう述べていたという。

「何しろ昔風の山駕籠に石毛先生がのってそれをかついでいる人が皆丁髷(ちよんまげ)の黒い綿服に脚絆(きやはん)穿(ば)きなのですからずいぶん人の目にも立つ奇妙な格好なものでした。石毛先生はもういい年でして無論ちょんまげ、懐には、昔を忘れぬ懐剣が何か一本ぶち込んでいるのです。・・・・・とにかくかわっていましたな、いったいこの八石教会の人には旧幕時代を憧れた人が多かったようでしたね」(下田将美『東京と大阪』)

正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。子規はそれ以上書いていないけれども。いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で、上野東照宮では彰義隊の幹部で、足の怪我のため上野戦争の当日、上野に入れなかった本多晋(すすむ)が宮司を務め、長く上野でなくなった同志を弔い、榎本武揚などもよく来たという。

根岸の八石教会は子規の死後、明治の末にこの石毛老人の死去により急速に勢力が衰えた。子規の隣のりっぱな石毛邸もなくなった。そこの人々は茶道をしたり、夜には拍子木を打っていたのだろうか。画家谷文晁の末裔のおけいさんという女性や、木内重四郎の父も教会員だったという。下田は慶応義塾を出て、時事新報記者、その後大阪毎日新聞社の幹部となった。昭和五年刊の『東京と大阪』では、大正期、郊外住宅地としての日暮里渡辺町の形成によって佐竹屋敷あとの信者たちは跡形もなく消えたと述べている。」(『子規の音』)

9月9日

仏、画家アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック(36)、没。

9月9日

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルク家出身のメキシコ皇帝マクシミリアンが革命派に処刑されたため、メキシコとの国交を回復(1867年以来断絶していた)。

9月10日

大日本労働団体連合会、結成。

9月10日

この日の子規『仰臥漫録』に安民(やすたみ)から贈られた蛙の置物の絵あり。



「九月十日には「便通、間にあはず」とある。律の準備に間に合わず粗相をしたということであろう。そのあと繃帯の取換え。号泣する。

しかし間食には、「焼栗八、九個 ゆで粟三、四個 煎餅四、五枚 菓子パン六、七個」を食べている。九月十二日にも繃帯換えの大騒動があったが、その日の夕食には鰻の蒲焼を七串食べた。ほかに酢牡蠣とキャベツで飯を一椀半。食後には梨一つと林檎ひと切れ。九月十三日の間食は、桃の缶詰三個と紅茶入り牛乳五勺、それに菓子パン一個と煎餅一枚である。

鰻の蒲焼と桃缶は岡麓が届けてきた。茶と林檎は虚子が一円を添えて使いに託した。気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。(関川夏央、前掲書)

9月10日

ゴーギャン(53)、夕ヒチを発ち、マルケサス諸島のヒヴァ・オア島に向かう。

16日ヒヴァ・オア島アトゥオナに上陸。


つづく


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